第二話 あとで See you, later.



 義里カズ



     ◇独白 1


 刃物を探そう。そう思い立つ。

 同居人の女の子は今、窓際で横たわっている。彼女が熟睡しているのを確認してから、ベッドを降りた。

部屋には当然二人だけ。橙色の豆電球だけで照らされ、より暗さが際立っている。

 起こさないよう細心の注意を払って、洗面室の方へ忍び足。一年以上住んでいるのだから廊下の電気はなくとも間取りは覚えていた。

 戸を閉め、洗面台の小さな電灯をつけて、下にしまってある段ボールを引き出す。音を出さないよう慎重に。ここにはあまり使わない物を入れてある。開け、探す。

 やがて目当ての、刃物が見つかった。

 取り出して、光に当てる。

求めていた、この形。

 それを握りしめ、電灯を消し、彼女の方へ向かう。

 言葉なんて必要なかった。なぜならこの刃物がすべてを物語っているから。


     ◇五月 1


 喧嘩になる時は私とシーユーのどちらかが主因になる。今回は私だった。

 怒り心頭のシーユーが何度も繰り返す。

「たかい、高いよ!」

 テーブルの上に鎮座しているのはホールケーキ。サクランボが白々しげに並んでいる。

 ここのところ質素だし、たまには美味しそうなものを、とケーキを買ってきておいて、夕食の後に出したところまではよかった。シーユーも喜んでくれて、さて食べようとしたところ。値段を訊かれ、うっかり答えてしまったのだ。

「べ、別にそんな浪費でもないし……」

 あまりの剣幕に、私は後ろに押されるようにすら感じた。

 こちらとしては喜んでもらえばそれでよかった。シーユーは我儘をめったに言わないし、むしろ私の方から気遣うべきではないのか、というわけである。今月はバイト給料からそんなに使っていないし、さっと買ってくるならケーキが一番楽だった。

 シーユーはわざわざ椅子に正座しなおす。

「高い! そのお金で何食できるの!」

 日常生活を続ければ、ある程度の家計事情もばれている。しかし、そんなに怒らなくとも。

「エリーはエリーのために使えばいいの。シーユーは住まわせてもらっているだけでうれしいんだから。あ、その、エリーの気持ちは嬉しいけど、でも、でも!」

 まったく、いったいどうして喧嘩になっているのかもよく分からない。

 シーユーのこうした言い分は遠慮と距離感を十分に表しているといえる。自分のために迷惑をかけるわけにはいかない、というわけだ。かといって下手に拒否ばかりされて、必要な物すら疎かになっては私の方も困る。

 買ってきたものは仕方がない、となんとかシーユーを説き伏せ、私はケーキを切り始める。

 切っている最中もシーユーは十六分の一でいいと言い出すし、食べている最中も会話が進まない。どこか気まずかった。上に乗るピンク色のクリームが妙に甘ったるく感じる。

 こうしてみると二人で食べるには大きすぎる。全て消費するのに三日はかかるだろう。つくづく失敗したな、と思う。明後日にはもう出発なのに。

「ごちそうさまでした。ありがとうございます!」

 片言じみた台詞でテーブルを後にするシーユー。怒ってはいるが食べ物は無駄にしたくない、というのがありありと見えた。

 ため息が癖になってきてしまった。冷蔵庫に仕舞っておこう。

 私は私で、やることがある。



「ふうん」

 二つ隣の部屋に行くのは、あまり気が進まなかった。けど、他に頼める人はいない。

 玄関先に立つ謎多き女性、塩川さんはにこにこしている。手に持ったチョコバーを豪快にかじる姿が彼女の性格を表している気がする。長身ではないが、明らかに年上。

「絵里ちゃんがいない間、何かあったら手伝えってことね」

「すみません。お願いできますか」玄関で私は頭を下げる。

 先月に塩川さんと揉めたばかりなので、こういうことを頼むのは気が引けたが、シーユーの存在を明かせないことを考えると他の人にも言いにくい。

 塩川さんは笑みを崩さないまま、横の壁に寄り掛かった。

「ま、いいでしょ。それくらい近所づきあいってことでどこもやってるんだろうし。……あの子はいるのね? 背の小さい」

「はい」

 ふふ、と謎多き隣人は笑う。

「意地が悪いね、絵里ちゃん。他の人にはお願いできないってことか。アタシが大家さんに通報できないのを見越しているわけね」

「そんなことは……」見抜かれていた。

 やはり交渉は苦手だ。

 詳しい事情は知らないけど、塩川さんは大家さんと話をしていない。それはすなわちシーユーの存在をバラされずに済むということで、こちらとしては好都合だった。塩川さんが相手だからこそ、シーユーのことを打ち明けつつ依頼ができる。危うい目論見ではあった。

「ま、いっか。あの子は、一通りの生活はできるのね?」

「はい。アクシデントがあった時だけで」

「了解。別に立ち入ったりしないから安心して」

 私は口を閉じる。やはり懸念はあった。シーユーを一人アパートに置いておくのも嫌だけど、得体の知れない他人にトラブル収拾を頼むというのも賭けではある。

 ただ、この数か月でシーユーもセキュリティはしっかりするようになったので、無事何もないことを祈る他ない。

 私は白い箱を差し出す。昨日買ったケーキの半分。

「これ、つまらないものですけど」

 言ってから、出す順番を間違ったことに気が付いた。塩川さんの顔が苦笑に変わる。

 半ば逃げるように私は部屋に戻った。

 なんだかこの歯がゆさは、数か月前にも味わったなと思い出す。


     ◇二月 4


 私の名前を彼女に伝えるには、出会った二月のあの日から一週間を必要とした。

 奇妙な出会いだったので、教える機会を逃してしまったのだ。最も、シーユーの本名だって分からないわけだけど、それは彼女が意図的に隠したいのだろうし問い詰める気もない。

 日常生活では別に不都合がなかった。自分と相手しかいないから呼ぼうにも名前はほとんど必要ない。見知らぬ者同士特有のぎこちなさが抜けず、向かい合って一つ一つ質問するのが恥ずかしかったというのもある。

 二月下旬の朝、荷物が届いた。実家からの仕送り。

 段ボールの中身はだいたいお米とかレトルト食品とか。去年はいろいろ工夫を凝らして送ってきてくださったものだけれど、一年となると品物も定まってきてしまうらしい。一か月に一回ほどこうやって届くのは助かっている。

 台所に仕舞っている間、セーター姿のシーユーは箱に興味を示していた。

 何を見ているのかと台所から覗いてみると、箱に貼ってある伝票らしい。別に珍しくもない。

 レトルト食品を引き出しに仕舞う。二人になって、ある程度消費量が減った。

「……絵里」

 急に名前を呼ばれ、背筋が反応する。

 振り返る。シーユーは伝票を覗き込んでいただけだった。そこに書いてある差出欄から、私の名前を見つけ読んだだけらしい。

「絵里、えり」

 彼女のやわらかい声で繰り返されると、あまりのこそばゆさにもうたまらない。突然の気恥ずかしさに立ち上がる。

「や、やめて」顔が熱いまま、シーユーに注意する。

 シーユーはこっちを見上げて、首をかしげた。

「名前きらい?」

「……そんなことはないけど」

 連呼されると、なんだか急に耳たぶを触られたような気分になるのだ。シーユーに呼ばれるのは初めてだし。

 私もしゃがんで、伝票を改めて見る。母の字。

 シーユーが、その字に人差し指を這わせる。

「『絵里』のいみって?」

 名前が付けられた由来、ということか。

「絵画のように美しく、古里のようなおおらかさを持つことができるように……ってのは嘘らしいけど」

 急な転換に、シーユーが目を丸くする。この話をする度、面白くてたまらない。ちなみにこれは、小学校で行われた「名前の由来を聞いてこよう」の授業のために、両親が急きょ考えた由来だった。

 本当の理由は別にある。

 私は笑みを抑えきれない。

「母さんと父さんが好きなものを一文字ずつ繋げたんだってさ。絵と、故郷。で、そうやって、好きなものの名前を付けたら、ずっと見守っていられるからって」

 それこそ語呂合わせやグループの命名に近い。

「ようするに自分勝手な命名なの。絵里って名前は。そういうわけで、私もいくらか自分勝手」

 私はわざと大げさに肩をすくめた。

「……そんなことない」

 シーユーが首を振る。

 そのトーンは真剣だった。

「絵里が、とっても好きだったんだとおもう。生まれた、赤ちゃんのときから。だからもっと大切にできるように、だとおもう」

 そう言ってじっと見つめるシーユー。

 私はその言葉に、何も返せない。

 自虐のつもりだったのに。 こう言われてしまっては、申し訳なくなる。

 シーユーはもう一度だけ名前の部分を触り、立ち上がった。

「……絵里! シーユーも絵里って呼ぶ! 絵里ってかわいいし!」

「ちょっと、だから恥ずかしいってば! お願い抑えて!」

 さっき以上に体が熱くなっているのを自覚する。シーユーの呼び方はあまりに感情こもっていて、日常でこんな風に呼ばれるとは思わなかった。

 ただ、彼女の発音がだんだんと「エリー」に近くなっていって、こそばゆさが減っていったのは幸いだった。二人して横文字のニックネームを付けているようで、少しばかり楽しく感じる。


     ◇五月 2


 二日後、出発の朝。旅行鞄を置き、台所で振り返る。

 シーユーはいつになく精悍な顔つきで引き戸の横に立っている。こうしてみると彼女は、先月くらいにおける子猫らしさは影を潜め、しっかりと自分の行動を理解するくらい成長したようにみえる。髪が伸びただけじゃない。二日くらいなら、留守を任せても安心だろう。

「ガスは大丈夫?」

「だいじょぶ」

「お風呂とかも気を付けてね」

「うん」

「洗濯物は帰ってきてまとめてからにするから」

「……エリー?」

 シーユーが注意の途中で遮ってくる。無表情のまま首をかしげ、一拍おいて。

「お母さんみたい」

 その指摘に何も言えない。確かにその通りで、いつまでも心配が抜けないままガミガミと注意を続ける様はあまりに親っぽかった。反省しよう。

「ごめん。分かった。まかせるから」

 そう言うと、やっと笑ってくれた。

「エリーも、がんばって。けんこうだいいち」

「……そうだね」

 そんなことを返されるとは思わなかった。頑張るといっても、私自身向こうで何をするかはいまいちよく分かっていない。ただやり過ごそうと思っていたから。だけどシーユーに言われては、気合を入れなおさないといけないと思う。

 私は玄関のほうを向き、靴を履いた。荷物を最終確認して、扉を開ける。

「じゃ、行ってきます」

 いってらっしゃーい。間延びするシーユーの声は、いつも通り安心感を与えてくれた。



 なぜこの時期にこんな学校行事が設けられているのかわからない。

 通称、二年合宿と呼ばれている。

 その名の通り、高校二年生になると全員が隣町の宿泊所に行き、一泊二日で活動する。内容は主に勉強とグループ発表。あとは交流を深めるためという名目もあるけど、もう二年生にもなるし、仲のいい人はすでに固まってしまっている。クラス替えから一か月経っているわけで、今から交友関係を無理に広げようとする人はそんなに多くない。

 どれだけ愚痴を言っても、逃れられるわけはないのだ。だから私は、大きすぎる鞄を運び旅行バスに乗り込み、三十分ほど揺られてよく分からない山中の施設へと引っ張られている。

「開講式始まるんで並んでー」

 松林に三方を囲まれた高台。景色がいいのは街を望める南側だけで、私たちもそっちの道から登ってきた。

 建物を見上げる。四階建て、レンガ模様の壁、角ばった玄関。どこか古くからの厳格な施設をイメージさせた。地下に牢屋があっても驚かないけど、私立高校の教師が教育のためにそれを使うかどうかまでは知らない。

 玄関前の駐車場に並び、開講式をぼーっと聞いていると、やがて教員の指示が始まる。

「グループ分けするからよく聞いてね」

 思わず身を固くする。不安をまわりに悟られなければいいな、と思った。

 私は何かを忘れたくて、シーユーのことを考える。


     ◇独白 2


 あの気づきは二月の末のことだった。

 シーユーは爪を切りたがらない。

 初めは傍観していたものの、ついに爪が欠けて洗濯物に引っかかり危うく大変なことになる状況まで陥ったので、私は逃げる猫を捕まえ、ベッドに座らせる。ちゃんと切ってあげることにしよう。

 私は後ろから覆いかぶさるようにして、右肩から顔を出す。右手を軽くつかんで甲を上にした。白い親指に黒子がひとつ、浮き出るようについている。

「う、うう」

 耳元で震えるシーユーの声を無視し、親指を手に取る。自分の手と違って慣れない。

 冬はまだこの街に居座っていて、まだまだ寒い。昨日降った雪がベランダの手すりに積もっている。電気代が気になるがエアコンを動かし続けるしかない。

 思えば、私が子供の頃、同じ体勢で母に爪を切ってもらった気がする。あの頃私もあまり爪切りが好きではなかった。

 人差し指、中指。徐々に慣れてくる。あまり深く切って痛がらせるわけにもいかない。シーユーはなるべく体を動かさないようにしているのだろうけど、むしろそれが震えの原因となっていて、私にも伝わってくる。

「痛かったら言ってね」

 これも母の科白と同じ。

 左手に進んで、ふと感触の違和感に手を止める。思わずシーユーの手をひっくり返した。

 手首につく、痛そうな傷。三日月形が二つ、周囲の肌とは異なった濃い色でその存在を放っている。完全には消えず少し盛り上がったような跡になっている。これくらいの深い傷だとよくある腫れ方だ。

 Cと、U。

 あまりに私が傷をしげしげと見つめていたせいか、シーユーは耳元でくすりと笑う。

「きになる?」

 そのいつもと違う妖艶な声に、今度は私が震える。

 まるで、こうして抱えている女の子が、急に女性へと変化したように。彼女には時々そういう瞬間がある。

「……い、いや」

「触ってもいいよ」

 そういうことを言われると、かえって触りにくくなる。だけどなんだか気になって、目を離せないでいた。

 傷の形。完全な弧とは言い難い。爪の断面と表現すればこの形にかなり近いだろう。ただ、爪を突き立てたところで、これほどに深く鋭い傷にはならないような気がする。伸びた爪は強度が低い。

 爪の跡でないとすれば、この傷の原因はなんだ?

 私は彼女の左手を戻し、爪切り作業に戻る。

「なんだ、つまんない」

 シーユーが息を吐く。

 私はそのまま爪切りを続ける。無言。静かな部屋。

 考えにとらわれていた。今夜、刃物を探そう。


     ◇五月 3


 活動グループは意外とすんなり決まった。というか、あらかじめ決められていた。

 男女に分けて、クラスの出席番号順に五人ずつくらいで一グループ。もともとこうなっていたのなら事前に通知してくれてもいいと思ったのだけど、結局やることも教えられていないし、特に意味はない。

 男女に分けられている理由は、グループで一つの部屋が割り当てられ、そこに一泊するから。まずは荷物を運び、役割を決めることになる。私たちは南棟に移動していた。

 建物の構造としては、宿泊所として使える北棟と南棟、そしてその間に中庭。両方の宿泊棟の東側には集会場や食堂などのホールがついている。見取り図からすると、「門」の字を右に九十度回した姿が一番近いかもしれない。

 部屋は八畳ほど。といっても、壁まわりには二段ベッド四つと大きな窓しかない。中央にはカーペットと、八人くらいの大きさをした丸テーブル。おそらくどこも同じだろうし、修学旅行というわけでもないから部屋で遊んだり優雅に過ごしたりすることはできないのだろうことは知っていた。

「……ベッド選び、どうする?」

 女子五人。どうやらそのうち三人は馴染みらしく、グループが決まってからもお喋りをしていた。私にはそんな知り合いは高校にいない。もう一人はなにやら私以上に大人しいらしく、ほとんど自分からは喋らない。

 ベッドは合計八つもある。それくらいの人数でも泊まれるようにという施設側の配置なのだろうけど、今気まずい状態の私たちにとっては悩みの種だ。一部屋に二グループで賑やかに、というと、今度はベッドが足りなくなる。

 三人組のうち、長身で暗めのリップを付けた子が、すっと部屋の右、窓の方へ行く。

「わたしここにする!」

 そうすると三人組の場所は瞬く間に決まる。特に文句はない。私と無口な子は左側のベットの上下へ。空いたところは荷物置き場になった。

 上のベッドではしゃぐ彼女らを見ていると、私もそうしなければいけないのかと思うけど、どうにもそうしている自分が思いつかない。

 やがて天井のスピーカーからアナウンスが鳴った。第一セットが始まる。



 合宿は、セットという時間区切りでスケジュールが組まれている。各セットで、教科ごとの勉強があったり、グループ研究があったりする。確か、三セットが国数英に割り当てられ、クラスごとにローテーションが組まれているはず。

 一日目、午前に第一セット。お昼を挟んで第二・第三セット。なんと夕食後に第四セットがある。二日目の午前、第五・第六セットでそれらは終わり、解散会を行って帰宅となる。すなわち、ほとんど勉強と調べ物しかしない。一セット一〇〇分であることを考えると、通常の授業二時限分ずつやっていることと変わりはない。

 第一セットはグループ研究のイントロ。集会場で説明を受け、テーマを決める。現在の学習と地域の関わり云々。持参した教科書などを用い決める。なんとこの施設には小さいながら図書室もあるらしく、そこの資料も使っていいとのこと。

 集会室には二クラス、八十人ほどが集まっている。他の集会室も同様だろう。適当にグループごとに固まって座り、テーマを決める。

 私たちのグループは、おそらくいくつかの他グループと同様であろう結論、すなわち「適当なテーマでお茶を濁そう」という方向へと進んだ。五人が五人、全員やる気ない。

 あと、リーダーを決めないといけない。連絡や部屋の管理などをする役割ではあるけれど、適当に決めていいらしい。

「じゃんけんにしよっか」

 まわりのグループに倣い、運に任せる。

 掛け声とともに私は右手を握る。他の四人は皆、手のひらを見せていた。苦笑いがその場を包む。

 ……リーダー、か。

 かみ合わない三人と一人と一人。少しばかり背筋が凍る。妙な予感がした。


     ◇独白 3


 考えを確かめるには、今夜しかなかった。

 刃物を探そう。そう思い立つ。

 同居人の女の子は今、窓際で横たわっている。彼女が熟睡しているのを確認してから、ベッドを降りた。

部屋には当然二人だけ。橙色の豆電球だけで照らされ、より暗さが際立っている。

 起こさないよう細心の注意を払って、洗面室の方へ忍び足。一年以上住んでいるのだから廊下の電気はなくとも間取りは覚えていた。

 戸を閉め、洗面台の小さな電灯をつけて、下にしまってある段ボールを引き出す。音を出さないよう慎重に。ここにはあまり使わない物を入れてある。開け、探す。

 やがて目当ての、刃物が見つかった。

 取り出して、光に当てる。

求めていた、この形。

 それを握りしめ、電灯を消し、彼女の方へ向かう。

 言葉なんて必要なかった。なぜならこの刃物がすべてを物語っているから。



 二月の夜はまだ寒い。

 部屋に戻り、私はシーユーの許へと近づく。窓手前の段差、橙色の光で僅かに照らされる、彼女の寝姿。今日は右側を下にして寝ていて、無防備な左手が毛布の上にさらされている。

 手首の傷。横と縦を向いた、二つの三日月。

 じっとそれを見つめてから、私は手元の刃物を光に当てる。薄暗くても、その刃の形はよく分かった。丸刀の湾曲具合。

 彫刻刀。

 中学生の時の美術授業で使っていたものだ。高校でも使うだろうと持ってきておいたのである。

 シーユーの左手と、比べてみる。

「……」

 息が詰まる。

 そこで、ぴくりと彼女の左眉が動いた。思わず固まってしまったけど、しばらく待っても起きる気配はない。

 気が付かれないようその場を離れ、彫刻刀を仕舞いに戻る。

 傷と、彫刻刀。

 銘柄は違うかもしれないけれど、大きさと曲がり具合は驚くほど合致した。

 予想が当たっていたわけだ。あれを爪の跡というには、傷は大きくかつ深そうだった。かといってシーユーの宣言であるアルファベットのCとUにしては、曲がり具合が足りない。

 洗面所からベッドに戻り、音をたてないように潜り込む。裸足に沁みた廊下の冷たさが布団へと溶けていく。

 涙が出そうになるけど、頑張ってこらえて、私は眠気が来るのを待つ。


     ◇五月 4


 予感は的中したように思う。だけどそれ以上に、忙しかった。

 午後の第二セットと第三セットは勉強の時間。我がクラスは数学と英語で、序盤の授業以外はすべて自習課題。しんとする集会場の長机に皆が並び、ひたすら問題を解き続けた。

 そこからすぐに夕食。食堂もクラスによって利用時間が分かれている。まあ、ここから飯盒炊爨のスタートでなくてほっとしたのは事実。無言でカレーライスを口に運んだ。

 夕飯の後は第四セットとして、グループ研究の時間が設けられている。

 時間も施設も自由に使い、テーマに関する調べ物やまとめを行っていいという。

 別にリーダーといっても、一から十まで指示するわけではない。どちらかといえば連絡役の方が重要なのだろうし、この時間に張り切る意味はなかった。ただ、私たちのグループはいつも以上にやる気がなく、適当に部屋で教科書を開いたり、バラバラに資料室へ行ったりと、どうにもしまらない活動になった。それこそ、三人組はくっついて行動するし、もう一人の子はふらふらと移動するしで、指示も提案も出しにくいのである。

「資料室あんまりいい本なかったよお。ほら、小説とか」ルームメイトの掲げるまったく関係ない本をみて、私は頭を抱えそうになる。

 向こうだって私のことを操りにくいと思っているのかもしれない。

 やがて、教師が部屋をまわり、一枚の模造紙を置いていく。

「第六セットの時に、この模造紙使って研究結果をまとめてもらうから。その紙は、帰り次第学校に貼られるのできちんとまとめてね」

 なんだか小学生の自由研究みたいだ、と思った。結局そんなものなのかもしれない。

 一応、私一人でも調べられるテーマだからよかった。皆がやる気なく白紙のまま提出するなんて事態は回避できる。

 ……ただそれが、懸念の一つなんだけど。

 天井からブザーが鳴った。今日の活動は終わり。

 申し訳ほどの休憩と入浴時間もあっという間に過ぎ、部屋の電気は早々に消される。結局グループの人とも仲良くなれていないし、眠るしかなかった。二段ベッドの不安定な感覚が私の眠りを浅くする。



 八時間後に起きてもシーユーが横にいなくて、私はそんな当たり前のことすら覚えていられないのかと頭を抱えた。いつもの目覚まし時計はなく、止めるための競争すらない。そんなものだ。

 足りなさすぎる朝食を終えた後は、第五セットが待っている。

 残る一教科は国語。なんだか身が入らなかった。

 シーユーは今、どうしているのだろうか。危険なことにはまず近づかない子だから、むしろ部屋の端でずっと縮こまっているような気がする。それはそれで心配。ちゃんと食べていればいいけど。

 最後の第六セットが終われば、あとは昼食を終えて閉講式。気合を入れないといけない。

 部屋に戻り、休憩がてらスタートのブザーを待つ。

 と、そこで急に、グループの三人組が立ち上がった。

「次、グループ研究でしょ? 資料室行ってくるね!」

「……え」

 止める暇なく、彼らは談笑しながら部屋を出ていく。

 やられた。

 今日はもうまとめの時間なのだ。いまさら資料を集める暇なんてない。それは昨日までに終わらせることで、いまさらとりかかったところで助けになるものでもない。

 逃げられた。

 彼らはまとめ作業が面倒で投げたのだ。おそらくお昼前に戻ってくる算段なのだろう。まとめが終わっていなくとも自分たちのせいではないし、資料を集めていたという言い訳も立つ。

 しんとする部屋。

 残っているのは私と、もう一人不安な顔するクラスメイトと、白紙の模造紙。

 いまさら資料室から彼らを呼び戻せるか? 呼び戻して全員をまとめられるか?

 私は息を吐く。覚悟の息を。



 テーマについては一人で昨日調べてあった。A3くらいだったら軽く埋められそうに思う。

 ただ模造紙はその四倍の大きさはある紙だから、書く内容をしっかり考えないとひどいことになる。

 無口な子にはペン入れを任せ、私は文面を考える。少しくらい間が空いても大丈夫だろう。

 第一、模造紙にまとめるなんて作業は中学校で終わりだと思っていた。都会の高校に出てきて憧れを持っていたわけではなかったけど、なんだか拍子抜けだ。国数英の受験に向けた対策講座に比べると幼稚にすら見える。コミュニケーション能力の向上なんて言われたら失笑していたかもしれない。

 三人組がすぐ戻ってくる可能性も考えていたけど、予想通りそれはなかった。しばらく二人で黙々と作業する。

 無口な子が珍しくその口を開いた。

「あの、ごめんね。わたしこういうの苦手で」

 こういうの、とはいったい何のことを指しているのだろう。模造紙まとめ作業のことか、グループ行動のことか、沈黙を破ることか。

 いずれにせよ、その台詞はあまりに芝居がかった言い訳にしか聞こえなかった。

「……いいよ、別に」

 私は怒らない。怒る筋合いなんてないから。

 多少優しく言ったつもりだったけど、無口な子は一層萎縮して、何度かミスをした。



「えーすごい、リーダー!」

「ここまでやってくれたの!」

 三人組が戻ってきたのは、セットの終わり際、正午の十分前。模造紙を前にはしゃいだ声を上げる。

 なんとか時間内に九割方埋めることができた。出来はともかく、こうやって結果を出しておけば教師に何か言われることもない。

 三人組ボスこと長身の子が、歓喜の声とともに肩をたたいてきたけど、答える気にはなれなかった。手ぶらの彼らにいまさら怒る気もないけど。

「残りのスペースはグループの人の編集後記で埋めようと思って」

 私は模造紙の空欄を指差す。五人それぞれ一言ずつ書けばそれで十分だろう。グループで作業したという証拠にもなる。

 三人組は模造紙の横にしゃがむ。

「二時間でできるのってすごくなーい?」

「こんなにやってくれたなら、もう全部埋めてくれてもよかったのに、なんて。あはは」

 いまさらなにを言われても、怒る気はない。

 ……なのに彼らはくるりと振り向いて、急に談笑をやめる。

 その顔は恐れにみえた。

 いったい、どうしたのだろう。

 三人組のみならず無口の子でさえ、私のことを見て、一歩引くような行動をみせる。

「……あ、あの、ごめんね?」

「…………おこらない、で」

 彼らが何を言っているのか分からない。ちっとも怒ってなんていないのに。

 ああ、そっか。

 そんなに私は険しい顔をしているのか?

 そんなことはないのに。

 私は怒らない。

 怒らない、のに。

 私はあくまで冷静に、頭が停止するのを待つ。

 やがて彼らはおびえるように、模造紙の方を見て迅速に作業を始めた。

 そうそう、そうやってすぐに終わらせればいいのだ。別に、あなた方がサボっていたからって怒るつもりは微塵もない。全部私に投げたからって腹は立たない。ちゃんとやるべきことは終わったのだ。

 これが皆の最善の結果だったはず。

 これで、この合宿も無事終わることができるはず。

 そう、でしょ?

 だけどどうして、こんなにも空気が重いの?


     ◇独白 4


 もしあの傷が彫刻刀によるものだとすれば、なんて想像が頭をもたげる。考えたくもないのに、その映像が頭から離れない。

 ベッドの中で、頭が停止するのをひたすら待つ。

 シーユーと一緒に暮らし始めて、もしかしたら彼女も普通の女の子なのかと安心していた。

 けど今は、遠い。私は今まで、あんな傷を負うような状況になったことがなかったから。

 出会った時に彼女が見せた精悍な表情を思い出す。あの顔も、あの傷も、私は持っていない。持つこともない。

 やっと確信したのだ。私と彼女の、住んでいるところの違いを。

 部屋の外で音が鳴り、私は肩を震わせる。物がずれた音に違いない。これまでだってそんな音は聞こえていたのに、今は敏感に反応してしまう。

 ちらりと顔を上げ、窓の方を見る。シーユーの寝姿は静かなまま。ちっとも動かない。

 シーユーの左手が持つあの傷は、太い血管にはかかっていないように見えた。だけど当然、軽症で済んだはずもない。いったいどういう経緯なのかすらもわからなかった。

  気になる? 触ってもいいよ。

 シーユーにとっては、あって当たり前の傷。

 私が目を離せなかったのは、それが「当たり前」ではなかったから。

 ……訊けるわけない。

 そんなことを再認する。そして、また自分に嫌気がさした。

 「当たり前でない世界に関わりたくない」というただ一つの自分勝手な気持ちが、今も、これからも、私の一部を占めるだろうから。


     ◇五月 5


 トトン、トン。いつものノックの後、部屋に流れ込む。大げさに荷物を投げ、フローリングに倒れこんでみた。

 アパートの自室。天井が見える。

 こうして天井を眺めたことは今まであまりなかったかもしれない。住み始めて一年ちょっとも経つのに。

 今までしてこなかったことを後悔するという経験が私には多すぎる。

「エリー! 大丈夫?」奥の部屋から足音がして、頭の近くで止まる。

 覗き込んできた顔。

 一日半ぶりの、シーユー。

 ちょっと眉間にしわを寄せた彼女は、それこそ一日前から全く変わっていない。そうだ、この安心感だ。私は笑みをこぼしてしまう。

「ん、ただいま」

「寝不足? 体は動く? 風邪ひいてない?」

 そんな心配性な。



 それほど動いた気はしなかったもの、こうしてみると疲労が溜まっていたらしい。着替えてすぐに眠気がやってきた。

「ごめん、ちょっと仮眠していい?」

「ちょっとじゃなくていいから、たっぷり休んで」進んで布団をかけてくる。

 旅行帰りの午後三時過ぎに仮眠なんてすると生活リズムがおかしくなることは間違いない。だけど今日は許される気がした。

 部屋は一層静か。沈むように眠りが私を引き込む。

「……エリー?」

「ん?」

 ほんの十分しか経ってないような気がするのに、シーユーに起こされる。

 時計を見て、私は飛び上がりそうになった。

「七時? こんなに寝てたの?」

「もうぐっすり。ほっぺ突っついても全然」

 部屋は薄暗く、小さな電灯だけついている。シーユーに気を遣わせてしまったらしい。電気くらいつけてもいいのに。

「あーもう……」私は額をさする。「そうだ。お腹空いたでしょシーユー。作ろっか。それとも食べに行く?」

 ベッドから降りると、ローテーブルの上のビニール袋に気付いた。

 シーユーが得意げに中身を見せる。

「買ってきた。おべんとう」

 二つのパックと割り箸。ロゴマークを見る限り、しばらく歩いたところにある弁当屋さんのだろう。しかし。

「一人で買ってきてくれたの?」

 シーユーは首を振る。「あのお姉さんと」

 お姉さん? とっさに出てこなかったけど、長髪のジェスチャーをシーユーがしたので理解した。

「塩川さん……」

 わざわざついてくれたのか。これは後でまたお礼に行くべきだろう。



 シーユーのサプライズはそれだけに留まらなかった。

 お弁当の後、冷蔵庫から出てきたのはケーキ。

「え、あれ? あのケーキ食べなかったの?」

「新しいやつ!」

 載っているのが苺で、クリームも違うやつだ。

「お姉さんにお願いしたら、店に連れてってくれた」

「塩川さんね」

 そこでシーユーは肩を縮める。「……この前、怒ったの、ダメだったなって。エリーがわざわざ買ってきてくれたのに、変なこと言ってごめんなさい。エリーも怒りたかったよね?」

「そんなこと、ない……」

 私は怒る気なんてなかった。ただまあ、不機嫌な格好を少しくらい見せてしまったかもしれない。

 それから二人で静かに、ケーキを食べる。いちごクリームの甘さが際立っている。

「……エリー?」

 心配されるのも当然だ。私は涙を流していた。

 おかしいな。

 なんでだろう。泣くことなんて何もないのに。だけどケーキを食べていると、目がつんとして仕方がなかった。悔しさがにじみ出てきて、涙腺に伝わる。

 しばらくフォークを置いて、やっと理由を理解した。

「……私は、駄目だったんだ」

「エリー? どうしたの? おいしくない?」

 違う。あまりにケーキが美味しい。だから悲しい。

 私は、駄目なんだ。結局、自分のことしか信用していない。ここ数日で、それを嫌というほど味わった。

 他の誰も信用できないから、地元を出て、一人暮らしをして、家でも高校でも完璧であろうとした。他の人に頼りたくなんてない。自分で何でもこなせるようになりたい。そんな風に思っていたのだ。

 合宿でも他の人と噛み合わなかった。本質的に他人を信じていないから、一人で全部やろうとしたし、彼らの行動にも怒らなかった。いや、怒れなかった。頼る気もない相手がサボっていたからといって怒る権利は全くないから。そんな考えが最終日に、私の表情を険しいものに変えたのかもしれない。

 シーユーに対してもそうだ。

 たった一泊二日なのに、物凄く心配して、わざわざ塩川さんまで手配してしまった。この子はそんなに弱い子ではないのに。

  わたしは、生きなきゃいけないんです。

  めいわくはかけません。

  できることはなんでもして、言われたことはなんでも聞きます。

 あんなに真剣な言葉を、私にぶつけていたシーユーは弱い子なんかじゃない。

 だけど、私は彼女のことを、信頼なんてしていなかった。

 数か月も過ごしたのに。やっと心を通わせたって思ったのに。居なくなった時、悲しくなったのに。

 シーユーは私と違う。自分のことしか考えていないわけじゃない。常に私を、みてくれている。

 私は謝りたくて仕方なかった。

「ごめん、なさい……」

 ねえ。

 このケーキ、美味しいよ。

 美味しすぎるよ。ありがとう、シーユー。

 そしてごめんなさい。私は結局自分のことばっかりで、あなたのことを見ていなかった。最初から、振りをしていただけだった。

 駄目だ、私は。

 そんなことをうわ言のように繰り返しながら泣き続ける私を、シーユーは引き寄せる。

 涙が止まらなくて、私はシーユーの肩にすがりつく。みっともない。本当に、みっともない。こんな姿、見せたくなかった。

 部屋の中央で、ただ泣く。

「……エリーは、ちゃんとシーユーのこと考えてるよ」

 どうしてこの子は、そんなことを言うのか。

「だから、泣いてるんでしょ? みんなのこと考えてるから」赤ちゃんをあやすように、シーユーの声は優しい。酷いほどに。「外でシーユーが倒れた時のこと、覚えてる? この間の」

「四月のこと……?」

「うん。あの時、嬉しかった。エリーはまたこの部屋に入れてくれたんだって。まだここにいていいんだ、って思った」

 シーユーがちょっと笑ったのを、声で理解する。

 私はもう頭がぐちゃぐちゃになって、それからは言葉にならない声を発し続けた。

 自分のためなのか他人のためなのか分からなくなる。なにもかも。

 いつか理解する時が来るのか。それなら早く、その時が来てほしい。

 本当の意味で謝れる日まで。変われる日まで。

 それまでこの子に、さよならを言うわけには、いかない。



目次

第一話 すぐに See you, soon.

第二話 あとで See you, later.

第三話 またね See you, again.


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