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ラムネクラブ RamuneClub

  第四話 数奇な対面が、全てを始める

  義里カズ



     ◇1


 ぼんやりと、私がラムネクラブに入った理由を思い出す。第一に浮かんだのは、カナに出会ったからという単純な理由だった。

 全ての物事にはそれぞれのきっかけがある。それはおかしいことではないし、スタートの時にその「きっかけ」に気づいていないこともある。あるいは「きっかけ」なんて、後付けでもいい。

 一応、私がラムネクラブに入った理由は沢山ある。即物的なもの。精神的なもの。人がくだらなそうに感じるであろうものから、これからを左右する重要なものまで。本当に一杯、語りつくせないほど。

 なかには一生他の人に言えないようなものも、ある。

 「重要なのは事実だけで理由なんてどうでもいい」というのは正しいのかもしれないけれど、私は性格上、いちいち分析しなければ立ち止まってしまうのだ。

 私は幾多もの理由を頭の中で並べながら、こんなことを思う。

 あの時。夏休みの始まりのあの日、私とカナが出会わなかったら、私はこの夏休みをどう過ごしていたのだろうか、と。



 夏休みが始まってすぐの土曜日の夜のことだった。夕飯を食べているときに、お母さんが私にこんなことを言った。

「来夏《ライカ》、明日暇でしょう」

 テレビの騒がしい音が流れる夜六時のリビング。シチューを掬って口に持っていくところで私は手を止め、向かいに座るお母さんを見る。

「ひま。……だけど、決め付けなくても良いんじゃない」

「いつも暇そうにしてるからよ、日ごろの生活を恨みなさい」

 ひどい言い分だ。

「どうせ夏休みだって講習以外に予定入ってないくせに」

「そんなこと……」

 お母さんの的確な指摘に、私は言い返せない。言いよどんだ嘘ごとシチューを飲み込み、またスプーンを皿に沈める。休みに入ったのが昨日のことなのに、夏季休業の無計画さを指摘されるとは思わなかった。

 昨日、金曜日の午前中の全学年集会をもって、私たちは一ヶ月弱の夏休みに突入した。ここ数年我が学校では進路方面に力を入れているらしく、三年生の生徒のみならず二年生の希望者も夏期講習を受けられることになっている。だけど「希望者」というのは建前で、大学受験に関係のある生徒は三年だろうが二年だろうがほぼ強制的に講習を受ける義務を負う。教師の言葉を借りれば「あなたのための勉強」だ。家族も、教師も、近所の人も、みんな同じようなタームを使う。

 明後日からはずっとその講習のために学校に通わなければいけない。本当は今日も講習がある予定だったのだけれど、夏休み初日ということで免除されていた。でもこれから休みは基本的に日曜日と水曜日だけ。週休二日ということを考えれば、学校と大差なかった。

「なんなら、あなたの今日の行動を思い返してみなさい」

 お母さんの指示に従い、私は今日の記憶を引っ張り出してみた。

 せっかくの休みの日。受験準備生にとって数少ない休日。朝は九時を過ぎた頃ゆっくり起き、朝食か昼食か分からないコッペパンを食べ、ソファに寝転がりながらずっとテレビを見ていた。午後は、家から少し遠いところにあるコンビニに行き、雑誌やシャープペンの芯、あとは体重増加にならないよう祈りながらお菓子とジュースを何点か購入。帰ってから部屋でお菓子を食べ、夕飯の時間まで扇風機と戯れていた。そして今、夕食に至る。

 ……言い返せない。

 勉強どころか、私が開いた本は女性向け雑誌だけ。受験生の称号を剥奪されそうな怠慢ぶり。むしろ剥奪して欲しいという心の中の願いはさておき。

 正直、休みは暇だった。

 夏期講習以外、何の予定も入っていない。だから私は、母の命令に従えなかった。

「明日お義母さんが出かけるらしいから、留守番しなさい」



 私は次の日、朝早くに家を出た。向かうは、お祖母ちゃんの家。日曜日だというのに、今日も朝から日差しが強い。

 私の父方のお祖母ちゃんは、私の家から数キロ離れたところで暮らしている。

 息子である私のお父さんを婿に出してからは、古く小さい一軒家にずっと一人。お祖父ちゃんは私の生まれるかなり前に亡くなっていて、その時にはお父さんたちと一緒に暮らす計画が立っていたらしいけれど、お祖母ちゃんは拒んだらしい。詳しい理由は知らない。

 結局私の家と近いから、お父さんやお母さんはたまにお祖母ちゃんの家に行って掃除なんかをする。特にお母さんは姑であるお祖母ちゃんと仲が良くて、週に一回はお喋りに講じている。

 お祖母ちゃんの家に着く。コンクリートの塀に囲まれた、木造の一階建て。庭はおばあちゃんの趣味で和風の植木や鉢が並んでいる。

 お祖母ちゃんはちょうど家を出るところだった。

「ああ来夏、ちょうどに来たね」

「うん、おはよう」

「別に留守番っていっても、そんなに気張る必要ないよ」

 はきはきした声と、皺の入った微笑む顔。お祖母ちゃんはこの歳になっても、しっかりと自分の足で歩く。紫色の巾着袋を手首に引っ掛け、いつもほんの少し腰を曲げている。

 お祖母ちゃんは今日、敬老会の集まりで半日ほど家を空けるらしい。

 戸締りをしっかりすれば留守番なんていらないのだけれど、なにやら昼前に食材宅配サービスなるものが来るらしいので、受け取る誰かが家に居る必要があるとのことだった。つまりその任を担うのは私。

「家にあるものはなんでも使っていいからね」

 一応勉強道具やら暇つぶしやら持ってきたけれど。

 ……あ、そういえば出かける前にお母さんに言われたことがあったのだった。

「えっと、お部屋とか掃除してもいい?」

「なんだい、美智夏にでも言われたのかい。気持ちはうれしいけどね、無理にやれとはいわんよ」

 早速ばれた。お母さんとのお喋りによって、お祖母ちゃんにも私のだらけ癖は伝わっているらしい。

「宅配屋さんは十一時頃来るから。ただ箱を貰うだけでいいからね」

「分かった」

「じゃあいってくるよ」

 そういってお祖母ちゃんは歩いていった。実はお母さんが敬老会の会場までお祖母ちゃんを送る案を出したのだけれど、それはお祖母ちゃん自身が却下したらしい。そこまで老いぼれていないと笑ったとか。

 私はお祖母ちゃんを見送ったあと、早速中に入る。

 掃除しなくても十分綺麗な家。でもさすがに、サボるわけにはいかない。

 時計を見ると九時だった。予定を確認。十一時に宅配受け取り。午後二時頃洗濯物取り込み。その後にお祖母ちゃんが戻ってきて留守番終了。計画はこんなものかな。ああそうだ、暑くなってきたら扉を開けて、換気をすること。お母さんの言付けも忘れない。

 でも、日曜日は私にとっても重要な休み。

 せっかくの自由時間。何をしようかと思いながら、まずは茶の間に座って扇風機のスイッチを入れる。涼しい風に満足し、昨日買った雑誌を取り出した。

 だらけ癖、という自分の数分前の声は心の中で打ち消しながら。



     ◆2


 あたし、藤島佳奈《カナ》がラムネクラブを作った理由。それはどこまでも、酷いものだった。

 夏休みの始まりの出会い。いくつもの偶然によって、その場に導かれたあたし。それにしがみついて離さない為に、ラムネクラブを作ったのだ。

 その行動は、「自分のため」に進もうと誓ったあたしにとって、正しいものだった。

 でも、後悔は残っている。

 このことをもしも「彼女」に問い詰められたなら、あたしは謝罪せずにはいられないだろう。

 なぜ「彼女」を巻き込んだのかについては、あたし自身もよく分かっていない。ただの直感。この選択が悪い方向に行かないことを願いつつ、来たるべき「彼女」への謝罪の言葉を頭の中で練習する。

 ライカ、ごめんなさい。



 あたしは母親と向かい合っていた。

 夏休みが始まって最初の日曜日。ダイニング。午前九時過ぎ。片付けられた遅い朝食。テーブルの上に模試の判定結果。

 そして厳しい顔の、母。

「そろそろ喋ってもいいんじゃない」

「……嫌」

 顔を上げて拒否したので、にらみ合うことになる。

 白いスーツを着た母は午後からの出勤だというのにしっかりと化粧を決め、いつでも出られるような格好をしている。信条は「きちんとするときはきちんと、リラックスするときはリラックス」。メリハリをつけないと気が済まないその性格は、確かにあたしにも少しばかりは受け継がれていると思う。

 そんな母は、テーブルの向こうで真剣な表情。

「受験は遊びじゃないのよ」

「あたしの選択だって、遊びじゃない」

「じゃあなんなのよ、この選び方は」

 模試の点数表の横、大学合格ライン判定欄。

 模試で取った点数とその推移によって、志望大学にどれだけの確率で合格できるかが印字されている。大学名、偏差値、そして合格予想。大学の選択は四つ。模試の開始前に、第一志望から第四志望まで記入する。自分の現在の位置を知りたいがために、大体の学生はすべての欄を埋める。

 あたしは、第一志望しか記入しなかった。

 地元の国立大学法学部。たった一つ、それだけ。

 そして返ってきた判定はC。

「どうしてこれしか書いてないのよ。確かにお父さんはこの大学を選べって言ったんでしょうけど、佳奈が行きたい大学があればいくらでも優先して良いって言ったじゃない」

「何度も聞いたよそれは」

「ええ何度も言ったわよ。なに、反抗期か何か?」

「ちがう」

 母の詰問口調に少しばかり嫌気が差し、つい本音が出てしまった。

「……大学って、なに?」

「なんですって?」

「勉強って、なに?」

 質問を繰り返すあたしの意図を少しでも分かってくれたのか、母は視線を外してため息をついた。軽く唸った後、先ほどの威圧感を仕舞い、静かにあたしに訊く。

「どこに進むか自分で分かってないんでしょう、違う?」

 あたしは無言で肯定の意を示した。母は模試の結果を脇にどかす。

「……なんだか昔の私を見ている気がするわ。別に親馬鹿じゃなく言うけど、佳奈は勉強ができない子じゃない。それは見ていれば分かる。でも、もう少し考えを柔らかくしなさい」

「やわらかくすれば、未来は見えるの?」

 母は眉を吊り上げた。

「未来は、見えないわ」

 その言葉に、あたしは口を閉ざす。

 「そんなことは分かっているのだ」なんて言えない。ましてや「ならどうすればいいのか」なんて人に聞いてはいけない。無言を貫く。

 一通り話して気が済んだのか、母は立ち上がる。午後からは仕事らしい。

「佳奈は明日から課外?」

「うん」

「あまり根詰めないようにね」

 母の助言を、あたしは心の中で嘲笑する。

 そして、暗い自分が、呟く。

 それができないから、あたしはこの夏休み、こうしているのだ。



 午後も家にいるのは気が滅入りそうだったので、近くを散歩することにした。

 ワンパターンなノースリーブとカーディガンを着て家を出る。服装なんて気にしなくてもいい。別に知り合いに会うことはないだろう。

 さて、どこに行こうか。急に曇り始めた空模様の下で考える。

 あたしの家は、住宅街の外れにある。地図で言うと町の南西部。この町は南北を縦断する大通りが住宅街を二分し、南のほうには鉄道が東西に走っている。今私がいるところから町の中央に向かってしばらく歩いて北を向くと商店街があり、そこを通り抜ければいつも通っている学校。南のほうには駅があって開けてはいるが、いつも人通りが多いので散歩には向かない。ずっと東のほうには、同じように住宅街が広がっているけれど、あたしはあまり行ったことがない。これを機に、足を伸ばしてみようかと思う。

 適度な天気と気持ちのいい風にも、あたしの気分は晴れない。当てのないまま真っ直ぐな道を選択する自分が滑稽で仕方がなかった。



 気がついたら、声をかけていた。

「荷物、持ちましょうか?」

 屈みがちに歩いていた六十歳台のおばあさんが、ゆっくりと振り返る。あたしのことを上から下まで見て、驚いたように訊いた。

「……ん、荷物? いいのかい?」

 明らかな遠慮。もう一押し。

「はい、ぜひ任せてください」

「じゃあ、こっちをお願いするよ。すぐそこだから」

 白い紙袋を預かる。おばあさんの手には、すみれ色の巾着と、細長いビニール袋。

「なかなか感心なお姉さんだね」

 褒められたけれど、苦笑いでごまかす。しばらくおばあさんと世間話をしながら歩く。

 先ほど住宅街に差し掛かったころ、目の前にこの人が現れたのだった。腰を少し曲げ、それでもしゃんとして歩く姿。それでも三つの袋を両手に持つ様子は大変そうで、思わず手伝いを申し出たのだ。最近ではこういう行為も断られることが多いから、おばあさんの反応には安心した。

 前にバスで、同じようにお年を召した方に席を譲ったときは激昂された。恥をかかせるな、と。どうやら「そういう扱い」が癇に障ったらしい。

 苦い思い出だった。そのときは私もネガティブな気持ちを引きずったけれど、いまはどうも思わない。

 なぜなら、あたしのこういう行為は、「自分のため」だから。

 ……詳しいことは、誰にも言う気になれない。

 そんな考えを顔に出さないよう頑張りながら少しおしゃべり。やがて、おばあさんが足を止める。

「ここさ」

 止まった位置は、地図で言うと東側住宅街の真ん中ほど。新築の家が多い街並みには珍しく、年季の入った平屋建ての家だった。塀も石で、周りの家は金属製なのからすれば異質を放つ。木造の家屋と、多くの植物で埋まる庭を見ながら、雰囲気のいいお宅だな、と思う。風情のある、といったほうが近いかもしれないけれど、声には出さないでおいた。

 とにかくお手伝いは、これで終わり。

「じゃあ、あたしはこれで」

 さっと居なくなろうとしたが、おばあさんに袖を引っ張られた。

「せっかくだから寄っていきな。お茶でも出すから」

「いや、そういうわけには」

「ああ、若い子は紅茶の方がいいかい。たしか台所にしまってあったはずさ。ほらほら」

 よく分からない理論で押し切られる。ここで無理に断るのもどうかと思うし、なによりあたしは暇だった。午後二時。散歩から帰るにはまだ早い。

 仕方がないので門をくぐり、おばあさんの後に続く。

 扉を普通に開けようとしているのを見て、思わずあたしは尋ねた。

「あの、鍵は」

「ああ、いまは孫が留守番してるのさ。ここからもう少し南に住んでるんだけどね」

「はあ」

 ということはお孫さんはいつもはこの家にいるわけではないということか。もしかしたら夫婦で生活しているのかもしれない、と手入れされた植木を見ながら思う。

 おばあさんは扉を横に開けながら声を上げた。

「寝てなければ良いけど。……帰ったよ、来夏」

 ん、「らいか」?

 どこかで聞いたことのある名前だと頭の辞書を検索し始めたそのとき。

 玄関を入ってすぐ右側から、一人の女の子が出てきた。

 黒く真っ直ぐなミドルヘアに、精悍な表情。あまり目立つ感じではない中、赤色の唇だけがくっきりと浮かび上がっている。落ち着いた色のシャツと七分丈の黒ジーンズが、すらりとしたモデル体系によく合っている。手にはなぜか短い箒。

「お祖母ちゃん、おかえりなさ……」

 向こうもあたしを見ると、ピタリと止まる。妖艶な口元が、えっ、という動きで止まる。

 あたしの視野に、クラス名簿が飛んできた。同じクラスなのに、まだほとんど話したことのない、同級生の女の子。

 彼女の名前を探し出すのに、一秒かかった。

「……来夏さん?」

「…………藤島、さん」

 なんだ、知り合いかい。おばあさんがそういうのが聞こえた。



     ◇3


 気まずい。

 私のそのときの心境はそれに尽きた。

 時刻は二時過ぎ。お祖母ちゃんの家。家の主であるお祖母ちゃんが帰ってきた以上、留守番の仕事は終わりだったはずなのだけれど、私はまだ茶の間に座らせられている。ほとんど話したことのない、クラスメイトと一緒に。

 お祖母ちゃんはコーヒーを入れた後、お菓子を探しに台所へ行った。必然、ふたりきりになる。

 私は静かに下を向いてカップを吹く。熱い。まったく、お祖母ちゃんこれアイスコーヒーにすればよかったのに。八つ当たりしてしまう自分に赤面するくらいには動揺していた。

 ちらりと、向かいに座る彼女の姿を見る。同じくコーヒーが熱いのか、スプーンでからからとかき回しているので、こちらの視線には気づいていない。

 藤島佳奈《かな》。同級生。四月から私と同じクラスだけれど、ほぼ初対面。短めの髪に何本かのヘアピン、低い背丈と整った小顔が印象的。教室で見た感じでは、見た目どおりやや活発そうなイメージだった。そして私とは、真逆な感じがした。

 思い浮かべる。今年度が始まって四ヵ月。私は受験の準備やらクラスの雰囲気に埋もれていた。クラスで話す相手なんて去年度からの友人くらい。私は落ち着いた人といると居心地がいいので、去年は同じクラスだった真鶴愛《まずるあい》とつるんでいた。でも最近は会っていないし、青春を謳歌しているというほど他の友人と交流があるわけでもない。

 一方、目の前でコーヒーを飲む藤島佳奈さん。四月から持ち前の明るさと存在感を遺憾なく発揮。私たちのクラスでも体育委員とホームルーム委員を兼任し、本来のリーダー女子をサポートしながら自分も活躍していた。なんとなく太陽の下にいる向日葵のイメージ。

 はっきり思う。私と藤島さんは、陰と陽だ。性格も存在も逆の存在。

 クラスでも、属するグループの違いから、ほとんど話したことがない。つるんだりなんて尚更だ。こんなところで一緒にコーヒーを飲むなんて。

 沈黙を破るのが、とてもつらかった。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、藤島さんのほうから口を開いた。

「まさか来夏さんのお祖母さんだったとは思わなかったな。そう言われると、なんだか似ている気がするけれど」

「……え、そう?」

 藤島さんは頷く。

「なんとなーく、頭の切れそうなところとか」

「そんな、だって私頭よくないし」

「多分あたしのほうが頭悪いと思うよ。進学クラスなのに、もう肩身が狭くって」

「分かるかもそれ」

 藤島さんの率直な意見に思わず二人で笑う。

 思ったよりも気まずい会話にならなくて良かった。やはり藤島さんは私と違って会話の進め方がうまい気がする。そういう能力は私にはないので素直に感心する。

 そのまま成績の話を続けていると、お祖母ちゃんが茶の間に戻ってきた。右手には一口チョコレートの詰め合わせ。

「悪いね、若い人用のお菓子は置いてないんだ。これでも食べてゆっくりしていきな」

「そんな、わざわざすみません」

 恐縮する藤島さんの目の前にチョコレートを幾つも押し付けるお祖母ちゃん。それ、この暑さで溶けていなければいいのだけれど。

「ほんとに殊勝なもんだね、来夏と同い年で、これほど礼儀正しい子がいるとは思わなかったよ」

 お祖母ちゃん、その発言は私が傷つく。でもまあ、通りすがりの人の荷物運びを手伝うなんて私にはできないだろう。なので便乗する。

「うんうん、人のために動けるってすごい」

 褒めたつもりだったけれど、藤島さんは顔を下げた。

「……違うんです、自分のためなんです」

 自分のため? よく分からない。藤島さんの言葉の真意を聞こうとしたけれど、おばあちゃんが遮る。

「いやいや、見たところ賢そうだし、なかなかできた子だよ。来夏、仲良くしといて勉強でも教えてもらいな」

 藤島さんはぶんぶん首を振る。

「いえいえ、あたし勉強はできないんです」

「おや、そうは見えないけどねえ。……なんなら、来夏と一緒に頭を使ってみないかい」

「へ?」

 お祖母ちゃんはにっこりとして言う。

「まあ、年寄りの与太話として聞いておくれ」



     ◆4


 妙なことに巻き込まれた気がしたけれど、その時のあたしに逃れる術はなかった。少し家にあがってお茶を飲んで逃げようと思っていたのに。結局流される自分の性格に嫌気が差しながらも、ここまで来たなら何かの縁だと思って付き合うことにする。

 道端で出会ったおばあさんであり同級生のお祖母さんである、まだまだ元気そうな女性は、話し始めた。

「まあ、年寄りの与太話として聞いておくれ」

 そうして立ち上がり、茶の間の障子を開ける。

 そこは縁側だった。昔ながらの和風家屋そのままの、木でできた廊下。雨戸は開いており、庭が広がっている。ざっと眺めただけでも、十以上の植木、棚に乗った多くの鉢、それにプランターがある。絶妙に配置され、一つのまとまった植物群といった趣。分かりやすく言うなら和風ガーデニングというやつか。しかも、息を呑む程の。

 おばあさんがその一角を指差す。

「あそこにね、無花果の木があるんだよ」

 そこにあったのは、高さ三メートルほどの、緑色の細い木。人の手に似た大きな葉っぱが繁り、ピンポン球強の大きさの実もいくつか生っている。へえ、イチジクってああいう風になるんだ、と思った。実物は初めて見たかもしれない。

「無花果ってのはもう少ししたら食べ頃なんだけれどね、最近その実を盗むやつがいるんだ。よく見てごらん。特に向こうのほうばっかり実がもぎ取られてる」

 横で座っていた来夏さんも気になったのか、立ち上がって縁側まで移動する。せっかくなのでついていった。

 廊下の縁に三人並んで木を凝視する。

「……本当だ」

 イチジクの木は家の塀を越え、隣の家の仕切りにまでかかっていて、上のほうにいくつか実が生っている。よく見ると、向こう側、つまり隣の家にかかるように傾いたその枝には、いくつかもぎ取ったような痕があった。特にそのほかに枝が折れたとか葉が切れたとかそういうことはない。

「隣は昔加藤さんってのが住んでたんだけれど、今は別のところに引っ越しててね。普段隣の家は空き家なのさ。たまに掃除に来るくらいだね。もちろん加藤さんは無花果を取るような人じゃないし、それどころかこの無花果が向こうまで伸びるのすら笑って許してくれてね。少なくても犯人は加藤さんじゃないよ」

 ふうん、空き家かあ。背伸びして、隣の家をよく見てみる。

 こっちの塀は石製だけれど、向こうは鉄製の格子が敷地の周りをぐるっと囲っている。格子の高さは二メートルちょっと。しかも黒いそれの上には有刺鉄線がある。周りだけ見たら牢屋のようだ。厳重な警備だと思うけれど、家に誰もいないなら当然かもしれない。敷地は広く、中央に木造の家屋。古さはこちらの家と同じくらいだろう。庭は基本普通の砂利で、ところどころ伸びた草が目立つ。入り口はここから見た限り正面の門だけ。当然硬そうな金属製で、門の高さは塀よりも高い。

 塀のふちに生えるイチジクの木。

 盗まれた実。

 両側の家の人は犯人ではない。

「さあ、どうだい。いったい誰が無花果を盗んだと思うかい?」

 なぞなぞみたいなおばあさんの物言いに、僅かにあたしたちを試すような響きが混ざっていた。

 ……よし、せっかくだから考えてみよう。自分のため、自分のため。

 横をちらりと見ると、来夏さんは髪を手櫛で整えながら、思考にふけっていた。



 まずは当然の確認からだ。おばあさんに訊く。

 普通、果物を盗むのは人間とは限らない。

「この辺にはなにか動物はいないんですか?」

「ふむ、動物ねえ。ここらは森にも近いからごくたまに道路で狸なんか見るけどね。それでも一年に一度くらいさ。その他には……、ああ、カラスなんかは多いな」

 え。あたしは首をかしげた。じゃあ、答えはカラスなんじゃないだろうか。拍子抜けしてしまった。カラスは果物荒らしとしてよく聞くし、いかにも犯人としてありそうだ。カラスは塀なんて気にしないだろうし。

 うーん、他の可能性を考えてみても、いまいち思いつかない。流石にこっちの家に侵入した犯罪者、ということはないだろう。イチジク欲しさに家屋侵入はリスクが高い。第一それだったら手前の実ばかり盗まれているだろう。

「よく分からないんですけど、じゃあ犯人はカラスなんじゃ……」 

 そう言おうとしたその時だ。

 横の来夏さんが、手をあたしのほうに出し発言をさえぎってきた。

 な、なに?

 来夏さんは眉根を寄せ、なにやら深刻そうに呟く。

「違うわ。犯人は動物じゃない」



     ◇5


 思わず考え込んでしまった。が、今の私の思考はもはや止まらないスピードまで進んでいた。

 お祖母ちゃんは私のパズル好きを知っている。もしかしてそういう意味でこんな質問をしてきたのかもしれない。

 でも、お祖母ちゃんも、本当の答えは知らないはずだ。

 ……ちょっとこれは、まずいんじゃないだろうか。

 横の藤島さんは、発言を止められて不満そうに訊いてくる。

「え、どうしたの? 来夏さん」

 思わず「動物じゃない」と断定してしまったけれど、まだ考えがまとまっていなかった。せっかくだし、言葉にしながらまとめよう。

「ああやって綺麗に果実だけをもぎ取るのは、カラスにはできないわ。普通突っついたりして食べるものでしょう。それにいくら綺麗に食べれたからって、周りの葉っぱに傷をつけずに去るなんて動物には無理そう。それに、向こう側の果実だけを食べた説明がつかない」

「うーん……そう」

 まだ納得していないような藤島さん。

 その向こうではお祖母ちゃんが頷いている。多分ここまでは気づいていたのだろう。だから犯人を訊いたのだ。



 さて、考える。

 では犯人は誰か。情報をまとめる。

 こっちの家にはお祖母ちゃんがいつもいる。

 向こうの家には高い塀と有刺鉄線。家の人はいない。

 食べられているのは塀の向こう側に伸びた枝の果実。

 動物には無理な果実のもぎ方。

 誰も犯人は見ていない。

 ……なるほど。ひとつだけ、可能性を思いついた。荒唐無稽だけれど、ありえないとは言い切れない。

 とりあえず、この質問が、解決の道へとつながるだろう。



 私はお祖母ちゃんに質問する。

「隣の家の人、加藤さんだっけ。その人が最後にこの家に来たのは覚えてる?」

 お祖母ちゃんは思い出すように天井を見上げる。

「加藤さん? ……四日前くらいかね。いつも二週間に一度くらいは換気や掃除のために来るのさ。ちょうど塀越しに話をしたから覚えてるよ」

「そのときの様子、詳しく教えて」

「詳しくっつっても、それほどのことはないよ。いつもどおり軽トラを道路の端に止めて、門の鍵を開けてそん時うちに挨拶に来たね。家の戸を一通り開けた後、ずっと庭の整備をしてたのさ。塀越しに三十分くらい話をしながら、こっちは庭木の手入れ、加藤さんは草取りをしててね。草取りが終わったらさっと帰っていった。それだけさ」

 なるほど、お喋りか。なら、「それ」気づかないということも、ないわけではない。

「イチジクがなくなったのはいつ?」

「なんだい加藤さんが犯人だって言うのかい。違うよ。なにせイチジクが盗られたのは一昨日、二日前さ。加藤さんが来たときにはまだ沢山生っていたよ」

 ……そうだろう。加藤さんが犯人ではないなら、盗まれたのは四日前から今日までの間でなければいけない。

 机上の空論だが、喋るしかない。お祖母ちゃんと藤島さんは、信じてくれるだろうか。

 藤島さんが尋ねてきた。

「来夏さんは、なにか考えがあるの?」

 その一言が、躊躇する私の背中を押した。

「犯人は、人間よ。お祖母ちゃんの知り合いでも加藤さんのでもない、第三者。さっき言ったとおり動物が無理なんだから、残るは人間だけ」

 喉が渇くが続ける。

「単純すぎるわ。犯人は隣の門から空き家の敷地に侵入し、イチジクを盗った。手が伸びないから、流石にこちら側の果実までは盗れなかったんでしょう」

「ちょ、ちょっと待って!」

 藤島さんが遮る。

「泥棒ってこと? む、無理でしょ。門には鍵だってかかっているだろうし、塀には有刺鉄線だってあるし。第一、どうして泥棒がイチジクなんて盗むの?」

「そう、普通は無理。確かにイチジクが盗られた二日前に空き家への侵入は不可能でしょう。でも、今見ただけで重要な条件が二つある。盗まれたのは空き家方向から。そして加藤さんは犯人じゃない」

「それなら?」

 一拍おいて、答える。

「誰かは知らないけれど、犯人は四日前、家の主である加藤さんが草刈りをしながらお祖母ちゃんと話している際、門から密かに侵入した。おそらく空き家の窃盗目的。どこかに隠れたか何かしたのでしょう。ところが加藤さんは気づかず、門の鍵を閉めて去った」

「……お、おい来夏、それじゃあ」

「……えっ」

 驚く二人の声。気持ちは分かる。でも、ありえなくはない。

 想像する。四日前のこと。家の人のスキをついて侵入したコソ泥。気づかれずに入ったのはいいものの、出るタイミングを失い閉じ込められる。開かない門戸。塀には有刺鉄線。有り体に言えば密室だ。出ることができない。犯人は空き家で途方にくれる。空き家の中にある食物なんてあったとしても限られているだろう。やがて、食物が無くなって困った犯人は、庭に食べ物を探しに行く。そこで見つけた、こちらの庭から伸びるイチジクの果実。

 誰だってもぎ取って、食べるだろう。

 それが二日前だとしたら。そして四日前から、門が開いていないとすれば。答えはひとつ。

「イチジクを盗った犯人、正真正銘の泥棒は、まだ空き家に潜伏しているわ」



     ◆6


 次の日。この夏休み初めての午前講習が終わり、お昼を済ませたあと、かばんを持って、ゆっくりあたしは外に出た。校門には数人の生徒が固まっていたものの、見向きもしない。学校社会は無関心で動いている。

 あたしにはある目的があった。

 自分のために動くことにする。それがあたしの行動原理だから。

 かばんから一枚の紙を取り出し、目的の場所に移動することにする。相変わらず暑い。太陽の仕業でホットプレートのように熱せられた道路を渡り、歩道を進む。

 ぼうっとして、思索にふけった。

 「自分のため」

 このタームを使い始めて、いったいどれくらい経つだろう。当然思い出そうとすれば思い出せる。でも過去を振り返るのはそれこそ「自分のため」じゃない。あたしはそう思う。だからこの文言を使う理由は、だれかに訊かれたら話そうと決めている。

 それ以外のときは、行動で示すしかない。頭を使うのとは違う。

 特にこの「仕事」を始める時は、そう思った。

 はっきり言って、この仕事はあたしの本分じゃないという気がしていたが、何を言っても仕方がない。

 やるしかない。そう、自分のために。

 ……でも、少しだけ、気持ちが揺らいだ。多分、昨日の出来事のせいだろう。

 気の遠くなりそうな熱気の中、あたしは昨日の午後を思い出す。



 昨日。散歩ついでに来夏さんとそのお祖母さんに出会い、謎解きをしたあの日。

 来夏さんの驚くべき予想を確かめるのが、思ったよりも大変だった。

 「隣の空き家に泥棒が入って、今も潜伏している」なんてあり得ないとは思ったけれど、おばあさんは一応の確認のため、空き家の持ち主である加藤さんに電話をした。

 加藤さんは四日前から空き家は確認していないらしい。四日前に帰るときは外から窓を閉め、門から外に出て鍵をかけた。空き家自体の鍵には無頓着らしい。つまり家屋の中は最初に入っただけで確認していないとのことだった。

 庭の草取りと談笑をしている間、泥棒が忍び込むことは無理ではなさそうだ。

 深刻な気配に黙り込む三人。だが言わないわけにもいかないので、あたしが進言する。

「警察に電話しましょう」

 その泥棒が家に閉じ込められ出られなくなろうと、不法侵入は不法侵入だ。なにせ家の人の許可を取らず忍び込んでいるのだから。盗みが目的だったら窃盗罪にもなるだろう。

 そしてなんとなく、来夏さんとおばあさんが警察に言いたくない理由も察しがつく。隣の家と揉め事になるのは嫌なのだろう。なんとなくそれくらいの空気は読めるけれど。

 知っておいて放って置くのは、あたしの性格ではなかった。

 結局。

 連絡を受けた警察は、家主である加藤氏と騒ぎでの元であるあたしたちの立会いの下、空き家に入った。まああたしと来夏さんは未成年だから特に近づくことはなく、おばあさん家の縁側で待っていて、詳しい話はその後に聞いたのだけれど。

 空き家の中には、一人の男性が倒れていたらしい。

 屋内に食べ物がほとんどない状態。門と有刺鉄線の中で外に出れないまま。眠るようにして意識をなくしていたとのことだった。当然その後病院に運ばれ、あたしたちも詳しい事情は後から聴かれるとのことだった。

 一通り騒ぎが終わり、あたしと来夏さんは途中まで一緒に家に帰った。来夏さんのおばあさんに引き止められたのはご愛嬌として、時間的にもう帰らないと親に何か言われそうだった。

 来夏さんは帰路、すまなそうにしていた。あたしに迷惑を掛けたと思っているのかもしれない。あたしのほうもなんだか申し訳なかった。

「気にしないでいいよ」

 気を使ってみると、来夏さんは首を振った。

「違うの、そうじゃなくて。……警察に、って。すごいなあって思って」

「すごい? あたしが?」

「うん。……わたしは適当に予想しただけで、面倒なことにかかわろうなんて思ってなかった。でも、藤島さんは違う。うちのお祖母ちゃんの荷物運びを手伝ったり、疑問を解決しようと一緒に考えてくれたり、警察への説明だって。だから、まあ、すごいなあって」

 そんなこと、言われたことがなかった。微妙な動揺を隠して答える。

「ううん、あたしはね、そういうのは『自分のため』って決めてるの」

 来夏さんは首を傾げただけで、口を閉ざした。

 なるほど来夏さんは、見た目以上に賢い同級生らしい。あたしは来夏さんの隠れたある「性格」に気がついた。せっかくなので褒め返そうとしたところで、来夏さんは足を止める。

「私、こっちだから」

「あ、そうか。うん、それじゃあまた明日、学校で」

 夏期講習一日目。高校二年生のあたしたちに、休日は少ない。来夏さんも学校という言葉を聞いて苦笑いしている。

「うん……あとさ」

「なに?」

「呼び方。来夏でいいよ。さん付けは、その、あまり」

 語尾を濁したまま、来夏さんは歩いていった。その様子を見て、あたしは言いようのない感情が湧くのを感じた。



 蜃気楼のような昨日の回想がちょうど終わったところで、目的地に着いた。

 おそらく、重要になる場所。

 そこは商店街の外れ。少しさびれた店舗とジュースの幟、そして木製のベンチ。

 商店「KEYAKI」。

 右手の紙をもう一度見る。あたしの記憶からここだと当てをつけてきてみたけれど、ほぼ間違いは無いようだった。建物に近づく。

 とりあえずベンチを見た後、店舗内を覗いてみる。この店の様子如何で話は変わってくる。

 店内の人影を見た瞬間、声を上げそうだった。

 ひとり、飲み物コーナーの前でじっと立っている女の子。すらりとした背と白い顔、アンバランスな紅の唇。

 来夏さん。

 ……ううん、来夏でいい、だっけ。呼び方。

 動かない彼女の様子を見続ける。

 あたしの頭の中で、いくつもの情報が渦を巻いた。かき混ぜているのはあたしの「性格」だ。名を策略という。

 手元にある一枚の紙。商店。ひとりの同級生。あたしの仕事。彼女の能力。あたしの考え。

 ひとつの作戦が、頭に浮かぶ。

 そうだ。そうしよう。この仕事、彼女を――

 いや。慌てて打ち消す。だめだ。関係のない人を、巻き込むわけにはいかない。

 でも。

 昨日の出会いを思い出す。ひとりの同級生。

 昨日の出来事を思い出す。その能力。

 昨日の別れ方を思い出す。彼女の性格。

 その時あたしの脳裏に、今までにないくらい変な一文が浮かんだ。

 ……これは、運命ではないか?

 笑いそうになるが、どうしても偶然とは思えない。彼女を言葉に表すなら、そう、「適任」すぎた。彼女なら、「あの役目」をこなせるかもしれない。

 せっかくだし、あたしもドミノが倒れるのを手伝ってみようか。全貌が分からない、この夏に組み上げられたドミノ。どう倒れるのかは、もう分からない。

 だってあたしも、ドミノのコマのひとつだから。

 倒れかけたあたしの背を最後に押したのは、自分の一言だった。

 「自分のため」

 やってやろう。

 どうせ、自分のためだ。

 後悔しても構わない。そのときは自分のせいにすればいい。持つのは決断と覚悟だけ。あたしはいつもそうしてきた。

 すべてを巻き込んで、この仕事をやり遂げてやる。

 あたしは店内に向け、第一歩を踏み出した。



     ◇7


 大半の人間は暑い時、水分のことが浮かぶのではないだろうか。ふとそんなことを思う。

 私だって一応人間だし、いまのところ脱水症状寸前だった。暑すぎる。さすが夏。

 今日の気温は最高で二十三度らしい。朝のニュースでやっていた。エアコンの無い教室を想像するだけで登校する気が失せたが、お母さんにその旨を伝えると「なに言ってるの、このなまけもの」と一蹴された。反論も思いつかず、学校へ向かう。

 そして初めての夏期講習。午前中の数時間、まったく集中できないのである。私の頭の中には水分のことしかなかった。途中休憩に少し水を飲んだだけで、授業中は口内の渇きに耐え続けていた。机の下でこっそり財布の中身を見ると愕然とした。百円玉が一枚と、一円玉が三枚。ジュースを買えない。購買部は夏期休業でシャッターが閉まっている。シャッターの横に唯一存在する自動販売機の値段は当然、一律百二十円だ。まるで詰みの状態。

 そこから授業が終わるまで、喉の痛みに耐えながら必死に考えをめぐらせた。家にすぐ帰るべきか。それまで渇きは我慢できるだろうか。友だちに二十円を借りるのもなんとなく恥ずかしい。せめてその前にどこかで飲み物を……。

 やがて脳の中から重要な事実を取り出すことに成功した。

 帰り道途中の商店街。あそこではジュースを百円で売っていた。はず。子供の頃に寄ったことがあるだけだから確証はないけれど。

 賭ける価値はある。もし買うのが無理でも、店内にエアコンはあるだろうし涼んだ後に家に真っ直ぐ帰ればいい。

 とりあえず、私は願った。この授業が一刻も早く終わりますように。そうしてじっと時計を睨むものの、かえって針のスピードが遅くなったように感じた。それもすべて、暑さのせいだと思った。



 授業が終わり、五十秒で外へ飛び出す。教室も暑かったけれど、アスファルトの上は耐え難いほどの熱気だった。脱水症状とか熱中症で倒れるなんて洒落にならない。頭が熱くならないようバッグを載せ恥も外聞も気にせず走った。むしろ友だちに二十円借りたほうが恥が少なかった気もするけれど、もう遅い。

 商店街の入り口あたりに店があった。モスグリーンで角ばった看板に「KEYAKI」とある。子供の頃の記憶によれば確か酒屋と駄菓子屋をあわせたような感じの店内だったと記憶している。

 店に入った瞬間、北風のような冷気が体を包んだ。エアコンって素晴らしい。高校にはそんな高価なものはないし、我が家にもない。

 さて飲み物だ。もう喉はカラカラ。ジュースコーナーに進み百円で買えるジュースを探す。思ったよりも種類があった。

 じっと止まって選択する。内容量とか味とか色々吟味する点はあったのだけれど、端にある水色のガラスボトルに目が止まった。

 ラムネだ。懐かしい。

 いかにも涼しそうなガラスビンとビー玉。中の透明なソーダ。想像するだけで顔がほころぶ。うん、せっかくだしこれにしようか。

 店内奥からちょうど店の主人が出てきた。妙齢のおばさん。にこにこしながら椅子に座っている。

 私はラムネを一瓶取り、カウンターに持っていく。おばさんはそれを見て、レジを押すことなく言った。

「はい、一〇五円ね」

 思わず手が止まった。すぐに財布を取り出して確認する。授業中見た通り、小銭ポケットには百円玉一枚と一円玉三枚。一〇三円。……足りない。

 ど、どうしよう。お金が足りない。後から動揺してきた。エアコンがあるのに冷や汗が出てくる。てっきり表示が百円だったから気にも留めなかったけれど、当然消費税がある。消費税込み表示だと思って忘れていた五パーセントの壁。一〇〇円じゃない、一〇五円だ。

 恥ずかしさを極力隠す。

「あの、すみません、百円だと思ってて……」

「あ、じゃあ五円はあたしが」

 横から聞こえた声に私は仰天した。にゅっと誰かの手が伸び、レジの前に五円玉を置く。

 振り向いた先には、昨日会ったばかりの女の子の姿。

「……藤島さん」

 短身長の元気少女、藤島佳奈《カナ》さん。なぜここに。そう問おうとしたがむしろ彼女のほうが早かった。

「ライカ、ラムネ好きなの?」

「……うん、それなりに」

 思わず生返事になる。藤島さんは昨日私が言ったとおり私の呼び方を変えてくれているけれど、なんだか彼女の発音は片言に聞こえる。昨日のさん付けのほうが違和感が無かったかもしれない。まあそれはともかく。

 藤島さんはさらに、レジにラムネ一本と小銭を追加した。

「あたしにもラムネください!」



 とりあえず、ふたりで店の前のベンチに座った。木製で、骨組みだけパイプ。結構ぼろそうで不安だったけれど、二人で座ってもびくともしない。

 さて。

「……あ、ありがとう、五円、貸してくれて」

 まさか昨日お祖母ちゃん家で会った同級生に今日も助けてもらうとは思わなかった。後できちんとお金を返さないと。しかもその同級生とは昨日がほぼ初めての交流。嫌な偶然があったものである。

 藤島さんは空けたばかりのラムネをがぶ飲みしている。

「気にしなくていいよー、なんだかお金足りないって感じの顔してたから」

 さすが気を使う能力が高い藤島さん。感心していると、こっちを向いて訊いてくる。

「ライカはラムネ好きなの?」

「うん、まあ、それなりに」

 さっきと同じ会話。そんなに珍しいのだろうか。棚にあったから選んだだけだけれど、嫌いではない。

「ふうん、そっかあ。あたしも好きなんだよね」

 そう言って藤島さんは横にラムネのビンを置く。

「夏期講習で息が詰まるからさ、あたしいつもこうやってここで休憩してるんだ」

「あー、それはいいかもね」

 ここのベンチはちょうどひさしの陰になっていて涼しい。景色も悪くないし、店で何か買い食いするのにもよさそうではある。

 芝居がかったような不敵な笑みをみせる藤島さん。

「ね、ライカも暇でしょう?」

「ヒマって?」

「この夏休み。毎日午前中ばっかり課外授業だし」

「まあ、うん」

 一日中休みならまだしも、お昼過ぎまで予定が詰まっていると案外予定を入れづらい。かといってぽっかり空いた午後の時間を埋める方法はなかなか無い。夜遊びとか大胆な行動ができればまた違うのかもしれないけれど。

 藤島さんは身を乗り出す。

「それならさ、ここでたむろしない?」

「はい?」

「ちょうどこの店は通学路の途中だしさ、ここでラムネ飲んだりお昼食べたりできるじゃない。お喋りとか、勉強とかも。有り体に言えば、ちょっとした倶楽部みたいな」

 つまり、休憩所としてこの店を使おう、ということだろうか。なるほどなあ。でも、うーん、急にそういうことを言われても。

 そう返そうとしたが、ふと少し考え込んだ。

 ……色々と、考えることがある。

 なんとなく、昨日の出来事について思い出していた。藤島さんと巻き込まれた、空き家侵入者事件。

 藤島さんが初めて会って話したその一連の出来事で、私は思ったのだ。

 藤島さんは、私に無いものを持っている、と。

 赤の他人も助ける性格、思慮に富んだ会話力、そして一貫された彼女の行動原理。

 それを昨日、見せ付けられた。それらを見て、私に宿った感情。

 ……それは、多分憧れだった。

 その性格に、私は憧れていたのだ。

 彼女の長所を私が真似できれば、何か変われるかもしれない。目指す将来が見えてくるかもしれない。

 そんな風に思ったのだった。

 そして、彼女とコミュニケーションをとれば、彼女から学ぶこともあるだろう。

 倶楽部、か。

 私は手に持っていたラムネのビンを膝に載せた。

「……悪くないかもね」

「ホント?」

 藤島さんは飛び上がらんばかりに喜びの笑顔を咲かせた。

「ふふっ、これで夏休みはリラックスできる! そうだ、名前とか決めようかな」

「名前?」

 彼女は立ち上がり、新しい国の名前を決めたかのように宣言した。

「いまからこの集まりを、『ラムネクラブ』と名づけることにします!」

 朗々とした声が、ベンチの周りに、アスファルトの上に、私の耳に届く。

 ラムネクラブ。なるほど、二人の好きな飲み物を冠した名前。けっこう素敵な響きに思えた。

 夏休みの間、講習のように縛られることもなく、自由にリラックスできる、小さな集まり。

 そして私にとっては、藤島佳奈という教師に何かを教わる、もう一つの授業。

 本当に、悪くはないかもしれない。

 思わず微笑むのを自覚する。藤島さんもなぜか笑い始め、二人でしばらく笑いあっていた。

 暑さですら、吹き飛んだように感じた。

「ライカ、あともう一つ」

「なに?」

「あたしのことも、『藤島さん』じゃなくて、佳奈って呼んでいいから」

 不意に差し出された右手。

 なんと、照れくさいことを。それでも私は、その手を強く握った。

「よろしく、ライカ」

「よろしく、カナ」

 この出会いから、何かを得られますように。私はそう祈っていた。



第四話 おわり




INDEX

第一話 静かな声音が、その場に響く
第二話 小さな期待が、その子を動かす
第三話 健気な言葉が、手紙に現る
第四話 数奇な対面が、全てを始める
第五話 苛烈な降雨が、虚像を暴く
第六話 二つの事件が、過去から交わる
第七話 一つの推理が、未来に導く


INFORMATION
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