ラムネクラブ RamuneClub

  第六話 二つの事件が、過去から交わる



  義里カズ



     ◇1


 私がラムネクラブに入った最大の理由。それは、藤島佳奈《カナ》がそこに存在するから。

 夏休みが始まると同時に、私の前に現れた同級生。

 活発。猪突猛進。信念。行動。目的。理由。色々なものを持った、ひとりの女の子。

 私が持っていないものを、彼女は持っていた。

 彼女の登場により、ある感情が初めて私の中に芽生えたのだ。

 その感情の名はなんというのだろう。憧れ? 期待? 羨望? それよりも、もっと大きい。

「及ばない諦めが期待になるんだよ」

 どこかの小説でそんな台詞を読んだことがあるけれど、私は、今までの人生で初めて、この台詞に近いことを思ったのだ。

 私は、カナみたいになりたかったのだ、と。 


     +


- 08/06:夏季休暇12日目

 自業自得である。

 なにがって、私が。

「うう……」

 ベッドの上でうめき声を上げながら、枕元のティッシュを取り、鼻に当てる。今は何時だろう。カーテンが閉まってるし、頭痛もひどいから時間の感覚がない。

 断続的な電子音が左腕のほうから鳴る。右手で音の原因、体温計を引っ張り出す。体を横にしてベッドライトをつけ、温度表示の小窓を見る。

「……七度八分……」

 微熱とも高熱ともいえない、微妙な温度。とりあえず母が来るまでじっとしているべきか。ふと壁時計を見ると、まだ午前八時だった。それでも寝るしかない。

 風邪をひく度に、思う。こうして寝ている時間、一体何をして時間を潰せばいいのだろう。

 昨日、あの大雨の中をビニール傘一本で歩き帰ったのがまずかったらしい。

 玄関についた途端、大きなくしゃみが出た。寒い。体はびしょ濡れ、強風に晒されたあの状態では風邪をひくのに無理もなかった。

 お母さんには怒られた。シャワーを浴びてホットココアを飲んでも寒気と鼻水は止まらず、結局風邪気味のうちに寝ろ、と命令された。特に逆らう理由も見当たらず、ベッドにもぐりこんで風邪の症状がおさまるのを待つことになったのだった。

 寝始めたのは午後六時のことだったから、十四時間は寝たことになる。これ以上寝る気も起きず、頭の鈍痛と息苦しさに耐えながらベッドでじっとしていることにした。



 九時。十時。十一時。

 症状が浅いうちに万全の状態で睡眠をとったのがよかったらしい。お昼になるころには熱も下がり始め、とりあえず起き上がって移動できるほどには回復していた。

 雑炊を平らげる私を見て、お母さんは一安心したようだった。

「これなら明日は元気に学校に行けそうね。来夏《ライカ》」

 私は渋面を作った。

「うう、その台詞を聞いて熱が上がった気がする」

「なに言ってんの。今日夏期講習がなくてよかったと思いなさい」

 その通りだった。水曜、それに日曜は講習が休み。昨日である火曜の夕方に風邪をひき水曜に治ってしまう自分の体調が、この時ばかりは恨めしい。他の日に風邪をひけば講習を堂々と休めたものを。

 それでもまあ、頭痛に悩まされるよりはいい。午後もベッドの上でじっとしていた。

 リビングに夕飯が用意される頃には、ほとんど症状がおさまっていた。胃に負担をかけてはいけないと食事は卵雑炊だったけれど、体のほうは完全復帰。もう明日には風邪をひいたことすら忘れているだろう。よかった。

 さて。

 少し、考えていることがあった。重要事ではないが、とりあえずやっておきたい。

 ……ラムネクラブのことについて。



 ルーズリーフを一枚取り出し、一番上の行に「ラムネクラブ」と書いた。とりあえずの題名。

 次の行から、左端に日付を打つ。七月二十六日から、八月二十四日まで。これで夏休みの一行日記のようなものが出来上がった。

 こうしてみると、夏休みはほぼ一カ月か。数年前はもっと長かったらしいが、授業課程の変更などで毎年削っているらしい。そして今日は八月の六日。もう二週間弱、講習ばかりでほとんど遊んでいない。少しばかり泣きたくなる。

 さて、ここからは記憶力の勝負だ。思い出した内容を書き込む。

  7/27 ファーストコンタクト

  7/28 再会・ラムネクラブ結成

  7/31 岩波さん 怖い話の謎解き

  8/3  藍 妙な客の謎解き

  8/4  萌絵花 変な手紙の謎解き

  8/5  佳奈 昔の彼の謎解き

 ……こんなものだろうか。この夏休み前半の思い出、というより気になる点は。

 気付いたのは、寝ていた数時間前のことだった。

 私が体調を崩したのは昨日の大雨が大本の原因だけれど、もうひとつ遠因がある。この夏休み、なぜか私は「とても忙しい」のだ。ちょうど終業式の後から。カナと出会い、ラムネクラブという名のグダグダコンビを結成。そしてそれから、謎解きというには大袈裟にしても、頭を使う機会にいくつも遭遇。中には出先で話を聞いたのもある。

 ここまで小さな事件の解決に巻き込まれていれば、さすがに疑う。

 何か裏があるんじゃないか、と。

 そこで今こうして、これまでの出来事をまとめてみたのだった。……やはりここ十日ほど、色々なことに巻き込まれている。そしてそれらの厄介事の「依頼者」もばらばら。こうしてまとめてみなければ気付かなかったかもしれない。

 ぱっと見て、それぞれに関係はない。でもなぜか、引っかかる。

 おそらく、夏休み前の私なら、間違いなくこのような状況にはならなかっただろう。厄介事の手伝いなんてなによりも面倒だから。いくらパズルが好きだといっても自分から突っ込んでいく気力は私に無い。

 ルーズリーフをもう一度手に取り、眺めてから遠くに追いやった。

「……なぜだろう」

 部屋に漂った私の呟きは、誰にも聞こえない。



「なんすかいったい、急にセンチメンタルにでも浸ってアタシのところに電話かけてきたんですか、来夏」

「別に。……というかなによセンチメンタルって」

「えっと、感情?」

「それを言うなら感傷ね」

 私の突っ込みに受話器の向こうの真鶴藍《まづるあい》は笑う。口には出さないが、センチメンタルじゃなくセンチメンタリズムが正しい。再来年の受験生を舐めるな。

 藍の声は電話でもよく通っていて、聞くと彼女が変わっていないことを実感できる。たまにしか会っていなくても、どうにかこの忙しい中で頑張っているんだろうな、と。

「だって珍しいじゃないですか、来夏が電話かけてくるのなんて。というか初めてじゃないすか?」

 確かに暇だから電話をかける、という行為はほとんどしない。でもこれくらい、一端の女子高生なら誰でもやってることだろう。……似合わないのか、私には。一応これでも女子高生の一員なのだけれど。

「暇だったのよ、ただそれだけ」

「アタシが暇つぶしになりますかね」

「それは私も知らないけれど。……あのさ、なんか本持ってない? パズルとか、謎解きとか、そういうの。別に推理小説じゃなくてもいいから」

 風邪をひいている間暇で仕方がなかった。読む本が部屋にない。たいていのパズル本は解いたり答えを見てしまったので、すっかり壁のインテリアと化していた。息抜きにいろいろ読みたいので、せっかくだから手近な人に借りようと思ったのだ。夜八時に電話をかけるほどのお願いでもないが。

 藍は思い出すような唸り声をあげる。物音からして何か漁っているらしい。

「本、本……アタシそんな読みませんからねー。あ、知恵の輪とかありますよ。値段高いやつ」

「それはいいや。なかったら別にいいよ」

「本屋さんとか行けばいいじゃないですか」

「もう大抵の読んじゃったのよ。パズルの本ってそんなに多くなくて」

「へえ……」

 何やら思案している様子の藍の生返事。別の話をしようか、と思ったとたん、藍の声がつづいた。

「……じゃあ、本じゃないですけど、頭を使う話なんかどうすか」

「ん?」

「明日会えたらお話しましょう」

「なによその『頭を使う話』って」

「我らが高校に伝わる不思議な話、『五つ目の願い』です」

 私はその芝居じみた言葉を頭の中で三秒ほど咀嚼し、結局はこう言った。

「……なにそれ」



     ◆2


 あたし、藤島佳奈《ふじしまかな》が、「ラムネクラブ」というものを作った真の理由。

 それは。

 全てを、利用するためだった。

 そして、なにかに、期待するためだった。


     +


- 08/06:夏季休暇12日目

 やられた。

 報告を聞いて、あたしの心に芽生えた最初の気持ちは、悔しさだった。

 心からそう思った。

 確かに、気を抜いていた面はあったかもしれない。だが、この状況を予測できなかった。十日ほど前を思い出す。「万全の態勢」と思い込み、すっかり安心していたのだ。

 ……しかし、本当だろうか。そういうことがあるのか。未だに信じられない。

 この流れは絶対だと思われた。それに対して、あたしが立てた計画も絶対だったはずだ。あたしの手で全部を終わらせる。それだけだったはずなのに。

 悔しい。

 この気持ちをどこにもぶつける事ができなくて、あたしはまた唇を噛んだ。



 高校の美術室は、一階廊下を西に向かった突き当たりにある。

 この高校では一年生の時に技術授業選択で音楽か美術か選ばされ、それ以外ではほとんど授業が存在しないから、この美術室に入ったことがある人もせいぜい学年で半数程度だろう。

 そしてあたしも、この『事件』が無ければ、入ることもなかっただろう場所だ。

 日差しが入り込む廊下を歩きながら、クラスメイトの矢井田萌絵花《やいだもえか》が横から申し訳なさに満ちた声を出す。

「ごめんね佳奈ちゃん、せっかくの休みなのに」

 あやまられても、どうしようもない。萌絵花ちゃんの原因でもあたしの原因でもないのだから。

 廊下は昨日の大雨から一変、むしむしとした暑さに満ちていた。セミの声が耳に響く。廊下を二人で歩き進んでも誰ともすれ違わない。静かな午前中だ。

「それは別にいいけど。えっと、萌絵花ちゃん、確認だけど。気がついたのは誰だったの?」

「部長。ちょうどわたしが部活に出てないときだったらしくて、机の中なんてあまり気にしていなかったらしいの」

 机の中か。それならば仕方がない、と思い切れるのだろうか。

 本当に、どういうことなのだろう。この『事件』は一体どこへと向かっているのか。それをただ知りたくて、あたしはこの夏休み、ずっと行動し続けているのだが。



 美術室の空き席に座ると、シンナーのような匂いがより強く感じるのは、あまり入った経験がないあたしだけの印象だろうか。それとも、室内中に広がる美術品の雰囲気から醸し出された異様さが香りとなって現れたのかもしれない。

 今室内に居るのはあたしと萌花ちゃん、それともう一人。

「佳奈さん、見つけたのはこれなんだけれどね」

 向かいに座る美術部の部長、村越香奈枝《むらこしかなえ》先輩がそう切り出す。この部長、すらりとした体型と理知的な顔立ちから、あたしが見た限り運動部やら生徒会やらで活躍していそうなイメージしか持てないのだが、萌絵花ちゃんから聞くと絵画専門で美術部のエース、とのことらしい。まあ部長をやっている時点で普通の人ではなさそうなのは予想できる。活躍は耳にしたことがないが。

 すっと机の上に差し出された、手のひらサイズの紙。

 それだけで、総毛だつほどの悔しさが思いだされるようだった。

 俗に言う『犯行声明』である。

 小さく切られたケント紙。そこに描かれていたのは、そっけない鉛筆画。おそらく軽くスケッチしたものに薄く影を付けたしろものだろう。それでも、被写体の特徴や状況が楽に読み取れる。写実画としては、悪いものではない。

 被写体は、少し遠くから捉えられた道路。というよりおそらく、古びた金網だろうか。手前には短い雑草、それと横には並木。……ふうむ。

 これが今回の被害か。

 じっと集中して絵を見つめるあたしに、村越部長が説明を加える。

「その絵が見つかったのは今日の朝。この前使った資料を探していて、この矢井田が使っている机を覗いたらあったの。だからいつその絵が置かれたかは知らないわ」

 あたしは顔を上げて訊く。

「この場所に心当たりは?」

「調べてはいないけれど、おそらく校庭西側のテニスコートでしょうね。あそこ、緑色の金網で囲われているし、境目の向こうには道路もあるわ」

 横の萌絵花ちゃんが付け加える。

「その金網の近くは並木があって、美術部の絵画モチーフにもよく使うの。わたしが見ても、そこで間違いないと思う。あとで見に行ってみないと」

「それはあたしがやるからいい。……でも、これで四件目か」

 あたしの呟きに村越部長が腕を組んで唸る。

「そうなるわね。これがもし『犯人』の仕業だとしたら、だけど。これで破壊された箇所は四つ。西掲示板、北門の噴水、自動販売機、そして今回のテニスコート金網。……そしてそれは全て、美術部に関係している」

 萌絵花ちゃんの不安げな顔。

「そしてわたしの机にこれ見よがしにイラストが毎回載せられているし……。部長、もしかしてわたしがなにかしたんでしょうか……?」

「矢井田は悪くないわ。そしてあなたが犯人だとも思ってない。第一あなたは作品を仕上げるのにこれらの場所が必要不可欠でしょう。あなたが破壊したら本末転倒よ」

「じゃあ、誰が一体こんなことを……」

 嫌な空気になる二人に、あたしは言い放つ。

「引き続き調査は続けます。美術部の皆さんは引き続き製作を続けていてください。あと、また犯行声明代わりのイラストが置いてあったりしたら真っ先に知らせてくだされば」

 二人は頷いた。

「……ああ、じゃあよろしく、佳奈さん」

「わたしにもなにか手伝えることあったらすぐ言ってね、佳奈ちゃん」

 あたしの顔はまだ引きつっているに違いない。なにせ、被害をとめられなかったのだ。仕事としての探偵だとしたら間違いなく失格の烙印を押されているだろう。

 自分自身への怒りを必死で抑え、匂いのきつい美術室を立ち去った。



 さて、あたしは何をすべきだろうか。

 夏休みから始まり、またふりだしに戻った、この事件。

 「高校設備連続破壊事件」を解決するために、早急に次の手を考える必要がある。

 ……そうだ。必ずだ。

 あたしは、「自分のため」に、この事件を、終わらせなければ。



     ◇3


- 08/07:夏季休暇13日目

 次の日、いつもの午前課外が終わったお昼過ぎに、私は藍と待ち合わせた。場所は校舎西の購買部。扉の横で立っていると、向こうから藍が制服姿でやってきた。藍は課外講習を受けていないはずだから、わざわざ学校に入るためにセーラー服を着たのだろう。別に運動部のふりをすれば軽装でも大丈夫なはずなのに律儀なことだ。

「どうして待ち合わせがここなのよ、藍」

「いやあ、だって来夏はまだお昼食べてないじゃないすか、課外終わったばかりなんですから。購買部なら便利かなあって」

「私いつも家でお昼食べてるんだけど。学校に残る理由もないし。……ああ、つまり電話で話した話ってのは、学校に関係するわけ?」

 そう訊くと藍はにやりと笑った。

「さすがにするどいっすねぇ。まあ、とりあえずお昼にしますか。アタシもまだ食べてないんで」

 一人でさっさと購買部に入っていく。こういうところも藍らしいな、と思いながら後を追った。



 近くの空き教室、椅子に二人で座って、買いこんだ飲み物とパンを食べる。

 窓から校庭を眺めると、部活動に勤しむ後輩やバイクで南門から帰路につく生徒の姿が目についた。

 暑さに負けず守備練習をするソフトボール部の姿を見ているうち、思わず思考がもれ出てしまった。

「藍、いい加減その口調やめたら?」

 私の声に藍がびっくりした顔をする。

「な、なんすか急に」

「ほら、だからそういう敬語混じりっていうか妙に他人行儀な感じの言い方。変よ。私はもう慣れたけれど、他の人は戸惑うでしょう。カナだってこの前微妙な顔してたし」

 私の忠告にも苦笑いの藍。私がいっても仕方がないことは分かるが、どうも、なんというか。

「仕方ないすね。気にしないでいただければ」

「というかさ、どうしてそんな口調なわけ? 同級生相手にしか使ってないし」

「……これは、あれですよ。尊敬というか、羨望の念というか」

「羨望?」

「まあ、アタシのことはいいじゃないすか。それより、今回の話ですけど」

 はぐらかされた。……羨望ねえ。藍にだって他の人を羨む時があるのだろう。つまりはそれが口調となって現れているということか。同級生相手なのはどうしてなのか詳しく聞きだそうと思ったが、藍はもうこの話を終わりにしたいようだった。気まずくなるのも嫌だし素直にのっかる。

「結局、話ってなんなのよ。普通に『高校に伝わる不思議な話』とか言われたら、七不思議や学校の怪談しか思い浮かばないんだけど」

 藍は昨日の電話で『不思議な話』などと言っていたが、その詳細を尋ねてもはぐらかすばかりで、「明日説明します」としか言わなかった。

「まあ、この高校の七不思議のひとつだと思っていただければ。他六つは聞いたことないですけど」

 一つしかないのに七不思議とは言わない。黙ってコロッケパンを齧る。

「来夏も聞いたこと無いっすか? この『五つ目の願い』って結構有名すよ。西側階段の下で、ってやつ」

「ないわね。あいにくながら」

「そっすか。アタシも最初は興味なかったんですけど、あまりにいろんな所で噂話を聞くんでちょっと調べてみたんです。そしたら興味深い話が」

「なに」

 藍は私の様子を見て笑う。

「やっぱ来夏もこういうのに興味ありそうっすね。じゃあ早速現場に行きますか」



 藍の言う現場とは、一階西階段の裏だった。歩いて一分。なるほど、西にある購買部で待ち合わせたのはそういう意味もあったのか。

 西階段自体に興味はないらしく、藍はその裏側へとまわる。直角三角形で何も置けそうに無いデッドスペース。一体そんなところに何があるのか。

「こっちです」

 そういうと階段の下にもぐりこむ。手招きされたので仕方なく後に続くと、なにやらその壁に書いてあるようだった。

「……なにこれ」

 膨大な、文字群だ。文章の集まり。普通、落書きとかはワンフレーズだけちょこっと書かれたりするものだけれど、目の前の壁にはそのフレーズが何十も集まり、遠くから見れば円形に広がる汚れにでも見えるかもしれない。こんな端の壁を気にする人もいなさそうだけれど。

 じっと見ると、色々書いてあるのが分かる。『購買にコロッケパンを置いてください』『数学のテスト、赤点を免れるように』『スキー部に部室を』『田中君への告白がうまくいきますように』云々、願い事が沢山。字体もペンも違うからそれぞれ違う人が書いたのだろう。なんとなく寄せ書きにも見える。

「ふふふ、これこそが『五つ目の願い』って呼ばれるやつっす。ほら、ここを見てください」

 そうして横の藍が指差す先、擬似寄せ書きの中央には、一個の星マークがあった。

 他の落書きと違い、刃物か何かで深く刻まれ、黒色の線で形とられたその星印。親指大の大きさをしたそれは数多の願い事フレーズに囲まれている。むしろこのマークを中心に願い事が放射状に広がっているよう。

 藍の芝居がかった口調。

「星が書かれた西階段裏の壁。この場所に願いを書くと願いが叶うという伝説です。通称『五つ目の願い』。まあ大雑把に言えば、大昔にこの高校の生徒が志半ばで卒業してしまい、その無念をこの壁に星の印として刻んだらしいんすね。そしてその想いが時を経て、壁に書かれた願いを叶えるようになった、というお話。ディテールは都市伝説と同じでバリエーションはありますが、まあこんな感じです。部活動の先輩後輩関係とかで伝わっていくらしいですよ」

 ……それって。

「うさんくさい」

 なんだそれ、と思ってしまった。そんな噂話、今時中学生でもやるかどうか分からない。願いが叶う? もしや、この学校の生徒は皆サンタクロースを信じていたりでもするのだろうか。

 私のあきれっぷりが予想通りだったのか、藍がくすりと笑う。

「そう言うと思いましたよ、来夏なら」

「だってあるわけないじゃん、壁に書いたら願いが叶うなんて。そんなのあったら猿の手もビックリよ」

「ただの与太話だったらアタシも話さないっすよ。これはマジっぽいです。この壁に書いた願いが叶ったっていう噂がものすごい数あるんです。それがこの伝説の広がりに拍車をかけているようで。……例えばこれです」

 そういって藍が指さしたのは、ひときわ大きく、星マークの上あたりに刻まれた一文。『購買にコロッケパンを置いてください』。あまりに濃く書いてあるために私も一番に読んだ文だ。

「たまにこの壁の文字も誰かに消されたりするんですが、この『購買にコロッケパンを置いてください』だけは壁を直接削ってあるだけに消せないらしく初期の頃からずっと残っているらしいっす。……さて、さっき来夏が昼食として食べていたのは何ですか?」

 聞くとは意地が悪い。

「……コロッケパン」

「どこで買いました?」

「購買。……そのしたり顔やめてよ。つまり、こう言いたいの? 『購買にコロッケパンを置いてください』という願いが叶ったから、今購買部にはコロッケパンがある、と」

「その通りですが、言ったのはアタシじゃなくてその噂ですね。事実、コロッケパンは生徒の要望で最近売り出すようになったらしいっすよ」

 その噂が伝説を裏付けている、というわけか。

「別にさ、ここに書かれた願いが必ず叶うってわけじゃないんでしょう? 不可能な願望もあるんだろうし」

「まあそうでしょうね。でも叶った人はたいてい大々的に触れまわりますから」

「……なんか『後付けバイアス』の典型みたい」

 聞いたことがなかったのだろう、藍が怪訝な顔をする。しゃがんでいるのがつらくなったので一旦下がって立ち上がり、私は説明する。

「たとえばさ、賭け事とか勝負とかで、自分の信じている理論で勝ったりすると『これが必勝法だ』と言ったりしていつまでもその出来事を覚えているものだけれど、負けたときとかはすぐ忘れるものなの。占いとかもそうね。そういう『当たった時の記憶が強いことで考えに強弱をつける』みたいなことを、後付けバイアスって呼ぶの」

「へぇ、相変わらず物知りっすねえ。ああ、つまりこの伝説も、噂を広める人のバイアスがかかっているってことですか」

 まあ予想として、だけれど。結構昔からそういうものは存在する。賭け事必勝法、絶対当たる占い、あと都市伝説に沿って言えばコックリさんとか。偶然を必然と思い込む回路は世の中にたくさんあって、心理学研究すら進んでいる。だから私は、これを聞いて胡散臭いと言ったのだ。

「でも来夏、このコロッケパンはどう説明するんですか? 叶った願いってのは同級生に聞いても結構多いらしいですし」

「さあねえ。でもその思い自体にバイアスがかかっているんだと思うわ。叶った願いと同じくらい叶わない願いもあるんでしょう、目に見えてないだけで」

 藍も階段下から這い出つつ、口をしかめている。否定されてなんだか不機嫌そう。

 私は講義の疲労を飛ばしたくて一度伸びをした。



「……で、藍。結局電話で言った謎ってのはこれのことなの?」

「ああ! 違います、ちょうどそれを言おうとしてたんす。実はですね、最近この『五つ目の願い』の壁を定期的に見てたら不思議なことがあったんです」

 そういうと携帯電話を取り出し、何か操作し始めた。画面をこちらに向けてくる。

 携帯で撮った写真。壁とそこに貼られた紙片。おそらく目の前の『五つ目の願い』の壁で間違いないだろう。そこにセロテープで貼られた、何かのスケッチ。

 ペンキのようなものが塗りたくられた、学校の掲示板の絵。

「一か月前くらいから、紙切れが壁に定期的に貼られ始めたんです。私が確認した限りでは四枚。いずれも何かが破壊されたり汚されたりしたイラスト。書いてある内容を軽く調べたら、この学校にある掲示板とか自販機とからしいですね。そしてその対象を見に行くと、破壊されたりイタズラされてるんです。まるでその絵と同じように」

 ふうん。

 もう少し目を凝らして、その絵を見る。結構タッチが上手い。確かこんな掲示板が一階廊下になかっただろうか。そう思うほど、特徴をとらえていてまるで特定されたいがために書いてあるようだった。

「このイタズラはこの前教師が話してました。まだ犯人は捕まってなくて、見回りを強化して内々に処理したいらしいっす。……どうです、来夏?」

「どうですって何がよ」

「いや、だから、ここにこの紙切れが貼られると、その通りにイタズラが行われるってことですよ! これは『五つ目の願い』を裏付けているじゃないですか」

 えー……。

「それは無いんじゃない。そんなことして誰が得するのよ」

「じゃあこの紙切れはどういう意図で貼られたんです?」

「知るわけないじゃない、当人じゃないんだから」

 そういうと言質をとったかのように藍がほくそ笑む。……ああ、もしかして。

「その通りです。だから、来夏への依頼はこれですよ。……この紙切れはどうしてこの壁に貼られたのか? 『五つ目の願い』との関連は? そこを解いてみてください。どうです、下手なパズルより楽しそうでしょう?」

 言うと思った。

 願いが叶う都市伝説。そこに貼られたイラスト。連動する破壊事件。

 私は思わず、藍に訊いていた。

「もしかしてあんたも、こういう謎解き好きなの?」

「目がないです」

 そう言って藍は再び笑った。




     ◆4


- 08/07:夏季休暇13日目

「佳奈、勉強しなさいよ」

 無視。リビングを抜け、部屋へと向かう。

 夕食はいつもこうだ。会話の弾まないテーブル、作り置きの料理、親の小言。変わらない、なにも。部屋に入り、扉の鍵をきちんとしめる。そうでもしないと親が言いがかりをつけに入りこんでくるから。

 ベッドに倒れこんでも、気分は晴れない。目を閉じる。

 今日、二日ぶりにライカにあった。二日前である雨の中での出来事が響いてなんとなくよそよそしい。あたしの気持ちを想像しているのだろうけれど、彼女も難儀な性格だなあと思う。気まずさを挟んだまま夏期講習は終わり、予想通りというべきか、ライカはすぐに教室を離れる。なにやら別のクラスの子に呼ばれているらしい。ラムネクラブに来るのも気まずくてつらいのだろう。あたしを傷つけたと思っているに違いない。傷ついていないなんて言っても仕方がないし。

 ……まあ。

 あたしも行く理由はもうなくなったのだが。

 ゆっくりと、目を開けて起き上がる。

 別にライカとのわだかまりはそれほど重要ではない。解決はできる。いまはそれより、目の前の難問に取り組むべきだ。『高校設備連続破壊事件』。あたしが名付けた、くだらないイタズラの名称。これを終わらせないといけない。

 昨日の美術部による報告で、たてた計画は振り出しに戻った。全てを考え直さないと。どこから始めるべきか。

 ……そうか。まだあたし自身が混乱しているのかもしれない。一旦、整理してみよう。壁にすえつけてある引き出しからこの前書いたメモを取り出し、記憶の海に潜る。

 まず、依頼が始まったのは、遡ること二十日ほど前。そこから思い出してみよう。


- 07/17:夏季休暇9日前

 夏休みを二週間前に控えた、いつもの水曜日だったと思う。帰りのホームルームが終わってすぐのこと。

「佳奈ちゃん、ちょっといい?」

 教科書を持ったまま振り返ると、そこに懐かしい顔がいて、思わず声を上げる。

「……美晴ちゃん! 久しぶりー」

「そうだね、クラス違うから」

 岩波美晴ちゃん。中学時代に三年間クラスが同じだったけれど、高校になってはちょっと疎遠だった。当時はそれほど長身でもなかったが、高校に入ってタケノコよろしく物凄い成長を遂げている。反対にあたしは中学で成長が止まったので素直に羨ましい。

 そんな彼女は、なにやら話があるようだった。

「佳奈ちゃん昔から頭使うの得意でしょ? ちょっと美術部で困ったことがあって」

 そうかこの子美術部だったっけ。それはともかく、困りごと、か。少しばかり嫌な予感がする。

「昔って……」

「ほら、『依頼』とか言って、他のクラスの女子が来てたじゃない。中学校の頃」

 うわあ。やっぱりあの時代の話か。大げさに首を振ってやる。

「……もうあの時の話はやめて……。結構思い出すたびに恥ずかしいんだから。ただ中学の時はヒーローぶってただけ。えっとつまり、なにか手助けが必要ってこと?」

「そう! 佳奈ちゃん部活にも入っていないし、相談するには適役かなと思って」

 美晴ちゃんはあたしの言葉の後半しか聞いていないらしい。前半の懇願を無視し、手をたたく。

 まあ、今も何もなければ真っ直ぐ帰るつもりだったから図星だ。仕方ない、付き合うか。

「話だけ、まず聞くから」

 今にも手を引いてどこかに連れて行きそうな彼女の勢いに、その時ほんの少し不安を感じた。

 思えば、それは的中だったのだけれど。


 三分後、あたしは美術室で、部員に囲まれていた。

 といっても人数は二人。残りの部員は外に出払っているらしい。確か美術部の部員は全部で5人と聞いているから、ある意味文化部らしいといえなくもない。

 一人は当然美晴ちゃんだけれど、その隣にいる一人は、同じクラスの矢井田萌絵花ちゃん。なんとも知り合いが多い。いつも陽気な低身長仲間の萌絵花ちゃんには珍しい深刻顔を見るに、どうやら困り事の中心は彼女のようだ。ぱちくりした目にも元気がない。

 ところが、すぐに話は始まらない。

「ちょっと待っててね。部長にも立ち会ってもらいたいから」

「その部長って、どこに?」

「文化祭実行委員の会議中。出し物の責任者は必ず行かなきゃいけないらしいよ。たぶんそんなに時間はかからないはず」

 ああ、文化祭か。時期は毎年九月の下旬。この頃になると話し合いがもう始まっていて、夏休みは準備に追いやられる。九月末は始業式、実力テスト、文化祭と忙しくてたまらない。あたしのクラスも夏休み前には話し合いがもたれるだろう。クラスの実行委員は別にいるけれどそれでホームルーム委員の仕事がなくなるわけもない。やりがいがあるから気分は高揚するけれど、食べ物屋さんかステージ発表のどちらかであるのは想像がつくので、あまり楽しみとは言えない。達成感だけで良しとしよう。

 そういえばこの美術室も散らかっていていかにも文化祭準備の様相だ。作品展示は時間がかかるから今準備しないと間に合わないのだろう。横のホワイトボードには「展示予定作品」と題してタイトルが箇条書きしてある。その横には作製途中のキャンパスの群れ。

 きょろきょろと教室を見回していたら、扉が開いて女子生徒が入ってきた。この人が部長か。美晴ちゃんと並ぶほどの長身で、見た感じ三年生。細いフレームの眼鏡をくいっとあげるところが、知的さとアクティブさの両方をアピールしている。

 その部長女史が、

「やっと話し合い終わったわ。……ああ、そちらが同級生の?」

 近づいてきたら挨拶しないわけにはいかない。

「藤島佳奈です」

「はい、佳奈さんね。あたしは村越香奈枝。一応ここの部長をやっているわ。ちょっと悪いんだけど、今から先生に許可もらいに行く用事があるから、詳しい話はそこの岩波と矢井田に聞いて。……それでもどうにかならなかったら別の手を考えるから」

 はあ。よく分からないけれど。

 村越美術部長はそのまま机の書類を持ってくるりと反転、美術室を出て行った。立ち会う気はないらしい。これでいいのか、と美晴ちゃんのほうを見ると、まるで了解済みのように頷いた。

「部長は、このイタズラをたいした問題じゃないと思ってるから。他の手続きにかかりきりみたい。わたし達でどうにかしないと。……じゃ、説明するね」

 そういうと、奥の棚から数枚の紙を持ってきて耐熱机に置いた。重々しく一拍置いてから説明を始める。

「最近、美術部の作品展示を邪魔する人がいるみたいなの」



 その後の話は長く、説明もあまり要領を得なかったけれど、まとめればこういうことらしい。

 文化祭で、美術部は作品展示をする。その作品は二種類。昨年度と今年度に何らかの賞をもらった優秀作品と、毎年テーマを決めて作る特別展示。優秀作品はもう数が揃っていて、後は展示するだけ。問題は後者で起こったらしい。

 ここ数週間、美術部員はテーマを決めて製作を始めた。今年のテーマは『学校と美術部と私たち』とのこと。学校内の設備や施設、モニュメントまでをそれぞれ絵画やジオラマなど美術部員それぞれが得意とする作品にして展示する。文化祭当日に配布する敷地内地図とも連携するというから、かなり大きいイベントらしい。担当する対象物を割り当て工程は順調に進んだ。

 部員の一人でクラスメイトでもある矢井田萌絵花は、絵画の部門を担当していた。学校のいくつかのモチーフを絵にするため、敷地内を駆けずり回って写真を取り、描くべき物を検討した。そして選んだのは、何気ない日常で学生皆が見かけるもの。一階掲示板や購買横の自動販売機、北側にある池の小便小僧など。それらを自分自身との思い出に重ね合わせ、展示する際はそれをキャプションとしてつければテーマにも合う。モチーフを決め、早速下書きのスケッチに取り掛かった。

 そこで、問題が発生する。

 選んだモチーフが、何者かによって次々に破壊されたのだ。

 最初は偶然か自然災害かとも思われたが、明らかに破壊の様子が人為的だったこと、またモチーフばかりが二つ三つと狙われている事実が、『犯人』の存在を想起させた。愉快犯のイタズラのように壊される学校の備品。さらにふてぶてしいことに、『犯人』はその所業を自ら示すことにしたらしい。

 時折、美術部の机の上、矢井田萌絵花が作業場として使っているところに、紙が置かれた。それは鉛筆による簡単なスケッチで、そこに描かれているのは掲示板、自動販売機、小便小僧……すなわち破壊される対象そのものだった。まるでその犯行を予告するかのように。

 絵画の対象を破壊する誰かと、予告される紙。

 わけがわからない、と美術部の二人は言った。

「掲示板とか自販機なんて、破壊しても意味なんてないでしょう。もしここの生徒だったら退学ものだし。それに、美術部の展示準備をピンポイントで狙っている上に、犯行予告のような紙が美術室に置かれているなんて。もうどういうことなのか……」

 嘆く美晴ちゃんに訊く。

「先生には言ったの?」

「うーん、この破壊事件は職員室でもすでに話題になっているようなの。たまにパトロールもしているみたいなんだけれど、犯人の目星はまったくなくて先生も困っているとか。一応美術部のこととか犯行予告についても顧問の先生に喋っておいたんだけど、確証がないから偶然だろうって」

 美術部の顧問は誰か訊こうとしたが、すぐに思い出した。あたしたちの担任、三浦先生だ。それほど思慮の浅い先生ではないと思うけれど。

 まくしたてる美晴ちゃんと、直接被害を受け涙目の萌絵花ちゃんが懇願する。

「お願い! 他に頼る人はいないの。一体だれがどんな目的でこんなことをやっているのか調べて! 佳奈ちゃんの手の届く範囲でいいから!」

 あたしはその言葉に耳を貸さず、ただ自分の頭で考え続けていた。

 一分経った。自分の声は冷たかったが、それでも口から発することはできた。

「……もし何もわからなくても、あたしは責任を負わない。どんな結末だろうと、何にも肩入れしない。そしてもう一つ。あたしは『自分のため』にこの依頼を引き受ける」

 それがあたしの条件。あたしのエクスキューズ。

「それさえ分かってくれたら、やるから」

 美術部二人はポカンとしていたが、依頼を引き受けてくれるなら何でもいいのか、喜びの声を上げる。

 ため息さえつきたかったが、どちらにしろやるしかない。まずは名前でもつけるか。

 『高校設備連続破壊事件』、捜査の始まり。

 



     ◇5


- 08/07:夏季休暇13日目

 夜、寝る前、テーブルにノートを広げる。

 まずは適当にメモを取りながら、今日の出来事を思い出す。

 しかし、あそこまで藍が行動的だとは思わなかった。昔は私と同じで面倒くさがりのなまけものだった気がする。女子三日会わざれば、ということかもしれないけれど、性格なんてそんなに早く変わらない。よほどこの都市伝説に興味がある様子。

 しかし、いつの間にか私も巻き込まれているから始末に負えない。

 まあ、面白そうではあった。学校の七不思議を推理するなんて、どこかドラマか映画の雰囲気さえする。スケールは小さいが。

「あ、そうだ」

 ベッドの枕元に投げ捨ててあった携帯を手に取る。藍に画像を送ってもらったのだ。

 写真四枚。藍が撮った、謎のイラスト。『五つ目の願い』の場所に貼られていたものらしい。こんなものをわざわざ撮っておくなんて藍も暇なのだろう。

 それを見ながら、今日の午後、『五つ目の願い』の話をした後のことを思い出す。



 押し切られるように謎解きさせられることになった私とは対照的に、藍はご満悦の様子だった。

「いやー、夏休みはバイト以外まったく暇なんすよ。こういうの本気で調べるとか青春じゃないですか」

 そんなの知ったことではない。こっちは講義があるのだ。……ここまで来たら付き合うしかないのかもしれないが。

 で、私はてっきりこの話で終わりだと思ったのだけれど、藍にとってはそうではないらしい。

「今から証拠物件まわりますよ。来夏に信用してもらうにはいろいろと証拠を見ていただかないと。……どうせ来夏、忙しいから適当に流せばいいやなんて思ってるんでしょうからね!」

「な、なによそれ」

 反論しつつも、図星をつかれたことに動揺を隠せない。そんな私の手を藍は引っぱり、廊下に出てずんずん進む。

「ちょっと。そんなに七不思議が気になるの?」

「いいじゃないですか、こんな面白いことなんて他にないですよ。もしも、この伝説が本当だったら願いを叶え放題なんですから」

 それはない。

 結局は熱意にほだされ、藍に付いていくことにする。なんだかこの夏休み、こうして巻き込まれてばっかりな気がする。



 藍が言う『証拠物件』とは、被害にあった場所のことらしい。いずれも学校内。暑いから、近い場所にあるというのはありがたい。

 まずは一階西掲示板。中央階段の隣にある、大きな掲示板のことだ。学校内イベントのお知らせだったりコンサートの宣伝だったり、とにかく何でも貼ってある。たいてい、重要なお知らせは二階の職員室に貼りだされるから、こちらの重要度はそれほど高くない。

 掲示板を見上げながら、藍の解説を聞く。

「調べた限り何者かによるイタズラはここから始まっているようです。七月七日、つまり一か月前くらいのことですね。この掲示板がペンキでぐっしょりと汚されていたと聞きました。急いで次の日くらいには用務員さんが予備の掲示板に貼り替えたそうで問題はなかったらしいですが、犯人は見つからず、一応職員会議にかけられたようです」

「藍、あんたいったいどこでそんな情報手に入れるのよ」

「用務員さんに聞きました。結構気さくに答えてくれましたよ」

 なるほどねえ。見回してみると、掲示板は確かに今までと同じに見えたが、その下の壁には少しばかり赤い塗料が残っている。これがペンキか。全面赤色に染まる掲示板を想像し、少しばかりぞっとする。

 藍が携帯を取り出す。

「そしてこれが、その数日後に『五つ目の願い』に貼りだされたイラストです。さっき見せましたね」

 携帯に映るイラストは、確かに何かが塗りたくられた掲示板に見える。ポスターの細かい部分まで書いてあるなど、本当に絵が上手い。

 一つ気になったので聞いてみる。

「このイラストさ、この犯行の前に貼りだされたって可能性はないの? こうさ、犯行予告みたいに、誰かが『今からこの掲示板をこういう風にしてやるぞー』みたいな」

 藍は唸った。

「それなんですけど、この件に関しては犯行とイラストの前後関係が曖昧なんですよね。当然あの『五つ目の願い』を終始観察している人なんていないですから、イラストが貼られた正確な時間は不明です。でも、その後の事件に関しては明確です。犯行の数日後にイラストが貼られるのがまるで規則に則ったように行われています。この掲示板の件もそう考えるのが自然でしょう。犯行予告って可能性はちょっと無さそうっす」

 犯行の後にイラスト。なるほど。なら、こういうことになるのだろうか。

「このイタズラの犯人は誰だか知らないけれどさ、犯人自身がこのイラストを描いたという可能性は当然あるんでしょう? ならさ、その犯人というやつは、この目立つ廊下にペンキを持ち込んで掲示板に塗りたくり、その犯行のあとでスケッチして、『五つ目の願い』の壁にそれを貼ったってことになるじゃない。こんな悪戯、犯行が見つかったら即終了なのにわざわざスケッチすることなんてあるのかしら」

「ふむ、そうっすねえ、不自然か……。まあでも、犯行とスケッチは別じゃないですか? 一旦その場を去った後、何食わぬ顔で戻ってきて、野次馬っぽく写真でもとればそれを見ながらイラストは描けるじゃないですか」

 前半の悪戯とスケッチは別という説は有力かもしれない。わざわざ長時間目立つ犯行現場にいる犯人もいないだろう。しかし。

「それはいいとして、じゃあ『五つ目の願い』に貼られたのはどうしてイラストなの? 写真なら犯行の片手間にさっと撮れるし、描く手間もかからない。わざわざ壁に貼ることといい、いったい何が目的なのかさっぱり分からないわ」

 まあ、それが分からないから藍も私に相談したのだろうけれど。論点が整理されてきたからよしとしよう。



 二件目は、校舎の外。

 この学校の校舎は中央を分断するように東西に伸びており、敷地を含め上から見ると「日」の文字に見える。そして南側には校庭とテニスコート、それに体育館。北側には駐車場と格技場があり、生徒の大半は北の正門から学校に入る。その北側敷地の中央に陣取るロータリーには、この学校を象徴するように大きな噴水が鎮座している。

「噴水に悪戯されたの?」

「そうらしいっすよ。なんとかすぐに先生総出で対応できたらしいんですが、数人の生徒が見て悲鳴を上げたとか」

 たかが悪戯で?

「どうしてよ」

「さっきの掲示板と同じように犯人は赤いペンキを使って、水を真っ赤にしたらしいです。おそらく見たら卒倒しそうになるでしょうね、血の海もかくやといった感じでしょうから」

「うええ……」

 想像して寒気がする。悪趣味というか、洒落にならないというか。仏教の地獄でそういうのがあっただろうか。

「それっていつのこと?」

「七月の十二日、金曜日だそうです」

 でも、そんなに大ごとになっていたという話はさっぱり聞いていない。

「それって普通に学校の日じゃないの。そんなことになってたら、みんなが登校したとき大騒ぎになっていると思うんだけれど」

 藍はかぶりを振る。

「悪戯されたのは下校時刻の後らしいんですよ。事情により校舎に残っていた文化部の二年生が第一発見者で、それはそれは大きな声を出して職員室に飛び込んだとか。そこから先生方が必死で清掃作業をして、なんとか土曜日には普通の状態に戻した、とのことです。あまり騒ぎになるといけないから少数の人しか知らなかった、というわけですね」

 教師としては、生徒を安心させることと犯人を泳がせて捕まえることの二重の意味があったのだろうか。おそらく発見者には口止めをして。なにせ噴水の事実を知っているのはその赤噴水を見たものか、犯人自身しかいないからだ。

 携帯を取り出し、私に向けてくる藍。

「そしてこれが例のイラストです。これだけだといまいち犯行の様子は分からないですね」

 数メートル離れたアングルから描かれた噴水スケッチ。鉛筆でざっと書かれているものだから、水の色はこれだと分からない。しかしこの絵を描く人が悪戯の犯人と必ずしもイコールと言えないから何とも言えない。

 円形の噴水の縁をぐるりと回ると、微かに赤いペンキが付着していた。なるほど悪戯があったのは確からしい。

 頭をかく私を見て、藍がほほ笑む。

「来夏が考え込む時の頭をかく癖、久しぶりに見ました」

 そんな癖なんて意識していない。それでもまあ、この場所でも考えることがある。

「藍、どうして犯人はさ、ペンキを水に溶かしたんだと思う?」

「はい?」

「確かにさ、水を真っ赤にしたんなら物凄くたちの悪い悪戯だと思うわ。でもさ、もしこれが愉快犯の犯行だったら、もっと騒ぎを大きくすると思わない? 例えば学校に生徒が沢山いる時にやって多くの人に目撃させる。あとは、噴水の縁とかにペンキを塗ったりなんかして先生を困らせるとか。ペンキを水に入れるだけなんて、ただ水を替えて軽く掃除すれば元通りよ。この犯行は、なんというか……」

「自分だったらもっと派手にやるのに、と?」

 睨みつける。藍は芝居がかって肩をすくめた。

「冗談ですよ。つまり、犯行が中途半端、と言いたいんですね」

「そういうこと。最初の掲示板の例もそう。もし犯人が廊下の床や壁に塗りたくったら、用務員さんも清掃するのに一筋縄ではいかなかったでしょうね。なにか犯人の目的か理由があるのよ」

 二人して考え込む。当然のように結論は出てこなかった。



 そしてラスト、三件目。

 また校内に戻ったというか、先ほどまでいた『五つ目の願い』のすぐ近くだった。ここから案内してくれればいいのに、とも思ったが、犯行順に見せたかったという藍なりの配慮かもしれない。

 向かうは購買部と美術室の間。そこに置いてあるものは、私も日常よく利用していた。思わずうなずく。

「ああ、自販機ね。……そうか、この間使用禁止になってたわ。張り紙してあった」

 確かあれは七月の中旬だっただろうか。お昼にジュースを買いに来たら自販機が使えなくなっていて驚いた覚えがある。まさかこれも、犯人の仕業だったのか。

 藍が携帯のメモ機能を見ながら解説。

「この自販機が使えなくなったのは七月十七日。さっきの噴水事件から五日後です。アタシも、これが本当に犯行の一部なのか疑わしかったんですが、どうやら人為的に壊された様子。業者さんがわざわざ新しいのに取り換えるほどですから、回線か何かをいじられたのかもしれませんし、詳しいところまでは調べられませんでした」

「でも、イラストはあったんでしょう?」

「そうですね。その翌日、『五つ目の願い』に貼られていました。イラストはアタシが確認したので間違いないです」

 例によってイラストを見せてもらう。壁に設置された自販機を斜めから見たスケッチ。……ん、これって。

「藍、この自販機さ、表面に傷がつけられているように描かれてない?」

 私はイラストの上方、ジュースの見本が並んでいる辺りを指差す。そのプラスチックの面にひびが入っているように見える。

「ああ、そっすね。もしかしたらその傷こそが人為的であると教師陣が考えた原因かもしれません」

「私が見たときひびなんて入ってたかな……」

「使用禁止の張り紙貼ってあったじゃないですか。あれで隠れてたんでしょう」

 そうかもしれない。まあ人為的というのは業者の判断もあるのだろう。自然に壊れるなどとはさすがに私も考えていない。でもこれだと一連の犯行かどうかも怪しいのだが。

 もう少し自販機の周りを見てみたら、その痕跡を見つけた。

 新しい自販機の影、床の部分に赤いペンキ。もしかしたら被害にあった自販機にも軽く塗られていたのかもしれない。

 とりあえず、これで調査は終わり。まとめるように、藍が訊いてくる。

「どうです? 何かわかりました?」

「さあね……。もう少し考えてみないと」

 まあ、事件の概要が分かり、イラストと犯行の関係、そしてペンキの痕跡が分かれば十分だ。

「アタシとしても今日の目的は達成ですね」

「どうして? 藍」

「そりゃあ、来夏がこの話に食いついてくれたからに決まっているじゃないですか」



 回想終わり。思い出しながら書いていたメモも一枚埋まった。

 少しばかり気づいたこともあるが、これは後で藍に確認を取ろう。時間も遅いし、そろそろ寝ようか。

 ……そういえば。

 今日はもう一件、気がかりなことがあった。

 カナのこと。

 どうも先日の大雨の時から、距離を取られた感じが拭えない。今日も藍との帰りに駄菓子屋『ケヤキ』に寄ってみたが、毎日いるはずのカナはまっすぐ帰っていた。店のおばちゃんに訊いても、あれ以降来ていないらしい。

 何をしているのか分からないが、カナはかなり忙しそうにしている。会う機会がない。

 どうすればいいのか。このまま自然解消的に、カナとの関係はなくなってしまうのか。

 それは嫌だという私の感情と、なぜカナは急に来なくなったのかと疑う私の理性がせめぎあい、一つの疑問が浮かぶ。

 私は、カナにあこがれていたから、その行動を学ぼうと思い、ラムネクラブに入った。

 じゃあ。

 どうしてカナは、ラムネクラブというものを作ったのだろう。



     ◆6


- 08/08:夏季休暇14日目

 朝起きても、どうも気分は晴れなかった。

 あたしがリビングに入ると、すれ違いで母が玄関に進む。私よりの母のほうがいつも出る時間が早い。

「いってくるわ」

 母の声がドアから外へと消えていく。

「いってらっしゃい」

 あたしの声は届かなかっただろう。ドアのほうが、早く閉まったのだから。



 講義が終わってから、あたしは行動を開始する。

 今日は金曜日。どうも、こうして講義ばかりの生活では曜日の感覚が無くなる。携帯のカレンダー機能を見ると、四週間ほどの夏休みを半分消費したことに気がついた。

 依頼を受けたのは七月の中旬だったから、もう三週間。色々なことがあったな、と思う。依頼開始の後、三件の現場の検証、関係者への聴取、イラストの確認。まるで刑事かと思うほどの活動に我ながらあきれる。それでもまったく事件は進展しなかったし、四枚目の犯行予告まで現れた。結果それに踊らされたあたしは、それが囮であることに気づかず、五枚目の犯行予告を見逃し結果テニスコートの金網は破壊された。

 なぜ犯人は、四件目を抜かしたのか。美術部の皆が考える疑問はこれだ。こちらの作戦に気がついた可能性はありうる。それでも、予告しておいて犯行をやめるなどとは愚の骨頂だと思うのだけれど。

 ……とにかく、今は五件目だ。まだ予告が美術部に置かれて二日。なにか重要な証拠が残っているかもしれない。調べに行こう。



 テニスコートは学校敷地の南西に位置していて、あまりあたしは来たことがない。昨年の球技大会ソフトテニス部門の応援で来たくらいだろうか。

 もともと校舎から離れているし、校庭の隣とはいえ利用する機会のある人はそれほどいないから人影は少ない。たまにテニス部の練習があるようだが、それさえ終われば誰にだって反抗はできそうだった。

 相変わらずの猛暑に顔をしかめながらフェンスをぐるりと回る。緑の金網はところどころ塗装が剥がれ、さび付いた針金がどこか寂しさを助長させる。

 やがて並木の近くに差し掛かったとき、その現場を見つけた。

 直径七十センチほどの大きな穴が、金網に開けられている。針金の端を見るにこれはペンチで切り取ったのだろう。小柄な人なら楽に通れそうなほど、それは目立っていた。

 バッグから、犯行予告のイラストを取り出す。一昨日の帰りに美術部から借り受けたものだ。それ以前の四枚も今はあたしがファイルに挟んで管理している。

 イラストを見ながら、被害の場所と比較する。いまいち背景と合わない。人がいないのを確認し、こっそりとテニスコートに入った。予想通り、このイラストはテニスコート側から金網を描いたものらしい。手前の雑草、向こう側には道路。横の並木の位置からいっても、ここが被写体で間違いないだろう。

 四件目の、犯行。

 衝動的に金網をつかんだ。金属棒を落としたような甲高い音がする。

 ……また、止められなかった。

 頭の中で理解はしている。この被害は、あたしとは関係がない。美術部が作品の被写体に選んだとして、ここに穴が空いていることはその妨害にすらなっていない。またテニス部はあまり気にしないだろう。だれも、悲しんでいない。

 それでも。あたしは、この依頼を受けた。この事件を止め、犯人を突き止めると決めた。だからこそ、あたしはいま、苛ついているのだ。

 金網から手を離して深呼吸。今あたしがやることは自分の不甲斐なさに苛立つことではない。

 現場検証。何か証拠が、残っていないか。

 この穴は十中八九人為的なものだろうけれど、一連の犯行と同一であるという証明は今のところ予告イラストでしか得られていない。なにかあるはず。じっと周辺に目を凝らすと、映えるような赤色がそこにはあった。

 赤色の、ペンキ。

 穴の左下、金網の少し離れた部分に塗りつけてある。盛り上がりの様子から、絵の具ではない。これを誰かが偶然付けた可能性もないだろう。犯人の、痕跡だ。これで、事件はまたひとつ繋がった。いままでの犯行には必ずペンキの痕跡がある。掲示板、中央池、自動販売機。まず同一犯の犯行として間違いない。そしてその犯行の直前には、予告イラストが美術室に置かれる。

「いったい、何がしたいの……」

 あごに手を当てて考え始めたとき、近づいてくる人影があった。

「萌絵花ちゃん」

 一番の被害者である、美術部の絵画担当。と言ってもフェンス全体が被害にあったわけではないし、今回の犯行では困ったことにならないだろう。

 萌絵花ちゃんはこちらまで近づいてきてから、フェンスの穴を見下ろした。

「佳奈ちゃん、これが、今回の?」

 あたしがうなずいたのを見て、顔を曇らせる。

「どうして……どうしてこれが……」

 あたしはテニスコートを出て萌絵花ちゃんの横に立った。

「今回は、絵のモチーフが破壊されたわけじゃないから、まだ被害は少なかったね」

「うん……そう思って、今フェンスのスケッチに来たんだけど……」

 手元のスケッチブックを取り出しながらも、彼女の視線はフェンスから離れない。

「わたしがここを選んだのって、美術部の思い出があったからなんだよね。並木とかここの道路とか、入部した時に美術部員のデッサンでよく使うから。今回モチーフにしたフェンスだけじゃなくて、わたしが描こうと思うときは大抵、自分の思い入れがある場所にするの。そうしないとうまく描けなくて。だからさ、こういう風に、被害にあっているのを見ると……」

 今にも泣きそうな萌絵花ちゃんの顔。

 あたしは何も言えなかった。慰めも、励ましも。犯人の目星がついていないのに、下手なことは言えない。それは彼女にも、失礼だから。

 ……ああ、そうか。ライカはいつもこうやっているのか、と思う。相手が傷つくかもしれないことにまで気が回る。文字通り気の効いた台詞をかけることができる。

 そういえば、ライカは今何をしているのだろう。夏期講習で見かける以外はまったく気にも留めていなかった。まさか、ラムネクラブの業務を続け一人でベンチに座っていたりするのだろうか。



 萌絵花ちゃんはフェンスの横にしゃがみ軽いスケッチをし始めたので、あたしは移動する。

 西側の出入り口を借りて、靴下のまま美術室の扉を開ける。特有の画材の匂いが鼻につく。

「失礼しまーす」

「ああ、佳奈ちゃん!」

 中にいたのは旧友の美晴ちゃん。彼女はその長身を生かし、なにやら二メートルほどの木の柱をノミとトンカチで削っていた。彫刻が専門ということか。

 彼女があたしに依頼してきたときを思い出す。普通は同じクラスかつ美術部員で、さらに今回の主な被害者である萌絵花ちゃんが来るのが当然なはずなのに、代わりに美晴ちゃんが来たのはきちんと理由があってのことだったらしい。なにやら次期部長候補でもう引継ぎが始まっているとか。もともと責任感のある子だしその辺は仕方ないのかもしれない。

「これ、文化祭で展示するの?」

「そう。学校生活をイメージした木彫り」

 近づいてその彫刻を見てみる。なにやら幾何学的でよくわからない。完成したら理解できるのだろうか。

「一応今までの報告に来たんだけど。邪魔なら後でもいいよ」

「ううん、まだ本彫りじゃないから大丈夫。先に聞くね。座って」

 耐熱机を挟んで座る。あたしはメモ帳を取り出し、さっき見てきたテニスコートの報告を始めた。



 ひとつ、やりたいことが残っていた。あたしはそれを思い出し、美晴ちゃんに訊く。

「ねえ。一応、美術部の人たち全員に話を聞きたいんだけれど。なんたって犯行予告が美術室に置かれている以上、犯人を目撃している確率は高いわけだし」

 事情聴取、というやつだ。さすがにドラマじみた台詞だからそうは言わない。

 快諾してくれると思ったが、美晴ちゃんは苦い顔で首をかしげる。

「うーん。でも、話はもう一通り聞いているんじゃない? 部員のわたしと萌絵花ちゃん、それと村越部長」

 それではまだ不完全だ。

「全員よ、全員。まさか美術部員がこれっきりってわけでもないでしょう」

「あはは……。佳奈ちゃん、文化部って、どこも部員集め大変なんだよ。美術部だってそんなにいないって」

「え……。もしかして、全部で三人なの?」

「さすがにそれは無いけど、まあ似たようなものかな。主に毎日活動するのはこの三人。あとはたまにしかこない子とか、籍だけ入れている子とか。だからあんまり聞いても意味がないと思うけどな」

 そうなのか。そういう事情は考慮していなかった。

「じゃあ、今のところ活動しているのは何人?」

「五人。わたし、村越部長、萌絵花ちゃん、あとはたまに来る片桐紗希ちゃんと、幽霊部員で唯一の男子の三間坂翔太くん。村越部長以外の三年生はもう来ないわ」

「みんな二年生?」

「そう」

 一応メモしておく。主要メンバーはあたしが会った三人、ほかに二人が在籍している、と。美術室に現れなければ事件の詳細も知らないだろうからその人たちに話を聞く意味はあまり無いだろうが、案外犯人を目撃しているかもしれない。

 さて、報告も終わり、事情聴取も後回しでいいことが分かった。あとは、どうするか。

「佳奈ちゃん、それで? やっぱり難航しているの?」

「……うん。別に手を抜いてるわけじゃないんだけれど、これだけの情報だとさっぱり」

 本当に行き詰ったのを自覚する。これでは次の犯行を指をくわえて見ているしかない。それはすなわち、現状から進んでいないことを意味する。

 さて、次の予告はいつ入るのか。そして犯行はどこで行われるのか。

 そして、あたしが次にやるべきことは、いったいなんなのか。



     ◇7


 金曜日。恒例の熱気、不変の夏期講習、永遠に続く予習と復習。

 カナのことを気にかける暇がないほど、私は忙しくなった。休みの日は沢山寝てしまうから、その反動で眠気が溜まる。やっぱり藍の依頼なんて受けなければよかったかな、と思う。

 なにせ今日もわざわざ迎えに来るのだ、彼女が。

「だって来夏もやる気になったじゃないですか」

「なってないわよ……。帰って寝たい……」

「まあまあ、今日はそんなに見てもらうものないですから。三十分くらいで終わりますよ」

 私の手を引っ張って階下に向かう藍。

「昨日の三件で現場検証は終わりじゃないの?」

 首を振る。

「それは確かにそうだったんですけど、さらに追加です」

 追加?

 藍の台詞は、西階段についたときに明らかになった。

 階段のデッドスペース、壁の中央右側に貼られた、十センチ四方の紙。私が見たことのないイラストが、そこにはあった。

 藍が指さし、少し興奮した面持ちで言う。

「今日ちょうど来るときにのぞいたら、これが貼ってあったんですよ。新しいイラストっす!」

 しゃがんで階段下の斜めスペースに入り、そのイラストを見る。使われているのは画用紙かケント紙。今までと同じ鉛筆画。上をセロテープでとめられたそれは、確かに今までのイラストと同じだった。今までの三枚は藍の携帯越しに見ただけだから、実物は初めてだ。

「これは……金網?」

「そうみたいっすねぇ。穴が開いてます。つまり今回はどこかの金網で穴を開けたという声明みたいなものでしょうか」

「でしょうね」

 白黒で描かれた、金網と道路、雑草の絵。中央にはぽっかりと開いた穴。

 犯行声明とはうまい命名だ。少なくとも犯行後に描かれるのだから予告ではない。しかしわざわざ階段下の見えにくい壁に犯行声明を出す犯人なんているのだろうか。

「金網って学校のどこかにあったっけ……」

「うーん、アタシもぱっと思いつかないですけど、結構あるんじゃないですか? こう、学校と周りとの境目とか」

「でも校門近くとかは金網じゃなくて柵だったじゃない」

 まあ、その辺は回ってみればわかるか。

「藍、このスケッチ、取っちゃってもいいかな。モチーフを探すなら手元にあったほうがいいわ」

「だめっすよ! それは犯人の残した痕跡かもしれないんですから。証拠品の現状保存は基本です」

 いかにも二時間ドラマの刑事っぽくわざとらしい芝居をする藍。そんなに声を張り上げなくとも。

「じゃあ、いまから現場探し?」

「そうしましょう。金網なんてそんなにないでしょうし、すぐ見つかりますよ」

「だといいんだけど。……見つけたらすぐ帰るからね。宿題あるんだから」

 四件目の現場か。なにか手掛かりがあればいいのだけれど。



 学校の敷地をぐるりと時計回りに歩くと、半分を過ぎたあたりでその現場を見つけた。

 テニスコート。南門から左に数分、物置やら部室棟やらがある辺りで、運動部ならこの辺も利用するのだろうけれど、帰宅部の私にはなにもかも目新しい。学校で何年も生活していたって、来たことのない場所というのはあるものだ。

 テニスコートは四面で、その周囲にはおそらくボールが飛びださないように金網が設置してある。利用者は中央の扉から入る仕組み。高さは二メートル以上で、ところどころ錆ついている。

 横の道を通りながら金網を見渡すと、その現場はすぐ目に入った。

「これは……ひどいっすね」

 金網に大きく開けられた円。位置は目線より少し下のあたりで大きさは肩幅よりも大きい。切り口が尖っていて、いかにも人為的な破壊だった。大きいペンチかケーブルカッター、金切り鋏あたりでパチンパチンと切っていったのだろう。爽快といえば口が悪いが。

 携帯をとりだし画面に写真を表示する。さっきのイラスト。確かに金網の雰囲気と歪な穴はこの絵に似ていたが、どうも背景が合わない。ここからみれば金網の後ろはテニスコートになるはずなのだけれど。

「……そうか、反対側か」

 この絵はおそらく、テニスコード側からの視点を描いたものだろう。そうすれば背景は道路と雑草が占めるはずだ。

 どうせだしテニスコートに入ってみたいが、勝手に侵入して怒られそうな気はする。入り口に回ると、鍵は掛かっていなかった。今日はソフトテニス部も休業なようだし、少し入るくらいならばれないだろう。

「少し入ってみる?」

「バレなきゃ罪じゃないですよ」

 綺麗にしてあるテニスコートを踏まないよう、端のほうを小走りで進む。

「ここね。……目線はこれくらいかしら。斜め上から見下ろした感じ」

「こうしてみると、この絵はほんとに特徴とらえてますね。ぱっと見ただけでどこかわかりますから」

 それに関しては私も同意だ。こんなスケッチじゃなくてきちんと絵を描いたらどうなるか見てみたい。

 藍も携帯を取り出し、現場のほうを何枚か撮影する。さて、これで現場検証も終了か、と思ったところで足元に気になるものを見つけた。

 しゃがみこんで、金網を見つめる。

「ねえ、藍。……これ、ペンキじゃない?」

「はい?」

「ほら、他の所でも見かけた、赤いペンキよ。自販機のところに付いていたのと色が似ている気がする」

 金網の端にべっとりとつけられた朱色。錆びた色に混じって分かりづらかったが、こうして一度見つけてしまえば一目瞭然、かなり目立つように塗ってある。

「なんなんでしょう。犯人の仕業ですかね」

「わざわざ金網を切断しまくったあとで、ペンキを塗ったのかしら」

「これも同じ破壊行動ではありますけど……。なんだかあれですね」

 言いたいことはわかる。いかにもわざとらしいというか二度手間というか、普通の愉快犯ならやらない。ただでさえ目立つ犯行なのに追加してペンキ。ただし、これに理由があれば話は別だ。

「犯人がわざわざつけるなんて、あまり可能性は思いつかないんだけど、例えば、これが一連の犯行であることを公言する印、かしら」

「アタシもそう思います。三件目の自動販売機だって、横のペンキのほかに全面にヒビが入れられていました。あれはどう考えても、片方だけでは目立たないからじゃないですかね。だけど、こうして前の犯行で使ったペンキを塗っておけば、これらの事件が地続きであることがわかります」

「これは、犯人の目印……」

「わざわざ残す犯人も間抜けな気はしますが、考えてみればイラストだって手間のかかる行動の一つですよね。いったい何がしたいんでしょう、この犯人」

 まあ、イラストの作者については、犯人の仕業とは限らないわけだけれど、もし別人だとすればそれはそれで疑問の種だ。イラストの作者は破壊行動の現場を偶然見つけてはスケッチし、あの壁に貼っていることになる。

「一応、今までの破壊行動四件については同一犯ってことで繋がったわけよね。四枚のイラストも同一の作者。この犯人と作者を同一とみていいのかはまだ不明だけれど、関わっているのは間違いないかも」

 藍がため息をつく。

「まったく、なんなんでしょう。自己顕示欲の高い愉快犯っすか?」

「それなら金網全体にペンキを塗ったほうが目立つでしょうね。それか写真を職員室あたりに貼ったり」

「イラストは……ああ、あんなに目立たないところに貼っても宣伝にはならないですね」

 そういうことだ。たとえ犯人が自分の犯行を多くの人に知らせたいとして、イラストを階段下の壁に貼るなんて行動は愚に過ぎる。ましてや今回の金網は、あまり人が来ない場所。穴あけは確かにひどいが、目立つかどうかといえばノーだ。かといって、テニスコートが使用出来なくなるような犯行でもない。

「目立ちたがりでもなく、犯行の対象は出鱈目……。ああもう、わけわかりません」

 藍が吐き捨てるのを聞きながら、私は思考にふける。

 破壊行動が同じ犯人であることは分かった。なら、その目的は?

 ピンと来るのは、一つしかない。

 この出鱈目な選択に、なにか共通点がある。

 やっと調査に、一つの目標ができた。



 そろそろ帰ろうと二人で同意し、北の正門へと向かう。せっかくだし、お昼をどこかで食べようか。

 どうも気になって一度振り返り、テニスコートをみる。遠くて見えなかったが、人気がないはずの場所に、誰かが立っているように見えた。

 ……カナ?

 あんなに小さい背丈のセーラー服の人物は限られる。熱気による陽炎のせいで顔も見えないが、本当になんとなく、カナに似ているように見えた。

 声をかけようと思ったが、疎遠になっていることを思い出し、またテニスコートに戻るのも面倒なので振り戻り藍の後を追った。

 もしあれがカナだとしたら、金網の前でいったい何をしているのだろう。

 とくに理由は思いつかず、すぐに私は考えるのをやめた。



     ◆8


 学校を出ると、相変わらずの熱気があたしの体をまとった。

 さて、今日はどうするか。金網は見てきた。美術室にも寄った。やることはこなしたが、何一つ状況は進んでいない。

 四件目の犯行が止められなかった以上、現行犯で犯人を逮捕する術はない。五件目の予告イラストでも発見されればまた別だが、それは犯人の都合だ。

 背中に当たる日差しの熱さで、なんとなくライカのことが思い出された。

 さすがにもう学校には残っていないだろうが、ケヤキあたりでたむろしている可能性はありうる。

 見に行こうか。会えなかったら真っ直ぐ家に帰ればいい。

 暑さを紛らわすため、それと今までの事件を整理するため、七月下旬のことを思い出す。あれは依頼から一週間後、夏休み突入直前のことだったと思う。


- 07/24:夏季休暇2日前

 いつもは早く終わるはずの帰りのホームルームが長引いていた時点で、あたしは気づくべきだったのだ。

 教壇でいつもの連絡事項を話し終えた三浦担任教諭の手には、大きめな紙の束があった。嫌な予感の的中。

「さ、この前やった模擬試験の結果が来たので返却します。出席番号順なので前に来て」

 お約束のように騒ぎ出す教室。逆に暗澹たる気持ちに落ち込む私。

 成績が問題なのではない。一緒に記入する志望判定がまずいのだ。

「親御さんにしっかり渡してください。あとその内容は夏休み中の二者面談でしっかり話しますので」

 親になんて見せたくない。あたしの用紙だけ消えたりしていないだろうか、と願うものの、無常に名前が呼ばれる。黒板の前まで進み先生の手からそれを受け取って、なるべく他の人に見えないよう席まで戻った。

 横のクラスメイトがいかにも騒がしい感じで声をかけてくる。こういう時にテンションが上がる人って多いな。

「ねー、第一志望どころか第二も判定Dだったんだけどー! 佳奈ちゃんはどうだったー?」

「待って、今見てみる」

「みせてみせてー」

 しぶしぶ開く。名前と所属、テスト七科目の各点数、そして志望大学と合否予測。

 あれ、とクラスメイトが首をかしげた。

「佳奈ちゃん、志望一つしか書かなかったの?」

 そう訊かれるだろうから見せたくなかったのに。

「そうだね」

「どうしてー? どうせ項目四つもあるんだし全部埋めたほうがいいって先生も言ってたじゃん。よく分かんなかったら有名大学でも何でもいいって」

「うん、それは聞いてたけど」

「あ、もしかしてもうこの大学一本に絞ってるって事? 私立系なんか興味ないぜみたいなー。確か仁井とかも国公立ばかり書いてたし」

「まあそんな感じかな」

 違うけれどそういうことにしておこう。クラスメイトは悲鳴のような歓声を上げる。

「すごー! だってまだ二年の真ん中くらいなのに、もう決めるなんて早いよー! はぁ……わたしも頑張らなきゃなー。分野決めるだけで精一杯だもん」

「いやー、そんなことないよ」

 手早く試験結果を折りたたんでバッグに仕舞う。この騒ぎで挨拶は無理だと思ったのか、先生はもう教室を出るところだった。もう放課でいいということだろう。

 ……ほんと。そんなことない。

 あたしが志望校を一つしか書かなかった理由。それは別に覚悟でも自信でもなかった。

 すべて空欄で提出しようかとも思ったけれど、さすがにそれは親どころか先生にまで怒られそうだと思った。

 だから、ひとつだけ。父親があたしに行けと推した、法学系国立大。これさえ書いておけば

 本当は、あたしはどこでもいいのだ。大学でも、公務員でも、就職でも、どこでも。そこにあたしは居場所を見つけるだろうし、うまくやっていくくらいの自負はある。

 それでも、その場所にはあたしの『気持ち』が追いついていかないから。

 あたしが、『自分のため』にいける場所ではないから。

 だからいまのところ、進路なんて、どこにもなかった。



「……なるほど」

 一通り今までの報告をすると、美術部の村越部長は感心するようにうなずいた。

 放課後の美術室。あたしと村越部長の二人だけの静かな室内。本当はほかの部員も揃っているところで報告したかったが、今日は休みらしい。不定期に休日が設けられるとのことで、運動部の人が聞けば羨ましがるのではないかと思った。

 あたしは手元のノートを閉じる。この事件に関することはこれに大体メモしてあった。

「赤色ペンキは携帯で写真もとってあります。犯人の同一性証明には十分でしょう」

「ありがとう。さすが岩波が引っ張ってきただけあるわ。喋りもうまくまとまっていたし」

 褒めても何も出ない。それになにしろ。

「すいません。犯人を特定できそうな証拠はまったく見つかりませんでした。目撃者もいませんでしたし」

「それは仕方ないでしょう。なにせ先生方も手の付けようがなさそうだったから。職員室で愚痴を聞かされたわ。じゃあ佳奈ちゃん、現状から犯人像はどれくらい絞れると思う?」

 食えない先輩からの挑戦状というよりは、あたしの考えを純粋に聞きたいらしい。

「そうですね……。やはり学内の人間による犯行であることは確定してもいいかもしれません。三件とも平日、敷地内に生徒がいる日の犯行ですし、いくら一階とは言え掲示板や自動販売機の近くに見知らぬ人がいたらその時点で怪しまれます。おそらく犯人は他人に見られないよう注意を払っているはずですから、逆に犯行現場を堂々とうろついていた可能性が高いかと」

 村越部長は頷く。

「そしてこれは、単なる突発犯ではありません。少なくとも人気がない場所で手当たり次第に、というわけではない。それは」

「予告のイラストと、美術部の製作予定ね」

 さすが。この人は頭が切れると感じていたが、ここまで察しがいいと助かる。

「その通りです。三件の事件はすべて、美術部が進める製作のモチーフを狙っている。偶然とは言いにくい。それに、律儀に犯行予告じみた紙切れまで美術室に残している。これは明確に狙う意図があるかと」

「美術部の内情を知っている人か……」

「そう絞るのは早計ですね。見れば文化祭の予定は美術部のホワイトボードにすべて書いてあるようですし、文化祭関係の人もこれらの情報は知り得たでしょう」

「それはそうね……学校関係者、くらいまでしか絞れないか」

 さて、犯人の所属は分かった。結果としての犯行現場も一通り周ってきた。

「あとは動機です。……先輩は心当たりないですか」

 渋い顔をする岩波部長。

「それが全然ないのよね。第一どうして美術部のモチーフを壊すのか、さっぱり。たとえば恨みによる犯行としても、場末の美術部が恨まれるいわれなんてないし、それだったら美術部に乗り込んで来ればいい。予告まで作る回りくどい犯行なんて誰がやるのかしら」

 美術部が恨みを買うことはない、ということに関しては同意だ。それだったら突発的に美術部を壊しに来るだろう。なにせこうやって部活が休みの日もあるのだ。

 残るは動機、もしくは目的か。犯人はいったい、何をしたいのか。

 仮説はここまでだろう。あたしは肩をすくめ、岩波部長に訊く。

「それで、文化祭の準備はどうなさるんですか」

「正直、迷ってるわ。モチーフが破壊されると、絵にする工程はどうしても遅れる。今のところはすべての場所が修復されているからいいけれど、もし犯行がエスカレートしたらこちらの製作も止めざるを得ない。一応、絵画担当の矢井田には別のモチーフも考えさせているわ。でもあの子意外と強情で、自分が描きたいと思ったのしか描かないのよ。今回も『学校と美術部と私たち』のテーマにも合わせて、自分の思いでエピソードのキャプションも付けるみたい。そうすると学校内のどこでもいい、ってわけにはいかないのよ」

「たしか絵は、文化祭の案内図にも使われるんですよね」

「そう。だからあまりごねていると文化祭実行委員のほうからも苦情が来る。最悪を想定して、絵画部門を削ってもらうことも考えているわ。案内図とかパンフレットとかは突貫のイラストで間に合わせるしかないわね」

 そこまで言って、岩波部長は微笑む。

「だから、一応心配はご無用よ。犯人を捕まえてくれることに越したことはないけれど」

「捕まえるって、それは無茶な……」

「まあ、それは藤島さんの手腕か役立たずの教師陣に期待するとして。……今日見せたかったのは、これよ」

 右手に持ち上げられた、一枚の紙。

「それは……!」

「そう。新しい予告。矢井田の作業場の床に置かれていたわ。おそらく今日か昨日あたりね」

 見せてもらう。今までの三件と同じ、鉛筆のスケッチ。

 まだ犯行を、続けるつもりなのか。

 厳しい顔をするあたしを見たのか、岩波部長が声をかける。

「この場所がどこかは分からないけれど、よろしく頼むわね、藤島さん。ぜひ犯人を捕まえて」


- 08/08:夏季休暇14日目

 回想終了。あたしの足も心なしか速くなっていて、いつのまにか駄菓子屋ケヤキの手前まで来ていた。

 そのまま商店街を通って帰ろうと思ったが、思わず足を止める。二百メートルほど向こう、ケヤキの前に鎮座するベンチに、二人の女子生徒の姿。

 ライカと、真鶴愛ちゃん。

 お昼を食べながら談笑しているらしい。気温は高いが、あの日陰ならまず平気だろう。

 とっさに踵をかえしていた。遠回りになるが、裏道から帰ろう。今はライカと、会うわけにはいかない。見つからないよう、静かに走り出す。後ろを見ないで、陰へと進む。

 やっと気づいた。最近ライカと会わなくなった自分の変化。その理由に。

 罪悪感だ。

 あたしは、ライカに会う資格がないのだ。

 ライカはこの事件を知らないだろう。全貌どころか端っこすらも捉えていないに違いない。そんな彼女を、あたしは利用しようとしたのだ。

 だめだ。会えない。よりによって、さっき回想した四枚目のイラスト。実際には行われなかった事件が、その理由。

 ねえ、ライカ。

 あたしはもう引けなかった。そしてその賭けに負けた。今、必死にあがいて走り回っている。

 あたしが犯した悪いことを許してくれるのかな。謝る機会を、くれるのかな。




     ◇9


 私はケヤキのベンチから立ち上がり、右手の腕時計を見た。二時半ば過ぎ。お昼を食べるだけかと思ったら、意外と長話してしまった。

「そろそろ帰る?」

「そっすね」

 ビニール袋を捨て、バッグを手に持つ。暑さはほんの少し和らいだ気もするけれど、気のせいの範囲だろう。いい加減ちょうどいい曇りの天候にはならないものか。

「この時間じゃ、帰っても微妙ね……」

「ライカ、眠いから帰るっていってたのに今は目冴えてるんじゃないですか」

「そういえばそうね。でもベッドに倒れこんだらすぐ寝るでしょうね。お昼も食べたし」

「あはは、分かりますそれ」

 商店街を南に進む。そういえば藍の家はどの方角にあるのか知らない。去年は沢山つるんでいたものの一緒に帰ったことはなかった。

 寂れた文房具屋さんを横目に、なるべく日陰を選んで歩く。ああ、そういえばシャープペンの芯をそのうち買わなければいけない。こうしてこなすべきタスクをまた一つ追加しているだけで、ストレスのタコメーターも増えていくに違いない。まったく燃費の悪い私の性格だ。

 古びた自動販売機を過ぎたあたりで、藍がこちらを向く。

「来夏、そういえば訊きたかったんですけど。どうしてこの事件に対して乗り気になったんです?」

「はい?」

「いや、だってアタシが勧めてもそんなに最初は興味を示さなかったじゃないすか。いつも通りの来夏だなあとは思いましたけど、そこから話しをしていくうちにどんどんやる気になっていったというか。なにが来夏を動かしたのか聞きたいです」

 私はあきれかえった。

「それをあんたが言うか……」

 なにせ『五つ目の願い』の話を持ってきてあちこち引っ張り回したのは藍本人なのだ。乗り気も何も、半分くらいは藍に背中を押された状態。

 まあ、強いて言うなら。

「都市伝説の話だけだったら特に何も感じなかったけれど、その後に悪戯の事件を聞いたから、少し気持ちは変わったかもね。まあ自分が考えたってどうにかなるとも思えないけど」

 あれ、これでは理由になっていない。

 藍のほうを向くと、なにやらむっとしていた。

「あれすか、特に理由はないんですか?」

「そう言われても……」

「なんかアタシに押し付けられたから仕方なくやるとか、適当にごまかせばいいとか思ってません?」

「思ってない。……藍、なにか怒ってるの?」

 藍は答えず、私の先をずんずん進む。気に触ることでも言ったのだろうか。藍がこのように感情をあらわにするのは珍しい。いつもはなんというか、もっと表面的な所で付き合いをする子なのだけれど。

 商店街を抜け、藍は交差点の信号でやっと立ち止まった。さすがに赤信号は無視できない。

 慌てて追いついたこちらをちらと見て、ため息を吐くように呟く。

「もう少し、考えてくれてるのかなと思ったんですけど。まあ、アタシの変な邪推です。すいません」

「ねえ、藍、どうしたの?」

「別に何も。……さ、来夏の家はそっちですよね。ここでお別れです。また」

 信号が青になった途端、彼女は横断歩道に歩き出す。

 道路を渡りきってしまう前に、私は思わず声をかけていた。

「ねえ! ……またなにかあったら連絡して。別に事件のことじゃなくてもいいから。手伝ってあげられるかもしれないし」

 くるりと振り向き、藍は苦笑する。

「期待してますよ、探偵さん」

 彼女はすぐに道を曲がり、姿が見えなくなった。私だけ交差点で立ち尽くす。

 探偵? もしや事件に関する私の姿勢を言っているのだろうか。だけど、私は探偵じゃない。少なくとも、犯人を日の光の下に引っ張り出そうとしているのではないのだ。

 それでも、こうやって調べることは、探偵的行為になってしまうのだろうか。

 ……藍の言うとおり、私は考えるべきなのかもしれない。私がこの事件に携わる理由。単なるパズルではすまなくなったこの出来事に、私はどう向き合うべきなのか。

 帰ったら寝よう、と思いつつ、このことをまた頭の中のタスク表に追加した。




     ◆10


 商店街をかわして帰ってからも、あたしの受難は続いた。

 誰もいないリビングに入り、なにか軽く昼食でも作ろうかと思ったところで、テーブルの上に置手紙を見つけた。几帳面な自体と一番下の署名。無意識のうちに声が出る。

「……お父さん」

 帰ってきていたのか、と思ったが、どうやら書類を取りに短い時間だけ戻ってきたらしい。それで、家の中に誰もいなかったから置手紙ということらしい。

 テーブルの下で靴下を脱ぎながら、その手紙を読む。ここ数週間の多忙、母への連絡事項。そして最後のほうに、あたしへのメッセージがあった。

『佳奈は夏期講習で忙しいとお母さんから聞いている。もしかしたら進路に迷っているのかもしれない。前にお父さんの言ったことはいったん忘れてくれていいから、自分の進むべき道を決めなさい』

 二度読み、手紙を向こうに追いやって、制服を着替えに二階へと向かった。

 父が近くにいれば、耳元で叫んでやっただろう。

 何も知らないくせに、と。



 あたしの父は弁護士をしている。家から二十キロほど南に行ったところの法律事務所に所属し、半分はあっちのほうで寝泊りをしている。単身赴任とあまり変わらない。共働きだから母との時間も合わず、そのうち家から疎遠になった。それはあたしの主観だけなのかもしれないが。

 あたしの進学先として法学系を勧めたのも父で、中学生くらいの時からしつこくあたしに押し付けてきた。法律の道は有意義で云々。高校進学の時にも突然家に帰ってきたと思ったら似たような話をされ、あたしは一言返した。

「お父さんはあたしに弁護士のほうに進んで欲しいだけなんじゃないの? あたしと話が合うから」

 そんなことはない、と返した父がその時ばかりは目をそらしたのをあたしが忘れるわけはない。

 そんなこんなで、おそらく月に三度ほどしか帰ってこない父がわざわざあたしの進路の話をしたということは、原因が一つに絞られる。母が模擬試験の結果について喋ったのだろう。今のあたしのクラス番号かも知らないであろう父はあたしの進路なんて気にも留めていなかったに違いない。

 この前の母との言い合いが功を奏したのか、あたしが何か訴えたがっているということは分かったようだが、言葉がふるっている。『言ったことはいったん忘れていいから』。家で話せる話題が仕事のことしかない父の台詞ではない。ことあるごとに法の道を説いておいて『あたしの道を進め』とは片腹痛い。『勧め』の間違いではないのか。

 あたしが志望を一校だけしか書かなかったのには、両親に訴える意味があった。いくらにぶくても、あたしに関心がなくとも、こうすれば話を聞いてくれると思ったからだ。

 でも、これでは。

 あたしは顔を覆う。いっそのこと、このまま父に従い法学部を目指すという選択肢もあった。あまり偏差値の高いところは無理だろうが、地元に手ごろな大学はある。

 それでも、あたしはそれを許せない。

 それは、『自分のため』に動くあたしにとって、負けの宣告に等しいものだから。



 夜になり、母と二人の夕食を終え、リビングでゆったりしながら事件に関するノートを広げる。

 メモが雑多になりすぎて事件経過が分かりづらいので、いったんまとめようと思ったのだ。

七月上旬 予告

同上旬 掲示板、被害に

七月中旬 予告

同中旬 噴水、被害に

同中旬 予告

七月十七日       自動販売機、被害に

七月下旬 予告(不発?)

八月上旬 予告(気付かなかった)

八月九日 テニスコート金網、被害に

 こうしてみると、いまいち日付が埋まっていない。これは迂闊だった。少なくとも各事件については目撃者に聞いていつのことだか確認しておかなければいけない。

 被害は定期的に行われている。いまのところ四件だ。ここで考える。……まだ犯行は続けられるか。

 あたしの頭による回答はイエスだ。なにせ美術部が決めた絵画モチーフはまだいくつかあるようだし、教師陣の対応も後手に回っている以上、犯行を躊躇する理由はない。

 次の予告は、いつになるだろう。



 ソファに寝転がりノートを上にして呆けていたところ、母が近づいてきた。

「何の勉強?」

「うん、まあ」

 適当にごまかす。悪いことをしているのだ、と言ったらどういう顔をするだろうかと思う。母は向かいの椅子に座り、マグカップでコーヒーを一口飲んだ。ちなみにそのマグカップは父からの誕生日プレゼントだったはず。こういうのを見るたび、別に仲の悪い二人ではない、とは思うのだけれど。男女関係というのはよくわからない。

 特に意味はなかったが、母に訊いてみる。

「例えば、高校の備品に次々悪戯される事件があったとして、犯人は誰だと思う?」

 マグカップを持ったまま目を丸くする。

「なに、そんなことがあったの?」

「いや、仮定」

「仮定ねえ……。まあ八割方生徒でしょう。先生はやらないでしょうし、学校内をよく知っていないとすぐ捕まるからね。というか、仮定するには情報が足りないわよ」

 妙に鋭い母。情報といわれても、実際の事件も要約すればこんなものなのだが。

「じゃあ、あらかじめどこかに犯行を予告して、それから悪戯していたとすれば。犯人の目的は?」

「難しいわね……。何かのドラマ?」

「そんな感じ」

 母はしばらく思考にふける。なんだかあたしの考え込む姿勢に似ている。やがて手を伸ばしマグカップをテーブルに置いた。

「なにか主張したいんでしょうね、その犯人さんは」

「主張?」

「そう。その内容までは分からないけど。こう、俺はここにいるんだぞーとか、あいつが許せないーとか、そういうの。主張っていうのは、相手がいなくてもできるものだからね」

 そこまで言って、興味をなくしたのか母はテレビをつける。

 主張、か。

 なんだかあたしのことを見透かされたような気もするが、それは考えすぎというものだろう。




     ◇11


- 08/09:夏季休暇15日目

 土曜日。目が覚めても、あまり気分は晴れなかった。

「今日も学校……」

 ただでさえ今はカナと気まずい時を過ごしているのに、藍とも軽く揉めるとは思わなかった。学校に行く気が次々に擦り減る。明日は日曜、明日は休み。頭の中で連呼しながら家を出る。

 さっき見た天気予報では今日は曇り。珍しく予想最高気温も高くない。快適に過ごせそうだ。

 ふと思う。明日が休みということは宿題も明日に回せる。今日の午後は暇だ。特に理由もないが、連続悪戯事件の場所をもう一度回ってみようと思う。少し、考えることがあった。

 藍の言うとおり、私には『理由』が少ない。こんな面倒なことに付き合う理由が。頭を使うかもしれないイベントだからといって、係わり合いになる必要はなかった。

 それでもまあ、最初のとき藍に電話をかけたのは私なのだから、少しくらい付き合ってみようかと思う。

 そうだ。せっかくだしカナにも話してみようか。興味を持ってくれるかは分からないけれど、



 どうやら楽観していたらしい。

 気を失いそうなほど退屈な数学の時間を終え、さてカナに話しかけようと思った瞬間、ものすごいスピードで教室を出て行った。なにか用事でもあったのだろうか。

 喧噪の教室。他に関係ない人を巻き込むわけにもいかないだろう。

 バッグから携帯を取り出す。藍にメールを打ってみた。夏期課外を受けていないのだから学校にはいないだろう。昨日別れ際の発言の真意も訊きたいし、会っておきたい。

 次々とクラスメイトが教室を出ていく中、メールが返ってくるまで時間をつぶす。私だって予定がなければ教室に長居しないだろう。今日はまだいいが、いつもは灼熱地帯だ。

 携帯を開いたり閉じたりしながら外を見る。珍しく灰色の空。南側の部室棟、東南の体育館、そして敷地の先には見慣れた街並み。こうしてみると、やはり私たち学生というのは色々なくくりの中で生活しているのだ、と思う。

 携帯が震えだした。藍はメールが短く速い。

『すいません、今日バイト入ってるんで』

 ああ、そうか。駅近くの雑貨屋さんだったっけ。シフトの時間まではわからないが忙しいのだろう。夏休みだし、そういう生活の仕方もある。バイト経験がほとんどない私にはピンとこないが。

 立ち上がる。一人で行くしかないか。少しばかり心細いが仕方ない。



 特に計画を決めていなかったわけではないので、適当に回る。

 まずは中央階段で一階まで降り、最初の被害である掲示板へ。特にいつもと変わったところはなく、事件のことを知らなければ掲示板が新しくなっていることにすら気がつかないだろう。

 靴をはきかえ、北側駐車場の噴水へ。こちらはまだいくらかペンキが残っている。縁で固まった赤色の塗料を爪でこすってみたが、すべて取るのは面倒そうだった。

 ……ふうん。わざわざペンキを、水の中に。

 被害順の次は西側自販機だったが、また上履きを履くのも面倒。先にテニスコートに向かう。昨日も来た、穴あき金網。今日もソフトテニス部は活動していない。教師陣が気づくのはいつになることか。

 さて、私が今日来たのは、別の所を確かめるため。ペンキが塗られた下側。一旦気づけば見過ごせないほどの範囲に赤く塗られた金網。……頭をかく。なぜこの範囲なのか。広くもなく、狭くもなく。おそらくこの辺に意図があると思うのだけれど、いい案は浮かばない。

 しばらく考え込んでいると、急に雲が割れ、私のいる所だけ太陽が照らし出してきた。屋内に逃げることにする。

 残るは自動販売機。横の購買部には何人か生徒がいた。お昼を食べていなかったことを思い出した途端、お腹が空いてくる。とりあえず先に検証だ。

 自動販売機横の床。壁との隅っこに、同じような赤いペンキ。探さなければ見つからない程度だろう。いったい犯人は、どうしてこんな痕跡を残したのか。

 少しばかり、思考の方向性が見えてきた気がする。お昼にしよう。



 飲食可能な自習室にもぐりこみ、パンを頬張る。

 ここ数日、クラスメイトに『五つ目の願い』について訊いてみた。知っていたのは五人中三人。私も知らなかったし、浸透度は学内でそれほど高くないのかもしれない。興味のあるふりをして詳しい内容を聞いてみたが、一人はうろ覚えで、もう一人も人づてに軽く聞いただけらしく、私が藍に聞いた話とは異なっていた。大抵の都市伝説と同じくバリエーションがあるのだろう。

 三人目は藍のクラスの子で、かなり詳しいところまで知っていた。『五つ目の』というタイトルには理由があるらしい。なんと、あの壁に書いた願いの二〇パーセントは逆に叶えられる、とのこと。気まぐれなのか力の限界なのかはわからないが、全体の願い事のうち五個目、一〇個目、一五個目……と五の倍数だった場合、その願いは逆さま、つまり『なりますように』が『なりませんように』となってしまう。

 私はその子に訊いた。

「なにその複雑なシステム。それじゃ信用できないじゃん。自分の願いが五の倍数番目だったら逆に叶っちゃう」

「だから、願いを書く前に、まず現在その壁に願い事がいくつ書いてあるか数えるんだって。それで、自分が今から書く願い事が五の倍数にならないようだったらそのまま書いて、もし五の倍数になっちゃうようなら願い事を『反対』に書くの。『テストの点が取れませんように』とか。そうすれば逆に叶えてくれるから、それはそれでうまくいくらしいよ」

「面倒だね……」

「なんか、あそこに書いてある星マーク? あれが五つの角をもっているのが原因らしいよ。よく分かんないけど。まどろっこしくても願い事は数えとけよー、って言われた」

 合理的というか、ディティールが凝っているというか。こっくりさんでいう、周りに人がいないように、というような面倒なやり取りの一つなのかもしれない。

 それでも、私は考え込む。

 うまいやり方だ、と。

 たとえば壁に書かれた願い事が全て絶対に叶う仕組みだったら、私はむしろその伝説を疑うだろう。この中には叶っていない願い事もあるに違いない、と血眼になって捜すに違いない。また、絶対叶わない願いを書く人だっているかもしれない。そうすれば『絶対に叶う』という神話は地に落ちる。

 ところがこうやって、二割は別の叶え方をさせれば。後から壁を見に来た人は『五つ目の願い』の信用性を判別できない。なにせいろんな願いが書いてあり、叶ったかどうか全く分からなくなるからだ。そうして『五つ目の願い』は『伝説』としての位置を守る。叶ったか叶わないか分からない、気まぐれな伝説として、噂にはなっても疑われはしない。噂の流れは広がる一方だろう。

 高い頻度で当たる占い師のほうが、百パーセント当たる占い師より、信用は地に落ちづらい。うまい予防線だ。

 ……まあ、なににも関係しない、ただの予想だ。

 今回の事件にも関係ない。貼り出されるイラストには文字が書いていないのだ。あれでは何の願いだかわかったものではないのだから、伝説だってそれを叶えるのは不可能。書いた人の思いを読み取れるのなら別だが。

 パンを食べ終え、息をつく。そういえば、『五つ目の願い』の壁にも行ってみよう。特にヒントはないだろうが、まだ四枚目のイラストは貼ってあるし、事件に関係がないとはいえない。

 時刻は午後二時前。少しばかり、学校に長居しすぎたかな。



 雲の色が濃くなるほど、言いようのない不安というのは増える。何かが起こる前触れとはいわないが、いつも快晴だったのに今日はどういう風の吹き回しか、と疑いたくもなる。

 意外と明るい西側階段には、当然のように人気がなかった。

 階段を降り切って、反対側へと回る。直角三角形のデッドスベース。壁に刻まれた星とその周囲の願い事。

 七夕に似ている、と思った。遠くの星に願いをこめ、定められた決まりのなかで願いを書く地上の人々。

 目線を上のほうに向ければ、一枚のイラストが相変わらず貼られている。鉛筆で描かれた、穴の開いた金網。これを書いた人は一体誰なのだろう。この壁に貼った理由はなんなのだろう。なにか、同じように想いがあるのだろうか。言葉でなく絵によって表現された願いが。

 手を伸ばし、紙の縁に触れる。

 顔を近づけてよく見ようと、膝を立てたその時。

「うああああっ!」

 大声と共に、右の脇腹になにかが衝突してきた。

「ぐ……っ」

 痛み。思わず変な声が漏れる。

 なんとか左手をつけたが、衝突してきた何かはそのままの勢いで私の体を床に押し付ける。私のお腹に回るその右手を見て、ぶつかってきたのは人間だと気がついた。そのままうつ伏せでのしかかられ、身動きが取れない。

 一体なに?

 それは、私が首を捻った瞬間に分かった。

 私を床に固定している人物。その人は制服ではなく、肌色のチュニックを着ていた。私の背に乗っかるようにして、手に未だ力がかかる。どこからそのパワーが出るのかと思うほど、その人は背も小さく、体重が軽かった。

 そして目が合った瞬間、私とその人は固まる。

 その人は、私がよく知っている。思わず叫んだ。

「カナ!?」



 彼女はもう一度瞬きをして、私のことを確認する。私と同じように驚いているらしい。手の力が緩んだので、私は手をついて彼女の方を見ることが出来た。確かに、藤島佳奈本人だ。

「……なにしてるの、ライカ……」

 それは私の台詞だと思ったが、カナの様子に変なものを感じた。

 どうして学校なのに、彼女は私服姿なのか?

 どうして私に向かって突っ込んできたのか?

 どうしてこの『五つ目の願い』に来たのか?

 怖気づくように後ろへと下がるカナを見ながら、ひとつの想像が頭をもたげる。

 ……まさか。

 彼女の目立たないような姿、犯罪報告のように貼られたイラスト、私を押さえ込む鬼気迫る行動。

 そんな、まさか。

 ――カナが、『犯人』?



     ◆12


 土曜日というのは母が朝遅めに出る楽な日なのだけれど、、あたしは夏期講習が当然のようにあるので結局時間が合わない。無理に母を起こすのも悪いと思い、菓子パンを朝ごはん代わりにして家をでた。

 それでも時間が遅めだったので、教室についてすぐ授業が始まる。夏休みというのに忙しさは変わらないなと思いながらバッグの中の筆記用具を取り出そうとした時、あることに気がついた。

 事件をまとめたノートがない。

 すぐにその在り処を思い立ち唇をかむ。ノートは昨日、リビングに持ち出したのだ。そのうちどこかに手放したに違いない。

 はあ、どうするか。

 今日、美術部の幽霊部員がひとり部室に現れるという話を美晴ちゃんから聞かされていた。来るかどうかはわからないがもう一人の男子生徒も呼びかけてみたらしい。名前は……なんだっけ。それもノートに書いておいたはず。

 取りに戻るしかないか。幽霊部員たちに帰られてはたまらないし、授業が終わりしだいすぐ家に取りに戻ろう。




 息が切れる。教室からここまでノンストップの全力疾走だから仕方がないが。

 いったんソファに倒れて息を整えた後、事件ノートを探す。しばらく部屋をひっかきまわす。やがてノートが新聞をまとめるボックスに入っているのを見つけた。母が間違って入れたらしい。中身は雑多なメモの集合だし、見られても問題ないはず。

 さて、また学校に戻らなければならないのか。せめて走るのはやめよう。

 リビングを出ようとした矢先、携帯が鳴り出した。

 表示窓には『矢井田萌絵花』とある。萌絵花ちゃんか。今回の事件の主な被害者がなんの用だろうと思う。おそらく美術部に件の幽霊部員が来たのだろうと思い、携帯を耳に当てる。

「もしもし?」

「あ、佳奈ちゃん? いろいろ伝えてっていわれて教室探したんだけどいなくて電話しちゃった。いま大丈夫?」

「うん。いま忘れ物して学校戻ること。なにかあったの?」

 微妙に萌絵花ちゃんの声のトーンがいつもと違う。

「今日、部員が集まるって話聞いたよね? それがさ、中止になったの。なんだかふたりとも来ないらしくて。また今度に、って」

 なんと。さすが幽霊部員、神出鬼没らしい。連絡がついただけましか。

「りょうかーい。じゃあ美術室にはまた後で行くね。ありがと」

「あ! ちょっと待って。もう一つあるの」

 電話を切ろうとしたが止まる。

「なに?」

「これは噂なんだけど……おそらく関係するから、伝えておこうかなって」

「ああ、信憑性はこっちで判断するからいいよ。なんでも良いから手掛かりが欲しいの」

 言いよどむ彼女の背中を言葉で押すと、スムーズに話が進んだ。

「友達に聞いたんだけど、西側階段の裏側の壁に、最近変なイラストが貼ってあるんだって。あの壁、願い事を書くと叶うって伝説があるらしくてその友達が行ったらしいんだけど、そのイラストが奇妙で気になるって」

「……そのイラストって」

「そう。聞いてみたら、手のひら大のケント紙に、鉛筆で描かれているんだって、それ」

 思わず携帯を持つ手に力がこもる。

 犯行予告と同じ形式だ。

「何が書いてあるのかは見てみないと分からないね。美術部の私の机に置かれてるのと同じかどうかは」

「あたしが行く。確かめないと。……このあと学校戻るから。萌絵花ちゃんは美術部に犯行予告がないかどうか探しておいて。いつ置かれるかわからないし」

「分かった。毎日チェックしておくね」

 携帯を閉じ、目を閉じて、考える。

 分かっていること。新たなイラストがある。それは西側階段裏に貼られている。ケント紙。鉛筆画。

 確かめること。そのイラストに何が描いてあるのか。そのイラストは犯行予告と同じ形式か。誰が貼ったのか。いつ貼られたのか。

「……よし」

 目を開けて、リビングを出る。今日は美術部に行く予定は無いし、聞き込みよりこっちの方が重要だ。

 犯人の新たな手掛かりになりうる。それだけで、あたしが動くには十分。



 別に急いで行く必要はない。

 犯人がそこにも予告イラストを貼っている可能性も僅かながら考えられる。最悪鉢合わせまでありうるから、準備はしておくに越したことはない。

 自分の部屋に戻って、チュニックとホットパンツを取り出す。この前買ったそれに着替え、姿見で変装を確認する。別に制服で行ってもいいのだが、犯人がいた場合に警戒されないよう、目立たない服にした。

 もう一度、目を閉じる。

 あたしはどうして、ここまで頑張るの?

 それは、自分のため。

 鏡の向こうの自分をもう一度だけ見て、部屋を飛び出す。時刻は二時。



「……いた」

 予測はいつも悪いほうにしておかなければならない。守っておいてよかった。

 西側昇降口は北を向いているが、今あたしが様子を伺っているのは南側入り口。見やすく、遠くからも確認できた。

 階段の斜め部分にしゃがみこむ、一人の女子生徒の姿。髪が長めだ。あんなところに生徒がいたところなんて見たことがない。なにか用があるに違いがないのだ。

 音を立てず、こちらを確認されないよう慎重に近づく。なにか壁を熱心に見ているようだ。

 目を凝らすと、心拍が上がる。その女子生徒の前には、一枚のイラスト。間違いない、犯行予告と同じだ。

 女子生徒はそのイラストに手を触れさせている。この人が、イラストの作者か。

 これ見よがしに予告し、破壊を繰り返す、目的不明の犯人。

 あたしはすぐさま判断する。作者と犯人が違うとしても。またはこの女子生徒が犯人ではない可能性はあるが。

 取り押さえた方が、なにかと優位に決まっている。

「うあああっ!」

 腰をかがめ、あたしは走った。

 突っ込むように女子生徒の横に体を合わせ、ラグビーのタックルの姿勢。それぞれの手を押さえながら床に押さえ込む。当然相手は呻く。

「ぐ……っ」

 構わず右腕を自分の脇でホールドしつつ、力を入れてうつぶせにさせる。予想通り彼女の左手は自分の体制維持に精一杯で、こっちに向かっては来ない。あたしが背中に手を置けば、振り仰ぐのもつらいだろう。こっちは右手を捻るだけでいい。

 のしかかりなおしたところで、彼女の首だけがぐるりと回る。端正な顔。コケティッシュな唇。

 え……?

 あたしは呆けて、力を思わず抜いてしまった。彼女が完全にこちらを向き、しばしの間見つめあう。

「カナ!?」

 あたしが取り押さえた女子生徒。それは、ライカだった。

 ぐらぐらする頭をどうすることも出来なくて、彼女とあたしは目を離せない。横のイラストにも気を向けられないほどに。

 どういうことなの?

 あたしはなにがなんだか、分からなくなった。




INDEX

第一話 静かな声音が、その場に響く
第二話 小さな期待が、その子を動かす
第三話 健気な言葉が、手紙に現る
第四話 数奇な対面が、全てを始める
第五話 苛烈な降雨が、虚像を暴く
第六話 二つの事件が、過去から交わる
第七話 一つの推理が、未来に導く


INFORMATION
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 活動報告、プロジェクト、短編掲載など。

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