ラムネクラブ RamuneClub

  第五話 苛烈な降雨が、虚像を暴く



  義里カズ








 私がラムネクラブに入った理由の中で、最も簡単なもの。それは、活動場所が通り道だからである。

 ラムネクラブの活動場所、駄菓子屋ケヤキ。ちょうど私の家と学校の中間地点。学校帰りに寄る上で絶好の場所だ。居心地のいい休息地。おかげでこの夏休み、一つの行動パターンができた。午前の夏期講習を終えてから、ケヤキに寄ってしばらくくつろぎ、家に帰る。これでは本当に、部活動をやっているようだ。

 人と過度に固まるのを嫌っていた私にとって、この居心地の良さは大きい。ぎすぎすしていない、自由な関係。

 ……でも。

 もし、ラムネクラブでもそんな「ぎすぎすした関係」が始まったら、と考えるだけで、少し気持ちが落ち着かなくなるのはなぜだろう。



 昔の出来事を、思い出していた。

 あれは小学校の頃だっただろうか。大雨が降ったその日の放課後。幼い頃の私は、朝の天気予報を信じて傘を持ってきていたが、放課後昇降口に向かうと、立てかけていたはずの傘スタンドから私のだけが消えていた。次々と雨の街に帰っていく友達。私はしばらく考え込み、近くの壁にもたれかかったのだった。

 ……たぶん、だれかがわたしのかさをまちがってもっていったんだ。まちがいにきづいたらすぐにもどってくるんじゃない?

 その頃の私の思考は甘かったのだろう。そんな考えしか持てなかった。誰かが持ち去った可能性に思い当たらず、かえってくるのを期待して二時間近くも待っていた。結局、最後は担任の先生に傘を貸してもらったのだ。苦い思い出。

 でも、少しだけ思った。傘を持っていった子の事情を私が思い浮かべたように、その子も、傘が無くなった私の迷惑を考えていてくれているだろう、そんな風に考えていた。

 現実は、違う。傘は返ってこない。私の思いもどこかにいった。想像することが正しいのか、そんなこと気にせずに生活するべきなのか。

 いまだに、答えは出ていない。



 窓の外を眺めながら思い出にふける。ひどい雨。バケツをひっくり返したという形容では足りないくらいの降水量。

 火曜日、時刻は正午過ぎ。いつも通り夏季課外は無為に過ごした。普通だったらこのまま帰るのだけれど、今日は朝からあいにくの大雨。風も強く、とてもでないが傘なしで帰れるような天候ではない。クラスメイトは一通り居なくなってしまい、私と数人の生徒が教室に残っていた。多分残っているのは二者面談を待つ生徒だろう。

 さっき、お母さんに事情をメールした。さすがに迎えに来てくれるかどうかは分からないけれど、期待はしておこう。台風のようなこの中を制服で突っ走るのはぞっとしない。

 昨日までこの地域はずっと快晴が続いていた。隣町のダムでは日照りを警戒するほどである。ところが今日は打って変わってこの雨。さらに気温があまり変わらないというのもたちが悪い。熱せられた鉄板のような暑さも嫌だけれど、湿気に満ちたべとべとの熱気は不快感全開だった。

 例えば、廊下が滑る。机はノートがひっつく。前髪はおでこに張り付く。シャツは生乾きのような感触ばかりする。上履きを動かせばペリカンの鳴き声のような音が鳴る。

 もううんざりな一日だった。今すぐにでもシャワーを浴びたい。

 もういいから誰かの傘を借りて帰ってしまおうか、などと不埒な考えにとらわれかけた瞬間、返信が来た。……よかった。今お母さんはスーパーにいるらしい。帰路で学校に寄ってくれれば無事帰れるだろう。

 机から体を離し、荷物を取り上げる。

 もう一度中学校のことを回想しながら、私が無断で傘を借りる行為は無理だろうな、と思ったりした。


「ひどい雨ね」

「ホント」

 助手席に乗り込みすぐにドアを閉める。お母さんにわざわざ昇降口の近くまで車を近付けてもらい、さらに傘を持ってきてもらった。感謝。

 校門を出た車は南方向に曲がる。ここからもう少しすれば中央の商店街。そこを抜けて左に十五分ほど進むと家に到着する。

 激しくフロントガラスに叩き込まれる水滴を、ワイパーが必死にどかす。窓の景色はいつもと違う。誰も歩いていない歩道、大きな水溜りができた駐車場、風雨に晒されて今にも折れそうな桜の幹。次々と窓の後ろに消えていく。

 交差点でハンドルを切るお母さん。

「連絡あるかと思って、車に傘二つ乗せておいて正解だったわ。来夏、朝持っていかなかったし」

「……うん。まさかここまで降るとは思わなくて」

 朝にテレビで確認した降水確率は五十パーセント。五分五分の可能性で降らない方に賭けたけれど、見事に外してしまった。この風では傘をさして帰るのもつらかっただろうけれど。

 そして商店街に差し掛かろうとしたところで、思わぬものが目に入った。

 ……え、ちょっと。

 本当に?

「お母さん、ちょっと停めて!」

 がつんと急ブレーキ。私もお母さんも前のめりになる。

「ちょっとなによ来夏!」

「……ごめん、そんなに急に停めてもらうとは思わなかった」

「はあ? なによそれ、なんか轢いたのかと思ったじゃない。急に大声出して」

 その通りだった。びっくりしたから仕方がない。周りに車がいなくて助かった。

 私は歩道のほうを指差す。

「ちょっとそこんところに寄せて」

 怪訝な顔をしてハンドルを操作するお母さんを尻目に、私は体を捻って後部座席から傘を持ちだす。

「ちょっと用ができたの。先帰っていいよ。帰りは歩くから」

「えぇ、あなた何言ってるの? この暴風雨に。迎えに寄ってって言ったのあなたじゃない」

「ごめん、でも」

 一拍おいて、なんと言えばいいのか迷いながら、続ける。

「友だちを放っておけない」

 私の目線の先を察したのか、お母さんが唸る。

「……なるほどね。いいわ、乗せてったら?」

「うーん、どうだろう。遠慮しそうな気がする」

 もう一度呻くお母さん。

「……傘貸してあげなさい。あれじゃあ持ってなさそうだし」

 そうか、二本あるんだった。お母さんに感謝と謝罪の言葉を残し、私は車を降りる。荷物は載せたままでいいから、持つのはもう一本の傘だけ。

 相変わらずの風の強さ。傘を斜めにしながら、その方向に近づく。

 何も無い空き地が終わり建物が並び始める、商店街の入り口。その一軒の店「ケヤキ」の前。

 庇に守られたベンチに、その女子高生は座っていた。

 ぎりぎりで風にも雨にも当たってはいない。制服はかなり濡れており、髪も洗ったばかりのようにべたべた。ヘアピンもその用をなしていない。酷い姿でも、その顔は険しいままピクリとも動かず、まるで獲物を狙う猫のような鋭い眼光で座っている。

 そしてその顔は、この夏休み、何度も見た。

 近づいて、声をかける。

「……カナ」

 ぴくり。首をゆっくりこちらに向けた我が同級生、藤島佳奈《カナ》は、その真面目な顔を、おそらく世間体向けの笑顔へとすぐに変える。

「ライカ? なにやってんの、この雨の中」

 笑いながら短い髪をかき上げるカナ。

 それは私の台詞だ、としか言いようがなかった。




     2



 訊きたいことは山ほどあったが、何から訊いていいのか分からない。

 カナが腰を浮かせて座るところを作ってくれたので、庇の下で傘を畳み、ベンチに腰掛ける。

「まさかライカも来るとは思わなかったな」

 びしょ濡れのカナは笑って続ける。

「そうまでしてラムネクラブに来たかったの? ライカ」

 私は首を振る。

「馬鹿。こんな雨の中来ないよ。帰るところだったんだけど、見かけたから思わず止まったのよ」

 建物によって風も遮られているから、なんというか、台風の目のような場所になっている。それでも、吹き込んでくる数滴の雨が頬に冷たい。

 しかしカナはひどい格好だ。

「傘持ってこなかったの?」

「うん」

「ここまで走ってきたの?」

「そう」

「わざわざここに来る理由があったの?」

「あるよ」

 それはなに、と訊こうとしたらカナに遮られた。

「あるんだけどさ、今日は必要なかったかな。まさかここまで降るとは思わなかったし。確認だけして帰ればよかった」

 カナが言う「確認」とは、私がいるかどうかだろうか。でもこの雨に飲み食いなんてしない。ふつう雨天中止だろう。

 足首に雨が当たったので足を引っこめる。

 カナがわざわざ私の質問を遮ったということは、訊かれたくないことがあるということだろう。それくらいは分かる。なら、その質問は何か。一つしかない。

 なぜ、カナがここにいるのか。

 私は前から、それを訊きたくて仕方がなかった。ただ帰りにラムネを飲むだけの関係。別に無理してまで来る必要はない。例えばこんな雨の日なんかに、制服を水に濡らしてまで。

 ……なにか、あるのだろうか。カナがここまで固執する理由が。そしてその理由は、私が聞いては駄目なことなのだろうか。

 カナと目を合わせる。「ん?」という笑顔で見返して来るカナ。でもその眼だけは、真っ直ぐ、黒い。

 静かに、私は息を吐いた。

「カナ、あんた傘持ってないんでしょ。そんな姿じゃ風邪ひくわよ」

「大丈夫! さっきもおばさんにタオル貸してもらったし、走って帰れば」

「無理無理、この天気じゃ。……ほら、傘貸すから」

 手元にあるもう一本の傘を押しつける。

「ホント? どうして二本持ってるの?」

「お母さんから借りた」

「そう……お母さんから……うん、じゃあ借りるね。今度返すから」

 カナは礼してから傘を手に取り、目線を斜め前方に向ける。相変わらず止まない、風と雨。

「うーん。でもこの風じゃかぶっても帰れなさそうだね。むしろ傘の骨折れちゃいそう。もう少しこの風が収まるまで待とうかな」

「それがいいかもね。私もそうする」

 その後も雑談しながら、ふたりで外を見続ける。雨がどれにも等しくぶり積もる様。

 結局カナに質問はしなかった。

 質問をさえぎるということは、答えづらいということだろう。なにか衝撃的なものでもあるのかもしれない。例えば……なんだろう。実は結婚してるとか。実は私たちは姉妹だとか。実は留年の危機とか。そういうの。例えが違う気もするけれど。

 誰しも訊かれたくないことはある。それを訊かないのが、関係を壊さないコツ。

 そう考える私は、まだまだ甘いのだろうか。



 一通りお喋りをし、店内に入ってお菓子を買い、それでもまだまだ雨は止みそうになかった。遠くのほうでは雷まで鳴っている。

 私は、おばさんがまだ店を開いていたことに驚きを隠せなかった。こんな天候ではお客さん一人も来ないだろう。いつもそんなにお客さん居ないのに……とはもちろん口には出さないでおく。

 結局私たち二人はベンチに座り、じっと雨の様子を見続ける。だんだん会話もなくなってきた。

 カナがカフェオレの缶を横に置く。

「うーん、あとなんかあるかな、話題。こういうときに話すのは……。ああ、恋バナとかかな。ライカはそういうの興味ある?」

 なにを唐突に。

「ないわよ、恋なんて。まず男子と話すことなんてほとんどないし」

「へー。付き合ったこととかは?」

「……ない」

 とくに動揺もなく答える。そういう性分だから仕方がない。別に劇的な出会いに憧れているとか、そういうこともない。ただ、縁がないだけだ。

 カナは何度か頷いた。

「そう。……あたしはね、一度だけあるんだ」

 遠くを見る目。

「へえ」

 それは初耳だった。カナは活動的だし、そういうのがあってもおかしくない。青春という奴を謳歌しているのだろう。

 そう思ったけれど、あまりにカナの顔が哀しそうだったので、私は居心地を悪くする。

 カナは十秒ほど考えるように向こうを見続けていたが、やがて決心したように話し始める。

「未だにね、分かんないことがあるんだ。付き合ってた人の、最後の言葉」



 うわごとのようにカナが話すのを聴いているうち、なんだか普通の話ではないらしいと思い始めた。

 両手を握り締める、カナ。

「あたしがその子に会ったのは中二の終わりくらい時なんだけどね」

 その言葉で始まった、取りとめのない述懐。

 当時、カナは同級生の男子と付き合ったらしい。内気で目立たない、同じクラスの男の子。同じように背が低かったとはカナの弁。少しずつクラスで話をしているうちに、なし崩しで遊ぶようになったらしい。その付き合いは中学三年生に上がっても続いたとか。

「結構楽しかったな。特にはしゃいだりいちゃいちゃしたりすることはなかったんだけど。なんというか、二人でいても気づまりじゃなくて、居心地がいいっていうか」

 ところが、その相手の男子が、急にカナから離れる素振りを見せたらしい。喧嘩することも相手を嫌がることもなかった二人の、急激な解離。カナはその理由を訊きたがったが、その男子はあいまいにごまかして答えてくれない。

 結局そのまま、受験戦争の波にのまれるように、半分自然消滅。

「あたしはまだそれに納得できなくてさ、卒業前にその子に問い詰めたんだ。あたしが嫌いになったの、って。そしたらその子は首を振って、あたしの目を見て言ったの」

 まるでストーリーを音読するように淡々としているカナの口調。

 一拍置いて、宙に浮かべるようにその言葉を紡ぐ。

「『君は、浦島太郎みたいだから』」

 私はぽかんとしてしまった。

「……うらしまたろう? そう言ったの?」 

「うん。確かに言ったの。それが最後の言葉」

「……浦島太郎って、あの、昔話の?」

「そうだと思うよ」

 私は首をかしげる。浦島太郎。すごくメジャーだ。詳しい内容まで思い出せないけれど、子供のころに読み聞かされたおかげで、大まかな内容は知っている。虐められていたカメを助けた浦島太郎は、そのお礼にと竜宮城へと連れて行かれ、しばらく楽しい日々を過ごす。やがて故郷が気になった彼はお土産の玉手箱を持って帰るが、その故郷はなぜか何十年もの時が過ぎていた。最後は、玉手箱を開けると白い煙が出てきて、浦島太郎はおじいさんに。……そんな話だったはず。

 混乱してきた。いくらなんでも別れ話で持ち出されるたとえ話とは思えない。カナが浦島太郎みたい? 性別からして違うだろうに。当時のカナは知らないけれど、それほどボーイッシュだったりしたのだろうか。

「それ以降は、何を訊いてもごまかされて、進学先の学校も違うから、本当にそれっきり」

 カナは話し終えて、にわかに立ち上がる。手元の缶を横のゴミ箱に捨て、こっちに向き直った。

 私を見降ろすその目は、今までほとんど見たことがない、愁いのようなものを帯びていた。

 雷がもう一度光る。数秒経って鳴り響く、お腹に響くような轟音。

「ライカは、わかる? その子が最後に言った、言葉の意味」

 雨を背にしたカナの表情は、不安と渇望に満ちていた。




     3



 カナと出会ってから十日ほど、いや、同じクラスにいたという事実から言えば四ヶ月ほどの付き合いになるのだろうか。それでもクラスの他の人よりはいろいろなことを知っている。沢山の姿を見てきた。

 でも、こんな顔は、はじめて見た。

 息が苦しくなる。これは、真剣に答えなければならない質問だと思った。冗談ではぐらかすのは絶対にいけない。それほどに、深刻な空気が流れていた。

 カナ自身も、その空気を感じ取ったのだろう。ふと目を逸らし、店のガラスのほうを向く。

「なにか食べようかな。ライカはどうする?」

 買ってきてくれるのだろうか。

「……ん。じゃあ、コーヒー買ってきてもらっていい? ブラックで」

「了解」

 自動ドアを通って店内に消えていくカナを見ながら、私は頭をかく。もう一度、目の前を強い風が吹いた。

 どうやら戻ってくるまでに、答えを準備しておかなければいけないらしい。考える必要がありそうだ。



 戻ってきたカナは小さなクリームパンと缶コーヒーを持っていた。感謝して受け取る。財布に小銭あったかな。

 パンの包装を開けるカナは、いったん下を向いて、それからこちらを見た。

 私も、黙っているわけにはいかない。

「……私の妄想かもしれないし、的外れな予想かもしれない。それでも、言っていい?」

 カナはこっちを見たまま、一度だけうなずく。

 一応思考を整理して、大体のイメージはできていた。おそらくこの質問が、解決へと導いてくれるだろう。

 この言葉が彼女をナイフのように切りつけることを理解しながら。その痛みの一パーセントでも受け止める覚悟をもって、質問をぶつけた。

「カナ。あんた、まだ話していないことがあるんじゃない?」

「……っ」

 ああ。やはり。すぐにでもカナに謝りたくなる。それほどの、衝撃を感じた表情。暴いてはいけないものを暴いていることを自覚する。

 さっきまで、いろいろと、考えた。

 カナが浦島太郎に例えられたということは、それなりの理由があるということだ。例えば、「外見が似ている」とか「名称が似ている」とか。でも、どちらも的外れだ。では、他はどうだろう。一番ありそうなのは、「浦島太郎の話が似ている」ということ。カナをストーリーの浦島太郎の位置に当てはめてみるとどうだろうか。私は当時のカナのことを知らないけれど、さっき聞いた蜜月の話からすると、ある「条件」さえ整えば、答えは予測できる。

 その「条件」こそ、カナの話していない事実。

 私は言葉を続ける。雨はただ、降り続いている。

「『浦島太郎に似ている』なんて言われたってことは、つまりカナがそうされるような行動をしたってことになるわ。それ以外の理由で女子を浦島太郎呼ばわりする理由なんて思いつかない。……カナ自身が、身にしみて覚えているんじゃないの? 自分が浦島太郎に似ているなんて言われうる理由を」

 下唇を噛むカナ。

 ひどいことを言っているのは自覚する。少なくとも、カナが答えたくない質問をしているということを。私は最低だ。予防線として、さっきカナに訊いた。推論でも悪くないかと。それはつまりこういう意味だ。私がその推論を言っても、カナは傷つかないのか。傷つくとしても、それを覚悟しているか。

 そして答えがイエスだったから、私はこんなことを勝手に口走って、カナを傷つけている。

 雷光に合わせ、カナは、目をつぶった。六秒経って、地震のような音が鳴る。瞼を閉じたまま、顔を動かさない。

 怒るのか、それとも、泣くのだろうか。

 私が謝ろうと思ったその時、目を開けた。先ほどまでとは違う、すべてを見通すような双眸。

 いつもの、カナ。

 手元のクリームパンを持ち上げる。カナの口がビニールをよけてかぶりつく。何度も、何度も。食べ終わるまで、私はただその様子を見つめていた。カナが話し出すのを、待った。

 やがてパンすべてを飲み込んで、カナは息をついた。

「……ライカには、敵わないね。別に隠すとかそういうつもりじゃなかったんだけど」

「……カナ、別に」

「ん。いい。話す。もう過去のことだし。結局あたしだって、ただの推測だから」

 寂しげに笑う。

「ライカが聴きたいのは、たぶんこのことかな。あたしとその子が、出会ったきっかけ」

 だんだんと、風がその強さを失っている。いつの間にか、雷の音もどこかに行った。

「詳しくは話してもわからないだろうから、概略だけ話すね。中二の時、その子は、おとなしく自己主張も少なかったからクラスの数人の男女にいじめられていた。話題になるほど大っぴらなものじゃなくて、こそこそと陰湿なやつ。あたしはそれを止めようとして、彼らの争いに入っていった。それで一応、その子へのいじめを終わらせることができた。代わりにあたしの所に嫌がらせが来たけれど、まあ、あたしはそんなの耐えられるしね」

 右手を握ったり広げたりしながら、カナは話し続ける。

「結局はそれが出会いになった。あたしとそのいじめられていた男の子は付き合い始めて、しばらくそれは続いた。さっき話した通り。そして、険悪な関係じゃないのに、日が経つにつれてその子は焦りの表情ばかりあたしに見せていた。……あの時は、その理由は分からなかったけれど」

 カナはこっちを向く。どこかすっきりしたような笑顔。

「これで、どう? あたしは全部話したよ。ライカの『推論』を聞きたいな」

 ぐっと喉が鳴る。私に言わせるのか。

 だが、言うしかない。それが嫌なら、私はカナに喋らせるべきではなかったのだ。自分だけ苦痛を逃れようだなんて、それは筋が通らない。

 なるべく深刻そうにならないよう努め、声を絞り出す。

 最悪の、推論を。

「カナが浦島太郎だったら。……その子は、カメだった。少なくともその子は、自分のことをそう思っていたのでしょう」

 その子が言った言葉。カナが浦島太郎に似ている。それは、そのままの例えだったのだろう。正義感が強く、いじめられている動物を助け、主人公の器がある。本当に、カナは浦島太郎に似ている。

 その子は、自分とカナを、浦島太郎のストーリーに重ね合わせたのだ。自分が亀、カナを浦島太郎として。

 いじめられていた亀を助ける浦島太郎。その後、竜宮城のような居心地のいい場所で楽しく過ごす二人。

 本当に、そのままだった。

 そしてその子は、「その後」まで考えを巡らせたのだろう。いくらその亀と竜宮城が浦島太郎を歓待しても、いつか浦島太郎は故郷を思い浮かべるようになる。一方的に帰ると告げ、亀の元から去っていく。

おそらくそれを、その子は感じたのだ。

 カナは、いつまでも自分の元にいない。自分のような脇役と違い、主人公を張れる彼女は、「外の世界」へと帰っていく。竜宮城が、どんなに快適でも。

 別れは、必ずやってくる。

 私の余計な推論だけれど、おそらく。時期も関係していたのではないだろうか。中学三年生。受験シーズン。そして先ほどカナが言っていたのが本当なら、その子とは別の高校に進学したのだ。

 二人の別れは、予期されていた。

 その子は、それに耐えられなかった。終わりしか見えない、その付き合いに。

 今のカナは、前を向いたまま動かない。いつもと変わらぬ、遠くを見る目。おそらく中学校でも、その眼をしていたのだろう。周りからみると、どこかを見透かしているような、主人公の眼。

 私が一通りそれらの推論を話し終えても、カナは動かなかった。眉毛一つ、動かさない。

 その様子を見て、ああ、と思う。

 ……カナは、自分でたどり着いていたのだ。その悲しい推論に。それくらいの推理は、カナにとって造作もないのだろう。

 だからわざわざ私に対し出会いのエピソードを隠し、あえて「推理」をさせた。

 自分の考えと合っているか、確かめたかったのだ。

 彼が、自分の元から去った理由を。

 やがて、風雨が収まり始める。いつもと同じくらいの、適度な雨へ。カナは動かない。動かない。

 カナはさっき話した。私もいま話した。推論は推論のまま、変わることはない。

 本人に聞かない限り、それは真実にならないのだ。自らをカメと称した、お世辞にも優しいとは言えない、いうなれば最低な、その男子に。



 私は、何か言わなければいけない、と思った。

 少なくとも、言わなくていいことをカナに言わせた。暴かなくていい推論を、勝手に口出しした。

 でも、言葉がなにも思いつかない。私には、そんな経験が無かったから。男子と付き合ったことも、そんな言葉をかけられたことも、バットエンドも、なかったから。

 ぐだぐだと慰めの台詞を考えている間に、カナが、自身の頭に手を動かした。

 濡れそぼったベリーショート。それを押さえる小さなヘアピンを外し、左の手のひらに載せる。

 カナの声は、沈んでいた。

「……これね、実はあの子がくれたの。別れる少し前に、不安げな顔をして、あたしにプレゼントしてくれた」

「……カナ」

「多分、昔のあの子の台詞が関係してると思うんだけど。あの子、あたしに言ったの。『髪、少し上げたほうが、大人っぽいよ』って」

「カナ」

 もういい。もういいから。呼びかけても、カナの独白は止まらない。

「最後のプレゼント。あの子、意味深すぎるよ。……これじゃ、玉手箱じゃん」

 ……ああ。

 がつんと、殴られるような衝撃。私まで、泣きそうになる。必死にこらえて、目をそらす。

 玉手箱。竜宮城を去る浦島太郎に渡される、思い出の品。

 その効果は、時間を進めること。

 地元に帰った浦島太郎。時間の変化に驚いた後、一人で玉手箱を開ける。出てきたのは白い煙。それは浦島太郎を老人へと変える。

 ひどい。

 そのヘアピンは、中学生の彼女を、大人へと変えたのだ。

 別れの象徴。竜宮城のお土産。

 そのまんまだ。玉手箱。本当に、昔話の通り。

 思わず、私は首を振っていた。

「カナ……っ。ち、違うよ、それは……それは……」

 声が震えて、何を言いたいかもわからないまま、カナを振り仰ぐ。

 目を合わせることは、かなわなかった。私が声をかけると同時に、カナは向こうを振り返っていた。

 こちらとは、目を合わせないまま。ぐしゃりとパンの包装を丸め、ゴミ箱に叩き込み、荷物を背負い、傘を開く。

「カナ!」

「……風も止んできたし、今日は帰る。ありがとう、傘貸してくれて。今度会った時、返すから」

 背を向けて、言う。沈んだ声で。

 私がカナの肩をつかもうとしたその瞬間、もう一言だけカナが声を出した。

「……ライカは、いい子だね。最後まで、人の気持ちを考えられる」

 頬を張られたかと思った。それほどの力が、言葉にこめられている気がした。

 ぐっと重心をかけ、カナが走り出す。低い背を覆う紫色の傘が、どんどん遠ざかっていく。

 私は、追えなかった。カナの最後の言葉に、そんな力も出なかった。

 そんなつもりは、なかったのに。

 でも、そうなのだ。私がやったことは、最低のことなのだ。

 人の気持ちなんて、考えていなかった。

 雨は、最後まで止まない。風も雷もどこかに行ったけれど。水滴だけは、すべてに降り積もる。

 体温が冷えるのを感じながら、私は目をつむった。



    第五話 おわり





INDEX

第一話 静かな声音が、その場に響く
第二話 小さな期待が、その子を動かす
第三話 健気な言葉が、手紙に現る
第四話 数奇な対面が、全てを始める
第五話 苛烈な降雨が、虚像を暴く
第六話 二つの事件が、過去から交わる
第七話 一つの推理が、未来に導く


INFORMATION
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