私の存在証明 第三部 未来
第三部 未来
痛みを、手に入れた。
薄暗い通りを歩き、俺は携帯を取り出す。手元まで持ち上げるときに右腕が軋んだ。
「……痛い」
生きている。
それでも、さすがに無傷というわけにはいかなかった。
ツツジの木によるクッションで、いくらか衝撃は和らいだものの、激突する瞬間は間違いなく記憶が飛んだ。気がついたときには夕日はとっくに沈んでいて、誰もいない通路はしから抜け出したのだった。腕からもいくらか血が流れている。
分かってはいたことだけれど。既にすべて理解しているけれど。
それでも、落ちるスピードを体感した時は、死を覚悟した。
こういうことだったんだな、影子。
俺は携帯を開いて、刑事の番号を呼び出す。昨日も話したけれど、どうしても確かめておきたい事実がある。
「もしもし、端島です。芹川さんですか?」
「ああ。ちょっと知りたいことがあって」
普通に訊いたつもりだったが、遮られた。
「……芹川さん、なにかありましたか」
「は? なにもないが」
「そうですか……声色が少し違って聞こえたものですから。事件について情報があればぜひ教えてください」
声色。怪我はそれほどひどくはないけれど、その様子が電話越しに伝わったのだろうか。
とにかくそれどころではない。
「影子のアパートについてなんだが、家宅捜索したときの内容について残ってるか」
「はい、デジタルカメラのほかにメモも取ってありますよ」
さすが。なら、俺のききたい情報は持っているはず。強調するように、ゆっくり言う。
「アパートの玄関に、靴はいくつあった?」
さすがに予想外だったのか、端島刑事の返答が遅れる。
「……えっと、報告書にはゼロとありますよ。玄関のみならず、部屋に靴はないそうです。当然ではないですか? 大学講義棟屋上にあの子のスニーカーが残されていたわけですし」
いや、当然じゃない。
「違うんだ――影子は靴を二つ持っていた。いつも履くスニーカーと、たまに持ち出すローファー。一ヶ月前くらいにも玄関で見たから間違いない」
それが、俺も忘れていた思い出。酔って影子のアパートに寄っていた時の記憶。昨日真っ先に気づくべきだった。
端島刑事も疑問と思いつきに声が揺らぐ。
「あの子は靴を二つ常用していた、ということですか……? なら、部屋に両方ともないというのはどういうことでしょう」
そういう思考になるのは当然だ。そしてその矛盾を解消する答えはそんなに多くない。
靴は二足あり、屋上に一足、アパートにはない。盗まれたり隠されたりされる理由なんてないだろう。
残った一足は、影子が持っているのだ。
痛む体を引きずり、影子のアパートまでたどり着く。
日も暮れているこんな時間、大家にお願いするのも気が引けたが、もっともらしい言葉を並べて押し通した。血が滴る腕は怪しまれそうで隠しておいたけれど、気にされなかった。意外とやる気のない人なのかもしれない。
鍵を貸してもらい、中へ入った。
「……やっぱり」
予想通り、靴はない。捨てたり仕舞ったりといろいろな可能性が考えられるが、おそらくそれらはないだろうと思った。
確かめるのはこれだけじゃない。部屋の扉を開け、電灯をつけてから机へと向かう。
黒色の板で周りを囲んであるパソコン。
相変わらず異様な存在に思える。前面のモニタとキーボードがなかったらこれがどういうものなのか理解に苦しむだろう。
スイッチを押す。起動し、しばらくしてメッセージ。
『質問をどうぞ。わたしに関することだけ』
考えてみれば明らかだった。
このプログラムを彼女が作った理由。目の前の不可解な状況に惑わされて、最初に来たときはわからなかったけれど。
飛び降りた理由。そこから姿を消した理由。プログラムを作った理由。大学サークルに接触して行方不明事件の犯人に水を差した理由。そして、屋上にわざと靴を残した理由。
分かるよ。いまなら、やっと。
この機械は自分から言っていた。
――わたしは、日野井影子。
影子はこの機械を、「自分自身」にしたかったのだ。
俺はキーボードに手をかけ、入力する。『あなた』というワードを入れ、疑問符をつけ、訊きたいことを訊きたいままに。
『あなたは、どこにいる?』
機械に反応が見られた。
出てきたメッセージを読み、俺は急いで部屋を出る。
時間がたつと痛みはどこかに消え、走っていた。
思い返す。
まず、昨日の俺から、間違っていたのだ。
損失補填なんて言いながら、結局自分のことしか考えていなかった。事件に巻き込まれたならともかく、どうして影子がこんな行動をとったのか、その『動機』を真の意味で考えなかったのだから。
例えば、あの黒色のパソコン。影子の名を使って語るプログラム。どうして俺はあれを「遺書」だと思えなかったのか。正確には、遺書というより、自分が死んでも何かを伝えられる存在。
そして、飛び降りた場所。
彼女は別に昔から学校に対して思い入れはなかった。あの屋上を選んだのは別の理由があったのだ。
高さが微妙で、わずかながらクッションとなる木もある。
死ぬかどうか、微妙な場所。
「いま、気づくんだもんな」
俺は、失格だ。
いまさらだ。影子がリストバンドをつけていた理由。それは高校のとき知っていた。それに、いつも言っていたあの言葉。
確かめたかったんだ。
影子は。
自分が、死ねるかどうか。
影子は、自分がこの世界からいなくなっても、なにか残るものがあるのか探していた。それがすべての行動の源。
だから影子はあのプログラムを作った。ずっと残るもう一人の自分自身を作り出すために。
そしてもう一つ目的がある。自分がいなくなった時、残っている人が自分を探し出してくれるのか。自分がこの世界にいるということを憶えていてくれるのか。おそらくそれを、確かめたかった。
プログラミングサークルに接触して、多田が行っている罪を指摘したのは、おそらくなんらかの騒ぎを起こしてもらうことで、自分の行動を残しておいたのだ。屋上にわざと残した靴、アパートのパソコン資料、プログラムのメッセージまで、巧妙に手がかりを置いておいた。まるでヘンゼルとグレーテルのように。その思惑が成功し、俺と端島刑事は影子のことをしっかりと追った。
「……淋しかったのか」
分からない。自分がいなくなっても誰かが心配してくれるのか知りたかった彼女は、こんなことをするまで悩んでいたのだろうか。
あの場所から落ちたのだって、自分が本当に死ぬのかどうか確かめるため。
そして、その結果を俺は知っている。
あそこから落ちて、そして今、俺は生きているのだから。
目的地についても人気がなくて、少しばかり心配になった。
ぽつぽつと続く電灯を頼りに、丘を登る。
――あなたはどこにいる?
――わたしが最後に選びたい場所。
パソコンのメッセージ。抽象的ではあったけれど俺にはわかる。高校の時の幽かな思い出。彼女に連れてこられた、郊外の丘の上。
変わらず、灰色の展望台があった。周りはライトが多く付いていて見やすい。あの時咲いていた桜は当然、淋しく樹木だけを晒していた。
一階の部屋は飛ばして、コンクリートの階段をのぼる。
のぼりきる直前、夜空が目に入った。星が健気に、存在を主張している。
「……来るとは思わなかったよ」
一週間ぶりの声が飛んできても、素直に受け入れられた。もしくは、まだ実感が湧いていないのかもしれない。それとも、彼女の声なら俺の耳はすぐに反応するのか。
影子。
同じ姿だった。落ちたときと。
パーカーとジーンズ、左手にはリストバンド、そして靴はローファー。俺にだけ緩めてくれる、目の光。
「捕まえるのは、俺の仕事だ」
「ほんとにね」
言いたいことはいくらでもあったけれど、それでも、よかった。
影子がここにいてくれたから。やっと届いたから。
「戻る気はないよ」
「嘘はいい」
彼女の強気を俺は一蹴する。
「帰る気ないなら、どうしてローファー履いて落ちたんだ。落ちたときのことを考えていたんだろう。わざわざスニーカー置いておいたのも、あの機械を作ったのも、サークルで目立つ行動取ったのも、全部。追ってほしかったんだろ」
淡々と並べたら、影子はため息をついた。左手のリストバンドを見る。
「そこまで見破られているなら、私に言うことはないね。でも、死ぬかどうか賭けたのは本当。それと、私を知る人が、私のことを覚えていてくれるのか。それだけは渇望するほど知りたかった」
くるりと振り向いて、柵に手をかける。
「ありがとう、私がここにいることを、君の方法で表現してくれて。私はそれだけを望んでいた」
彼女の肩に力が入る。そのまま柵を乗り越えそうになるが、それを大きな声が制した。
「わたくしもですよ! 心配したんですから!」
影子の動きが止まり、下を覗きこむようにする。俺も柵に寄って、地上を見つめた。そこには一人の女性が立っている。
「……智香……」
野原からこちらを見上げる、端島刑事。一応連絡はしておいたけれど、間に合うとは思わなかった。
「もう一度落ちる気なら、今度はわたくしが受け止めます!」
そういって両腕を広げる刑事は、本当に毅然としていた。
俺は影子の肩に手を載せる。
「そういうことだ。今度は俺も、止められる。お前が悩んでいるなら、聴くことができる。人間みんなの悩みだろ、死んでも何か残せたか、ってのは」
そして、その答えはおぼろげながら、俺と影子の前にある。
少なくとも、俺がここまでこれたのは、彼女の足跡があったからだ。
「……ずるい」
影子の泣き笑いの表情は初めて見たかもしれない。俺はそっと、その身体を自分の元に引き寄せる。
この展望台に初めてきたときと同じように、そこには彼女の体温がある。彼女の存在がある。
それだけのことを理解するのに、ずっと考え続けるのだろう。
俺の損失補填は終わった。そしておそらく彼女が何かを補填するのは、これから始まる。
それに付き合うのは、悪くないことだと、心から思えた。
おわり
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