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私の存在証明INDEX - 第一部 彼女が落ちるように消えて / 第二部 追憶とヒント / 第三部 未来

私の存在証明 第一部 彼女が落ちるように消えて


 私の存在証明

   第一部  彼女が落ちるように消えて

       1

 君が落ちていく様子さえ、綺麗だと思ったんだ。

 それはいつもの枯れた秋の日。二限目となる物理基礎の講義にもその空気が入り込み、ふと落ち葉の匂いにつられた俺が窓の外を見た、その瞬間。
 窓の上方から、落ちてくる。
 スローモーション。
 『何か』は鋭い双眸を持ち、かすかに俺と視線を交差する。そこから時は進み、重力が『何か』の全身を晒しはじめる。
 藍色のパーカー、七分丈のジーンズ、傷ついたスニーカー。まるで窓にその全身を見せ付けるように、そしてその『何か』が一体なんであるかを人に理解させるかのように、スローモーションは続く。
 通常再生。
 靴が見えなくなったところで、講義室の喧騒が戻ってくる。
 一秒後に大きな音が外で響く。まるでなにかが、地面に落ちたような、そんな胸騒ぎのするサウンド。
 『何か』。俺には心当たりがある。
 あの視線、その持ち主を知っている。あの服装に心当たりがある。
 それは人間。
 彼女は、日野井影子《ひのいかげこ》。
「うそ、だろ」
 彼女が、落ちていった。
 まさか。
 疑惑と確信がせめぎあい、思考を止める。秋の臭いが鼻をつき、俺の顔をしかめさせる。
 周りの生徒も騒ぎ出すが、俺は動けない。
 窓に取り付いて彼女の変わり果てた姿を見る気力なんて、どこにも残されていなかった。
 彼女が落ちていった。
 何度聞かれても、そうとしか言えない。

       2

「だから、もう話すことは話したって」
 俺はドアを力を込めて閉め、部屋に閉じこもる。
 扉の向こうにいる警察官も諦めたのだろう、去っていく足音がする。俺はそれを聞き終えてから、再び布団へともぐりこんだ。
 半開きになったカーテンから眩しげな昼の光が入り込んできたが、何もする気が起きない。
 こんな時、彼女、影子がいたらどうだったかと、昔の記憶を引っ張り出す。いつもの傍若無人さを振り回し部屋の中で朝から俺に講釈していたに違いない。今となってはもう、得られない経験だ。
 喪失感というのは体の中に穴が開くようなものだと聞いたことがあるが、俺が感じているのはそれと異なっている。車のボディは揃っているのにエンジンだけがないような感覚。その場所を他の物で埋めて誤魔化すことはできても、いつまで経とうが自分自身で動き出すことはできない。
 考えれば考えるほど、影子がいなくなった事は自分の中で大きすぎたのだと思う。
 どれだけ考えても、彼女はいないのに。
 起き上がって、服を着た。九月に入り、気温が下がり始めているからコートが必要になる。
 今日も今日とて、やろうと思っていることがあるのだ。言ってしまえば喪失補填作業のひとつ。
 鏡を見て、自分のやつれた顔を見つめた。
 喪失補填。
 そんな言葉が、頭からずっと離れない。いつだってそうだ。人というのは、どうあっても、喪失を埋めるためにしか動けない。だからこそ、埋まることがもうないと知って、その痛みに涙する。
 彼女がいなくなってから涙を流していない自分は、重要な事実をまだ実感できていないのだろう。
 『まだ』なんて言葉、使うのも嫌だが。

 影子のアパートは、ビル街の日の当たらない場所にあった。
 スーツ姿の社会人で埋まる歩道を進み、左へ曲がる。横の古びたベージュ色のビルから話し声が響いてくる。ほんの少し奥まったところに、その薄茶色の建物があった。
 彼女は常々、このアパートの湿気と暗がりに対し苦言を呈していて、それはビル街による日照権侵害によるものだが、家賃の安さから契約を解除するということはなかった。昔から頻繁に俺の部屋に訪れるのもその辺りが理由だったらしい。
 ここまで来たのはいいけれど、彼女の部屋が何号室だったか覚えていない。なにせ俺の側から尋ねたことなど数度しかなく、飲み会で酔いつぶれた俺が彼女に介抱される時に連れてきてもらったくらい。
 アパートを見上げる。二階建ての計十二部屋。全体的に薄暗く湿り気が強い。
 大家に訊くか。
 怪しまれるかもしれない。でもとっくに警察の調査は終わっているのだろうし、部屋の主に何かあったであろうことは既知のはず。もしかしたら部屋に上げてもらえるかもしれない。
 空き部屋の広告が所狭しと貼ってある端の扉には『管理人』とある。近づくと、突然扉が開いた。
 出てきたのは若いスーツ姿の女性。サイドテールというのか、長く焦げ茶色の髪を頭の右側に束ねている。全身がどうにもアンバランスで妙に目を引く。
「どうもお話ありがとうございました。お忙しいところすみません」
 澄んだ丁寧な声を上げ、部屋の中に向かって礼している。扉を閉めようとした辺りで目が合った。
 柔らかそうなその女性の瞳。こちらを向き、驚いたような表情の後、じっと見つめられる。どこか観察されるような様子。
 この人が大家、というわけではないだろう。どちらかといえば俺と同じ訪問者に違いない。俺は前へ踏み出す。
「すいません、俺、大家に用があって」
 見定められる双眸が驚きに変化する。
「あら……そうですか、すみません」その女性は一歩引く。が、目は離さない。「もしかして……」
「なにか」
 そのスーツ姿の女性は、こめかみに人差し指を当てる。首を傾げながらもきっぱりと告げてくる。
「あなた、日野井影子の知り合いではありませんか」
 突然言い当てられ、今度驚くのは俺のほうだった。

 丁寧な子、というのが第一印象。
「名乗りもせず申し訳ありませんでした。わたくし端島智香《はしじまともか》と申します。好奇心が強いもので、いつも礼儀を忘れてしまいまして」
 改めて見ると、かなり目鼻立ちの整った目立つ感じの女性だった。今はスーツの上にコートを羽織っている。
「立ち話もなんですから」
 連れて行かれたのは近くのコーヒーショップ。適当な飲み物を頼んで、窓際のカウンターに座る。
 彼女が胸元から取り出したのは厚めの黒手帳。紐がついていて、服へと繋がっている。
「あまりこういうのを大っぴらに見せると騒ぎになることが多いので、こっそり出すことにしています」
 黒塗りの手帳は、見たことがあった。テーブルに載った上開きのそれをゆっくり開く。
『巡査 Police Officer 端島智香 Hashijima Tomoka』
 上側にはそうあった。下側には金色の記章。まぎれもない警察手帳だ。
 もう一度その女性を見る。
「……警察?」
「はい。一般的には刑事と呼ばれる身分ですね」
 苦笑いする彼女をみても、とてもそうとは思えないのは、その飄々とした立ち振る舞いと若さによるものだろうか。
 とにかく、警察。あまり俺は、いい印象はない。
 俺の顔に気づいたのか、慌てるように付け加える。
「まず、これが事情聴取ではないことをご理解ください。おそらくあなたにも捜査員が何度か聞き込みにいったと思いますし、その資料はわたくしの方にも来ております。さらに付け加えるなら、わたくしはその捜査グループには加わっておらず、内密で個人的事情によって動いています」
 ポケットからメモ帳を取り出す。
「ぜひ、あなたのほうからお話をお伺いしたい、そう思いまして」
「ちょっと待ってくれ。俺のことは知っているのか」
「はい。芹川錬一《せりかわれんいち》さんですよね。同じ大学の。日野井影子の交友関係は資料からある程度把握しておりますし、その捜査過程はしっかり頭に入れています。あの子と近かったアパート大家や大学の知人、そしてあなた。今現在どんなものでもいいので情報が欲しいのですが……ご存知の通り、捜査が行き詰っている状態になりましたから」
 知っているのか。警察手帳を持っている時点で疑いなどなかったが、本当に捜査はしているらしい。
 確かに、影子と親しい友人として俺は何度も警察から事情聴取を受けた。ところが警察は捜査をあまり進めている様子はなく、俺に対しても苛立ちの感情しか与えなかった。今日の朝、改めてアパートに捜査官たちが来たのも、そういう『新たな情報』が欲しいという本心が彼らにあったのだろう。
  ――だから、話すことはもう話したって。
 断りの言葉に、『俺だって彼女の行方を知りたいに決まってる』という心情を込めたつもりだったが、あの捜査官たちが理解してくれたかは疑わしい。こちらとしてはきっちり協力したのに、捜査過程など当然教えてはくれない。
 俺はコーヒーを口に含む。
「それで、どうしてそちらさんは一人で捜査を?」
 俺が目の前の女性を疑わしいと思ったのはそこだ。大抵彼らは二人で聞き込みに来たし、大学でも何度か会った。それらの捜査官の中で、少なくともこんな女性を目撃したことはない。
 と、そこで初めてその刑事は目を伏せた。
「……個人的事情です」
「あんたら警察は、個人の事情で勝手に動けるのか? 規則に反するだろう」
「ええ……それでも、捜査しなければいけないんです。あの子のために」
 こちらを見据えて、刑事、端島智子は。
 はっきりと、言った。
「あの子が自殺するなんて有り得ない。それは、わたくしがはっきりと知っています。おそらく、芹川さん、あなたもそうでしょう。日野井影子の近くにいたのなら、それを知っているはずです」
 窓の外を、風が通り過ぎる。丸い落ち葉が二枚、すれ違う。
 俺はそこで初めて、目の前の刑事の内情に意識がいった。
「……もしかして」
「ええ。日野井影子は、わたくしの友人です」

     3

 店を出て、外を歩く。横の端島刑事が俺のほうを向いた。
「……わたくしが信用できないと? 警察手帳をもう一度お見せしましょうか。何なら照会してくださっても」
「そういうことじゃない」俺は訂正する。「あんたが警察というのは分かった。それでも個人的理由で捜査できているのはどうにも不明瞭だし、影子と知り合いというのも疑わしい。それに、俺はこの一件で警察自体が信用できなくてね。何度疑われたか」
 それに警察がこの一件を自殺で終わらせたがっているならなおさら、彼らに頼ってもなんの利益もない。
 端島刑事のいうことが本当だろうというのは心のどこかで分かっている。それでも、出会って数分の人に付き合って自分の時間を削っていられるほど、俺には余裕がない。
 影子がいなくなったことすら、まだ認識できていないというのに。
 端島刑事は顎を引く。サイドテールが同調するように揺れる。
「心中お察しいたします。それでは、こういうのはいかがでしょう。一時的共闘、互恵関係といった感じです。わたくしの方から、差し支えない範囲で情報や協力をいたしましょう。芹川さんからこの件に関する証言を頂きたければそれでわたくしは構わないのですから、お互いに信用はなくても交換は成立します」
 つまり、交換条件か。こっちの情報を明かす代わりに、そっちの情報を寄越せ、と。
 これならそれほど損はないように思える。詳しいことまで教えてくれるかはわからないが、警察の捜査状況の概要くらいは聞きたい。それにこっちはそれほど話すことなどないから。
 それでも、足踏みする。
「あんたが影子の友人と言われても、俺にとっては確かめようがない」
「その点も問題ないでしょう。あくまでこれは信用関係を外した取引です。わたくしとしては色々な協力が可能ですよ。例えば芹川さんが日野井影子のアパートを訪れる際、特別に部屋に入る仲介をわたくしの方で行ったり。本来は捜査上問題がありますが」
 思わず刑事の顔を見つめる。
「……俺の目的もお見通しか」
「被害者の関係者が現場を訪れるのはとても多いですから。仕事上何度も見ています。とにかく、そういった一見グレーな協力も可能ですよ」
 ふむ。そう言われれば気が進む。アパートに来てはみたものの、部外者では大家との交渉が面倒だとは思っていた。
 別に、彼女のアパートに行ってなにをするか、ということなど考えていない。手がかりも行き先もあるわけがないだろう。それでも、彼女がいなくなったことを実感できない以上、こういったことで埋めるしかないのだ。
「分かった。協力する。あくまで取引の範囲で」
「その範囲で充分です。わたくしとしては芹川さんに関係者聴取の範囲でお話を聞くだけですから」振り仰ぎ、先ほども通ったビルへの隙間へと進む。「それではまず、あの子のアパートへ向かいましょう。わたくしも先程はアパート管理者への聴取だけでしたから、部屋には入っていないのです」
 俺は頭を掻き、端島刑事に追いつこうとする。
「……部屋になにか、あると思うか」
「手がかりは十中八九ないでしょう」彼女は即答した。「捜査グループの資料にも特記事項はありませんでした。それでも、わたくしたちには『日野井影子がただ自殺するような人間ではない』という確信がありますから、少しは見る目も変わるでしょう。現在の状況なら僅かな手がかりでも重要ですから」
 どこか自信ありげに闊歩する彼女を見ると、かすかに安心する。信用し始めているのを自覚する。
 なにしろ、刑事のあの言葉が大きい。
 ――日野井影子がただ自殺するような人間ではない。
 それは俺が、影子がいなくなってから、ずっと考え続けていることだから。
 影子がいなくなるはずなんて、絶対にない。

 部屋の鍵を大家に開けてもらい、俺と端島刑事は影子の部屋へと入った。
 刑事から白手袋を渡される。
「捜査は事実上終了状態ですが、一応指紋を付けないようにお願いします。靴下であれば足のほうはまあ、大丈夫でしょう」
「別に俺も過去この部屋にきたことがあるぞ。影子が消える前」
「それでも念のため、です。もし承諾できないようでしたら外で待っていて頂きますが」
 追い出されてはたまらない。素直に手袋をつける。つまり部屋の状態を保っておけ、ということだろう。
 慎重に踏み出す彼女を追いながら、気になったことを訊いてみる。
「そういえば、あんたは俺をすぐに信用したな。話が早くて助かったが、信用に理由はあったのか」
 振り返って苦笑される。
「実はこの後、芹川さんのアパートにも訪れるつもりだったのです。話が早くて助かったのはわたくしの方でした。こうして捜査協力を得るのも想定の範囲内です」玄関入ってすぐ、小さなキッチンを見渡す彼女。「あなたは最初の捜査で怪しい人物からは外されています。彼女が落ちたのを目撃した数少ない人ですし、その時あなたが講義室にいたことも裏が取られていますから。協力したい人物の条件である、日野井影子と近く怪しくない人物の第一位が芹沢さん、あなたです」
 それはそれは。警察のほうにも信用はされていたらしい。とりあえず安心した。なにせ事情聴取の回数が多かったから、自分が潔白だと知っていても不安になっていたところだったから。それはただ、影子と親しい人間だったというだけの話らしい。
 刑事を追い、部屋へと入る。
 影子の部屋は普通の1K。玄関に靴はなく、端にスリッパ立てがある。狭い台所、そこを真っ直ぐ進むと六畳のフローリング。横の扉からは狭いユニットバス。ベランダはなく、せり出した柵のみ。
 家賃は月三万円ちょっとだと聞いていたから、こんなものだろう。俺の部屋のほうがもう少し広く日当たりもいいから、影子が俺のほうによく来たがったのはその辺りに理由があるのかもしれない。
 台所にもユニットバスにも見るべきところは特にない。
 扉を開け、二人で部屋に入った。
「相変わらず、片付いてるな」
 とても六畳とは思えないほど、スペースを有効に使った家具配置。ベッドやガラステーブル、パソコン机はシンプルなデザインと単色で統一されている。カラーボックスには大学の教科書と文庫本が並んでいる。
「カーテンが閉まっていますね」
 端島刑事はそう言って窓へと進み、開ける。少し明るくはなったが、相変わらずビル街で遮られた日光は部屋へと入ってこない。
「ところで、羨ましいです。芹川さん」
「なにが」
「日野井影子の部屋に何度も訪れているようですので。仕事柄わたくしは多忙ですし、最近はあの子と会うのも外が基本でした。このアパートにも一度しか来たことがないんです」
 そう言われても。ただの雑談と思い、聞き流す。
 それでも、一つ分かった。俺とこの刑事の間にあるぎこちなさの正体。影子は交友関係が広いほうではないから、『影子と自分以上に仲の良い人間がいない』とお互いに思っていた、ただそれだけのことだろう。こうしてそんな二人が導かれたのがこのアパートの前とは皮肉ですらある。
 一通り見回し机の前で立ち止まった。俺が最も気になる所。
 いつもは整然としていたはずの机の上が、今は数々の電子部品と工具でごった返していた。中央のガラステーブルにも電子工作本とパソコン製作入門、それとプログラミングのリファレンスブックが置いてある。
 そしてその机の中央に、一台の黒い機械が鎮座していた。
 昔の一体型パソコンを思い起こさせる。丸みを帯びた黒塗り立方体。前面にはモニタ、手元には外付けのキーボード。
「自作パソコン?」
「そうみたいですが、妙ですね」
 子の部屋には既に、デスクトップパソコンが端のラックに鎮座している。わざわざこんな古い機体を改造した物などなにに使うのだろう。分解して部品を別のものに使うならまだ分かりそうなものだが。
 刑事が俺に訊く。
「あの子、機械弄りの趣味なんてなかったですよね」
「ああ」
「どういう風の吹き回しでしょうか」
 影子は色々なことに興味を持つから、不思議であっても不自然とは言い切れない。それでもその黒いパソコンはこの部屋で異様ともいうべき存在感を放っていた。
「いつもと違ったことはないな。この機械以外は」
「わたくしもそう思います」
 二人でその機械を覗き込む。後ろの配線を追うと、コンセントにしっかりと接続されていた。手前にはスイッチもある。
「警察的には、これの電源を入れても問題ないのか」
「グレーですね。現在日野井影子の親類の方から捜索願は提出されていますし、ここへの捜査も間接的に許可は取れています。それでも令状がない以上は」
 話を聞かないうちに手を伸ばした。
「なら、俺が勝手にやったってことにしてくれ」
 スイッチを押す。
「結局やるのですか」横で刑事の軽い笑い声。「構いません。もしわたくし一人でもスイッチは押すつもりでした」
 端島刑事の個人的事情。いくら刑事としての立場だとしても、友人の行方不明とあってはなりふり構ってはいられないのだろう。手がかりとしてはここくらいしかないだろうから。そういう意味では俺の状況となんら変わらない。
 モニタに電気が通り、いくつかの英文とロード画面を表示する。キーボードのランプもついた。
 変なロゴが表示された後、画面がまた一面黒くなった。
「消えた?」
「いえ、ランプがついているようですし、これが画面表示のようです。最初の表示も普通のBIOSとOSでした」
 ふむ。おそらく俺より端島刑事のほうがこういったことに詳しい。任せようとも思ったが、なにか新たに表示されてそちらに目がいく。
 黒字の画面に白い文字列。

 『質問をどうぞ。わたしに関することだけ』

 その下ではカーソルの縦棒が点滅している。入力しろ、ということだろうか。
 なんだこれ。
「……なんだかこういうの、テレビで見たことがあるな」
「分かります。どんな疑問でも答えてくれる機械、というのはいくつか」
「なら、影子はこれを作っていたのか」
「そういうことになりますね。質問ロボットというか、人工無能というか。OSがそのままということはプログラミングしたのでしょう。黒箱も既存のパソコンを板で囲っただけかもしれません」
 影子にこんな趣味は無かったはずだが。
 俺はキーボードを撫でる。
「質問しろ、ということか」
「でしょうね。キーボードを押した途端、データ消去や爆発でもしなければいいのですが」
 ろくでもない。とりあえずスイッチの切り方も分からないし、ただの遊びの可能性もある。
 慣れない手で文字を打つ。

『日野井影子はどこにいる?』

 決定を押す前に端島刑事の顔を見る。
「直球ですね」
「俺の一番知りたいことだ」
「たしかに、あの子が作ったものですから答えてくれるかもしれません」
 エンターキーを押す。
 数秒読み込み音がした後、カーソルより下のところに文章が表示された。

『※質問は、わたしに関することだけ※』

 思わず顔を見合わせる。
「エラー、ということでしょうか。『わたし』に関する質問でないと受け付けない、と」
「……どういうことだ? わたしってのは影子のことだろう。それとも、『わたし』イコール日野井影子じゃない、ってことか。『わたし』はこのコンピュータ自身」
 大本の仕組みが分からないから、適した質問が思い浮かばない。せめてどんな質問なら答えてくれるのか。
 少し考えて、またキーボードを叩く。

『あなたはだれだ?』

 すぐに表示。

『わたしは、日野井影子』

「お、答えた」
「これによると、この機械は日野井影子ということになりますね」
 いくらなんでもこのパソコンが影子の自我とかそういうことはないだろうけれど、影子が作ったのは事実のようだ。
 刑事が腕を組み、こめかみに人差し指を当てる。
「おそらく最初の回答はエラー文でしょう。該当しない質問だと弾かれるということです。それほど難しいプログラムではないのかもしれません」
 そういって場所を代わり、彼女は細い指でキーボードをさわる。いくつか質問を打った。

『1+1は?』
『※質問は、わたしに関することだけ※』

『あなたは1+1が分かる?』
『1+1が分かるかどうかはわたしの仕事ではない』

『あなたの仕事は?』
『わたしの仕事は、ここにいること』

『あなたはどんな質問にも答えられる?』
『どんな質問にも答えられるかどうかはわたしの仕事ではない』

『あなたは日野井影子のことを知っている?』
『日野井影子はわたし』

 打ち終わるとまた同じ仕草をする。考える時の癖らしい。
「……まず、『あなた』というワードが入っているかどうかで質問を大別しているようです。入っていない場合は質問を弾く。その後、質問中に該当する単語があれば、適した回答を返し、複雑な質問の時は、質問文の後に『〜どうかはわたしの仕事ではない』をくっつけて返す。ある特定の質問にはピンポイントに反応する。こんなところでしょうか。単純で分かりやすいプログラムです」
「すごいな。そこまでわかるのか」
 素直に感心した。この刑事、かなりこういう話に詳しいらしい。
 つまり、『あなた』と入っているのが最低条件。その後、いくつかのワードには分けて反応し、重要な質問にはきっちり回答する、こんなことだろうか。
 簡単に言えば質問回答プログラム。単なる趣味にも見える。大学の課題でこういうのはなかったはずだから、影子個人で作ったはず。
 なにか重要な情報が入っていても、不思議ではない。
 ふと思いついて、言ってみる。
「つまりあれか。適した質問があれば、こいつがちゃんと答えてくれるってことか」
「ええ。いくつかの質問にピンポイントで反応しているところから、プログラムしたあの子がそういった『反応すべき質問』を予想しています。適した鍵だけ通す金庫のようなものです。なにかご存知ですか」
 全く思いつかない。この黒色機械が数学の複雑な証明や哲学思考問題に対する解答を答えてくれるわけもないだろうし。ましてや『わたし』に対する適した質問、となると心当たりなんてどこにもない。
 その後も交代でいくつか機械に質問をしてみたが、芳しい回答は得られなかった。さっきの端島刑事の分析は正しいようだが、その先の、機械から情報を得ることができない。単なるジョークグッズの可能性すらありそうだと思えてきた。
「鑑識にまわして機械の様子や中のプログラムを解析しても良いですが、わざわざ普通のパソコンではなくいろいろ改造してあるところを見ると、データ自動消去などのトラップが仕掛けられている可能性も否定できません。なにせこの捜査も非公式ですし、あとにしましょう」
 そう言って、いつになく鋭い目を部屋へ向ける。刑事というのはみんなこういう目つきなのだろうか。少なくとも聞き込みのときの捜査員はそうでもなかったが。
 端島刑事はテーブルのパソコン関連本に手を伸ばす。 
「気になるのは、これです」
「本が? 別に変なところもないが」
「本自体はその通りですが、あの子がこれらの本を持っているという事実自体が気になります。少なくともあの子にこういった趣味は見られなかった。なら、この資料と技術はどこから来たのか」
 本をひっくり返すと、下のほうにシールが貼ってあった。
 覗きこむと、見覚えがある。シールには影子や俺が通っている大学名と、図書館の管理番号が印字してある。
「うちの図書館から借りたのか」
「そうみたいですね。確認をしておきましょう。大学構内の映像は捜査員が押さえているはずですが。……さて、次です。あの子はこの本をどういう理由で借りたのでしょうか」
 再びいろいろ探し始める。その『理由』に近づくための手がかりは、本に挟まっていた。
 A4版プログラミング入門の中盤に差し込まれていたチラシ。
「大学のPCサークルの宣伝みたいですね」
 内容を聞いてもよく分からないが、入学の際に新入生向けに配布したものらしい。
 俺は顔をしかめる。
「影子はサークルなんて入る気ないって言ってたぞ」
「わざわざチラシを取っておくということは、何か関係しているのかもしれません」
 端島刑事は手持ちのデジカメで撮影を始めた。黒色パソコンや図書館シール、チラシ。手がかりとなるもの。
「これ以上ここにいてもどうにもならないでしょうし、そろそろ出ましょうか」
 思わず止める。
「もう少し、ちょっとだけ、いてもいいか」
「……少しだけですよ。これ以上は管理人に訝しがられますから。わたくしは外にいます」
 そういって玄関を出る端島刑事。
 影子の部屋で、俺は一人になった。
 窓を開けてみる。相変わらず湿っぽい空気のなかに、乾いた秋の匂いが微かに混じり、部屋へと流れ込む。
 損失補填。俺はそのために来たはずだった。いなくなった彼女の何かを、ここに探しに来た。そんなはずだったのに。俺がここで得たものは、たった一つの事実のみ。
 彼女は、ここにもいない。
 気づいたのはたったそれだけ。
 こうして、『ここに彼女がいない』という理解を地球上の全てで繰り返せば、やっと俺は真の意味で『彼女がいなくなったこと』を納得できるのだろうか。
 目頭に力が入る。窓を閉め、カーテンを元の位置に戻す。
 今度こそ駄々をこねることなく、俺は玄関へと向かった。

      4

 端島刑事と二人で歩きながら話す。
「芹川さん。あなたは、日野井影子の現状最後の姿を目撃しましたね」
「ああ」
「その時のことを話していただけませんか。捜査員に再三説明したところでしょうが、わたくしとしても今一度確認しておきたいのです」
 たしかにうんざりしているところではあるが、アパートのことで世話になったことだし、それくらいはしよう。
「別に話すほどのことはないけどさ。……あの日、俺は二階の講義室で物理基礎の授業を受けていた。十一時くらいか。窓の外を、人のようなものが落ちていった。僅かに確認できた顔と服装で、影子じゃないかと思ったんだが、すぐに立ち上がって見に行くなんてことはできなかった」
 目の前を人が落ちていったこと自体ショックだったし、それが影子なんて想像もしたくなかった。身体がすぐには動かない。
「お察しします」端島刑事はメモを取る。「他にも室内の数人が同じような回答をしています。すぐに下の様子を見ようとした人はいなかった、と」
「ああ。そのうち講義室も騒がしくなって授業が一旦停止し、何人かが窓に寄った。俺もこわごわと窓に行って下を見たが……」
「そこには、なにもなかったんですね」
 その通り。あるはずの彼女の身体はどこにもなく、そこにはいつもの低い木と通路が広がっていた。だだっ広いいつもの秋の景色。
 彼女が落ちたと思ったら、消えていた。
 その時間は授業だったからか、庭に他の生徒の姿もなかった。二階のその部屋にいた俺らしか影子を目撃しなかったことになる。
「あの子がいた痕跡は? 例えばその日の講義の出席状況とか」
「俺と影子は微妙に履修過程が違うんだ。確かその時間に影子は授業がなかったはず。その日大学にいること自体俺は知らなかった」
 頷いてメモを続ける端島刑事。おそらく影子の履修登録状況くらいはすでに調べているのだろう。
 逆に訊いてみる。
「たしか靴があったんじゃなかったか。捜査員が言っていた」
「はい。場所は講義棟屋上、ちょうど芹川さん方が授業をしていた部屋の真上あたりにになりますね。屋上柵の前で、丁寧に揃えてあるスニーカーが発見されました。指紋からもあの子のものと確認されています」
 その様子を想像して、身体が総毛だつ。風が吹く屋上、靴を脱いで柵の向こうに立つ影子、そして一歩踏み出し、数秒後には講義室の窓を通過、下へと落ちていく。
 そこまでなら、自殺だ。ほぼ間違いなく。
 でも、地面に彼女の身体はなかった。
 俺と刑事はそこで黙ったまま、歩き続ける。ビル街が終わり、寂れた商店街に変わる。近代的なデザインのバス停にさしかかり、ベンチに端島刑事は座った。
「すみません、少し頭の中で整理します」
 そうしてコートのポケットから取り出したのは、なんとチョコボールの箱。左手にそのお菓子を数粒取り出し、口に入れている。どことなくシュールだ。
 俺の視線に気がついたのか、刑事は弁明のような口調でまくしたてた。
「甘いものは頭に必要です。そしてチョコボールは素晴らしい食べ物です。わたくしにとって欠かすことは許されません」
「ポケットから箱なんか取り出すから煙草かと思ったよ」
「同僚は吸いますが、わたくしは好みません」
 そうですか。
 俺も立っているのが面倒になり、距離をとってベンチに座る。横の刑事はメモを読んで口も動かし、左手はこめかみに当てている。考え込んでいるらしい。
 なんとなく思ったので、訊いてみる。
「あんたはこれから、大学に行くのか」
 吃驚した刑事の顔。
「ええ……今それを考えていた所ですが、どうして分かりましたか」
 そんなの自明すぎるだろう。
「影子の部屋で撮った写真。大学図書館を調べるっていったのはあんただ。それにいま俺の話を聞いて考え込み始めた。それはおそらく現場を見ようか迷っているからだ。なんといっても『手がかりを探しにきた』と言っていたし、現場検証は必須に決まっている。影子は今も行方不明なんだし、証拠なんてあとそこくらいしかないからな」
「なるほど素晴らしい推測です」
 素晴らしくなんてない。どことなく茶化されているような気もする。
 端島刑事はチョコボールをもう一粒唇で挟み、指で押し込んでそれを噛み砕いた。
「そうですね。もともとそのつもりではありました。捜査は既に終わっているようなものですし、こっそり行こうと思ってはいたのです。他の事項で忙しくいままで調べられませんでしたし」
 付け加えるように。
「手がかりは絶対に押さえます」
 その台詞には彼女の覚悟と使命を感じる。彼女と影子の関係は知らないが、浅い仲ではないらしい。
 そしてそれは、俺も同じ。
「なあ……その独自捜査、俺も参加させてもらえないか」
 刑事はこっちを向き、首を傾げた。俺は目を落とす。落ち葉が一枚、歩道で誰かに粉々にされるのを待っているようにじっとしている。
「俺さ、あれ以来行けていないんだ。あの講義棟に。どうしても、あの瞬間が蘇ってきそうで。影子が自分の元にいない以上、どこに行っても会える気がしなくなっていた。今日アパートに向かったのも、なにか、残ってないかとしがみつきたいだけだった」
 そうさ、この行為は損失補填だ。影子がいなくなったという事実をどうにか埋めたがっているだけだ。
 それで、なにが悪い。
 立ち上がって、端島刑事に頭を下げた。
「頼む。俺はまだ、影子が自殺のような行動を取ったことが信じられない。そこになにかあるなら、その理由を知りたい。彼女の、理由を」
「伝わりました」顔を上げると、刑事は微笑んでいる。「芹川さんがあの子を大事に思っていること。自殺に対して懐疑的であること。彼女がまだ生きているかもしれないのを信じていること。それらは本当です。あなたは真摯ですね」
 そう言うと彼女は立ち上がり、コートを翻す。
「行きましょう。非公式の捜索ですし何も問題はありません。先程の芹沢さんの洞察も刑事のような鋭さでしたし、わたくしとしてもぜひその頭脳と情報をお借りしたいところですので」
「……いいのか。邪魔になるかもしれないぞ」
「手がかりは絶対に押さえます。そのためなら協力も手数も惜しみません」
 すたすたと歩き出す彼女を見て、初めて希望が見えた気がした。事件以来、やっと分かってくれる、いわば同志が現れた。
 そうとも、調べてやるさ。まだ俺は、彼女にさよならを言っていない。

 大学は久しぶりだったが、何も変わっていない。
 赤色に染まる並木、灰色の講義棟、無関心を決め込む生徒同士。時間が止まっているような印象を入学した時から感じていたが、さらに際立っているようにすら思える。
 まずは図書館。といってもここは端島刑事の独壇場で、令状が必要な図書館への問い合わせはせず、周囲の人の事情聴取などをこなしていた。
 影子があれらの資料を借りたのは一ヶ月前。一人で沢山の書物を抱えていたらしい。
 どういう心境の変化か。その間も俺は会っていたはずだが、特に変わったことはなかった。
「次に行きましょう」
 続けてどこに向かうのかと思ったら、中庭だった。
 影子が消えた場所。
 といってもそこに変わったものはない。もし普通の自殺だったら、現場は死体が片付けられロープが張られるのだろうが、そうではない。死体の存在どころか、自殺かどうかすらだれも証明できない。
 中庭には所々に樹木があって、その間を通路が網目のように走り他の研究棟や購買部などへ行けるようになっている。講義棟の壁に沿って植えられているのはツツジ。秋らしく朱色の花を咲かせていた。
 あまりに変化のないその場を見ると、つい不安になる。落ちていった影子は幻だったんじゃないか。屋上の靴はただの忘れ物で、今いないのはどこかに旅にでも出ているだけ。いつもの飄々とした顔でそのうち帰ってくる。何事もなかったかのように。
「芹川さん、大丈夫ですか」眉間にしわを寄せた端島刑事に尋ねられる。「もし具合が悪くなったようでしたらすぐに言ってください」
「……ああ」
 生返事のまま、おそらく影子が落ちたとしたらここだろうという地点まで歩く。足を止め、目線をそのまま上げると二階講義室の窓、そして三階の上には屋上の金網が僅かに見えた。
 屋上から落ち、窓に映って、そのまま地上に。本当はここに、影子の身体が横たわっているはずだった。
 横に立って見上げる端島刑事が、控えめに言う。
「わたくしの考えを申し上げてもよろしいでしょうか」
 頷いてみせると、下に植わっているツツジの低い木をみながら話し始める。
「といっても簡単な論理です。確実な情報として『日野井影子は現在行方不明』『二階の窓で落ちる姿が目撃されている』『彼女の身体は地面のあるべきところになかった』というのがありますね。そこから推論するわけです。まず、落ちる姿を目撃している以上、彼女が上から落ちたことは確定でしょう。屋上のスニーカーもそれを示しています。そして、落ちたのに地面に身体が存在しないことに関して、この矛盾を解決する予測は二つあります」
「二つ?」
「まず一つ目。日野井影子は屋上から落ちたものの死ななかった。自力で移動できるほど怪我は軽く、すぐどこかへ移動した。……こうすれば二階の窓から誰かが地面を見たとしても彼女の姿が消えたように思うでしょう」
「そんなこと有り得るのか」
 疑う俺を制す端島刑事。
「これは論理的帰結であり、あくまで蓋然性は排除しています。そうですね、巡査風情のたわ言だと思ってお聞きください」
 つまり、現在の状況から矛盾のない可能性を導く、ということか。なら俺は口を挟まないほうがいいかもしれない。
「二つ目。地面にあった日野井影子の身体を、何者かがすぐさま移動した。……この場合でも状況は成立します。何者か、というのは当然分かりません。またこの場合、日野井影子の生死は問われません。死体でも元気な状態でも有り得ます」
「つまり、自分で移動したか、他人によって移動させられたかということか」
「その通りです。そしてこれらの推論に対し、いくつかの疑問点が浮かぶわけですね。一つ目への反論としては『高いところから落ちたのに自分で移動するのは可能なのか』『現在行方不明なのはどういうことか』。二つ目には『何者かが移動するなんてことは有り得るのか、そしてその理由は何か』『死体だった場合移動することはありえないのではないか』といったところでしょうか」
 口頭で言われると混乱してくるが、何を言いたいかは分かってきた。
 これは、単純な飛び降り自殺ではない。
 飛び降りることと死体が見つかることという二つの結果が本来は生まれるからだ。
 この事件は違う。飛び降りは短い目撃証言のみで、死体は存在しない。そんなイレギュラーな状況を解決するには、なにか特殊な要素を入れなければならない。
 端島刑事が今考えているのは、死体が見つからないことへの理由付けだ。
「一つ目の具体例としては『なんらかの理由で日野井影子は屋上から落ちたが助かって、そこからなんらかの理由で姿をくらました』。二つ目の具体例としては『何者かが日野井影子を突き落とし、地面の身体又は死体をすばやく回収した』。どちらの仮説にもおかしな点はありますが、現状の手がかりでは否定することもできません。これからわたくしたちは、この推論に手がかりを加え絞り込む必要があります」
 なるほど。
 端島刑事はそこで息をつき、苦笑する。
「どうもいけませんね。わたくしは一つ目の推論がどうしても有り得ないと感じてしまいます。彼女は自殺するわけがない。……でもそれは、あの子の性格から引っ張り出したただの予想です。一時の感情は捨てるべきなのにそれができないのは刑事失格ですね」
「友達なんだろ。そりゃあ情も絡むに決まってる。俺だって同じだ」
「そうですね、でも……」球体のように伸びるツツジの枝を見ながら、刑事は呟く。「この現場を見て思ったのですが、自殺するには微妙な場所だと思いませんか」
 微妙? 初めは何を言っているのかわからなかった。
「この講義棟は三階建てです。大学にはもっと高い建物はいくらでもあるようです。たとえ三階でも打ち所が悪ければ間違いなく死に至るでしょうが、このツツジの木の上に落ちた場合、クッションとなって軽い怪我ですむかもしれません」
「本当に死ぬ気ならここでは足りない、と?」
「気を悪くしないようにお願いします。どちらかといえば『自殺するのにこんな場所は選ばないのではないか?』ということです。ここから落ちて死ぬほど、あの子は大学や高い所に思い入れを持っていたのでしょうか。もしくは自死を選ぶほどの理由があったのでしょうか」
 ややそれは誘導尋問のようにも聞こえる。影子が死にたかったどうかなど、彼女しか知らない。それでも刑事の言うことの理解はできる。この場所が自殺するには低すぎ、障害物が多いという事実。それは推論を絞り込むうえで大きいということだ。
 突如閃く。
 ……ああ、そうか。
 俺は端島刑事のほうを見つめる。
「もしかしてあんたが俺と接触したのは、仮説の選択肢を減らすためか」
「……わたくし、どこかで言いましたか」
「いや。でも分かった。推論を絞り込むってのはさっきあんたが言ったことだ。ならその推論は最大限広く取らなければいけない。でもさっきの考えでは一つ抜けていた。『本当は日野井影子が飛び降りることなどなかった』。この仮説は論外だと思って飛ばしたのかとも思ったが、それは違う。あんたはこの仮説その三を真っ先に思いつき、それの真偽を確かめるために俺に接触したってことだ。複数の目撃証言に矛盾がないか確かめるために」
 間抜けに口を開けたままの端島刑事。意外と表情の変化が激しいらしい。
「捜査官に抜擢したいほどの洞察力ですね」
 それほどでも。
 驚愕を隠すように咳払いをした刑事が付け加える。
「そこまで伝わるとは思いもしませんでした。別に隠すつもりもなかったのですが、『日野井影子が本当に飛び降りたのか』は重要なポイントでしたので、しっかり事情聴取で確かめる必要があったのです。例えば講義室での目撃者が全員グルで口裏を合わせていた、という可能性もなくはないわけですから」
「で、疑いは晴れたのか」
「疑ってなどおりません。嘘をついてメリットがなさそうな芹川さんが矛盾のない証言をしてくださっただけで十分です」
 ならいいのだが。ただでさえ捜査官の事情聴取が多かったし。
 つまり端島刑事の捜査行動はいつも一貫していたということだ。私情が絡むのに感情に流されず手法を変えないでいられるというのは素直にすごい。それともこれらは刑事の仕事病かなにかなのだろうか。
「じゃあ、これからどうする。推論を絞り込むって言っても、これ以上手がかりはなさそうだぞ。屋上でも行くのか」
「いえ、屋上の靴などはすでに回収され調査も終わっているはずです。むしろわたくしは、これのほうに興味があります」
 そういって取り出したのはアパートで用いていたデジカメ。写真を表示する。
 PCサークルのチラシ。
「あの子が一人で図書館から資料を借り、あのプログラムを作ったとしても納得はできますが、このチラシが本に挟まっていたことは不自然です。もしかしたらこのPCサークルと接触していたのかもしれません。それも最近」
「そんなこと影子はまったく言ってなかった」
「ええ。むしろそれこそが、怪しいと思いませんか。あの子は別に自分自身の行動を隠したがるような性格ではなかった。なにかあるかもしれません」
 そういって歩き出す。慌てて後を追った。

 俺もサークル活動に興味はなかったから、敷地のどこにサークル棟があるのかも分からなかった。
「ここでいいのか」
「そうらしいですね」
 敷地の南西端、老朽化が進む木造の二階建。明治時代の小学校校舎を彷彿とさせる。
 一室のプレートに『プログラミング同好会』とある。チラシのタイトルと同じ。
 ここにたどり着くまでも紆余曲折があった。大学事務局に行ってもサークルに対応する職員はおらず、連絡先となる同好会部長とは連絡が取れなかった。さすがにそれらは警察の看板を振りかざしてもどうにもならず、こうして足で探し当てたのだ。
「やってるんだろうか。知人の文化サークルは週一とか聞いたが」
「人はいるみたいですよ」
 耳をそばだてると確かに物音がする。キーボードタイピングの心地いいリズム。
 端島刑事はチョコボールをもう一粒食べてから、ノックして部室へと入る。
 広さは四畳半くらい。四方の壁に沿ってテーブルがあり、パソコンがいくつも載せられている。カウンター席のみのネットカフェにしかみえない。部屋の中央には細いパイプテーブル。
 そして左端のほう、一人女の子が丸椅子に座っていた。
「……なにか」
 気だるげ。その一言で集約されるほど、おとなしそうな見た目。肩の後ろまで伸びる髪が小さな顔を覆い、湿気の多そうな瞳をこちらに向けている。丸椅子と一体化でもしているような小柄さと対比するように大きなドーナツ型の髪留めが目立った。
 端島刑事が一歩進み出る。
「失礼、わたくし端島智香と申します。プログラミング同好会の部長さんはいらっしゃいますか」
 気の抜けたその女の子の目が胡散臭いものを見るように変化した。
「……部長はいま、いません。何か用ですか」
「ある人物について情報を集めています。わたくしこういうものでして」
 印籠のように手帳を取り出す刑事。
「警察? もしかして、事件について、とか」
「ご存知でした?」
「ご存知も何も……」女の子は立ち上がる。「部長がいなくなったことについてですよね」
 はい?
 どこか話がすれ違っている気がする。端島刑事もそう思ったらしく、訊きなおした。
「なにかあったのですか」
「だから、行方不明なんです。塩月部長。連絡つかなくて、なにか事件にでも遭ったんじゃないかって」
 眉を寄せる女の子を前に、俺たちは顔を見合わせた。


 小柄な女の子は説明をはじめた。
「わたし、尾山《おやま》って言います。ここの部員です。たまにしか来ませんけど」
「行方不明って……」
「困ってるんですよね、急にいなくなったんで。副部長も役に立たないし、わたしが部活の連絡役させられて。塩月部長はいい人ですから、急にいなくなるなんて思い当たらないです」
 プログラミングサークル部長の名は塩月瞳《しおつきひとみ》。一週間以上前から行方不明。連絡がつかず、捜索願も出されている。
 サークルに連絡がつかなかったのは、そういったごたごたがあったかららしい。
 俺が女の子から話を聞いていると、一度部室の外に出ていた端島刑事が戻ってきた。手には携帯電話。
「失礼します、照会してきました。確かにプログラミングサークル責任者、塩月瞳の捜索願は提出されているようです。なにやら事件性があるようで捜査が始まっているとのことでした」
「事件性?」
「ここ十日ほどで行方不明者が数人。いずれもこの市内の住民。それ以外は理由も共通点も見当たらず、病院や交通機関にも報告なし、だそうです」
 そんなことがあったのか。ニュースにはなっていないようだし知らなかった。
 少しばかりいやな予感がする。さっきの話に繋がる、悪趣味な仮説。
 部員の女の子を残したまま一旦建物の外に出て、端島刑事と話をすることにした。
 風がうるさく、刑事の髪が揺れている。
「どう思います」
「どうって……」俺は頭をかいた。「つまり仮説その2の方か」
「ええ。日野井影子がいなくなったというのも、行方不明事件と言い換えることができます。連続行方不明事件が人為的なものかどうかは調査中とのことですが、もし人為的なもの、つまり拐取だとすれば、これらの事件は繋がります」
 十日前から続く連続行方不明事件。
 一週間前の日野井影子飛び降り、そして失踪事件。
 共通性は十分に見出せる。
 さっきの端島刑事仮説その二『飛び降りた日野井影子の身体を何者かが運び去った』。その何者かは見当もつかないが、例えば街の人を手当たり次第に拉致しているとか、そういうことであれば影子の行方不明にも理由がつく。まったく縁起でもないが。
「連続行方不明事件については別に捜査が進んでいるようですし、任せようと思います。とりあえず本来の目的である日野井影子とプログラミングサークルの関連を調べましょう」
「警察の一員として手伝ったりしなくていいのか」
「今日、わたくし本当は非番なんです」苦笑する刑事。「ですから実は手帳を出すのもご法度です。内密にお願いしますね」
「本当かよ」
 職権乱用に限りなく近い。まともな捜査の範囲だけましなところか。
 関連情報として連続行方不明事件の詳しい内容を聞きたいところだったが、まだ捜査はあまり進んでいないとのこと。とりあえず俺らは影子の方の謎に取り組むべきだろう。
 打ち合わせを終え、二人でサークル部室に戻る。部員の女の子は律儀に座っていた。
 細テーブルの向かいに座り、端島刑事が切り出す。
「塩月瞳さんの行方については現在捜査官が懸命に追っていますので安心してください。わたくしたちがここに来たのは別件になるのです。この人物をご存知でしょうか」
 デジカメを取り出し、画像を表示してからその子に渡す。
 おそらく影子の写真だ。人を探す上でそういうのを準備しておくのは当然のことなのかもしれない、そう思って俺は心の中で反省する。
 サークル部員、尾山と言ったか、その子は数秒目を凝らしてから頷く。
「この人、前に来たことあります」
「このサークルに、ということですね。本当ですか」 
「嘘つく理由もないんで。たしか日野井ちゃんっていう名前でしたね」
 こともなげに言う尾山部員を前に、刑事が素早くメモ帳を取り出す。
「その時のこと、詳しくお聞かせ願いますか」
「そのときっていうか……体験入学らしいですよ。一か月ちょっと前だったかな。もとは塩月部長が連れてきたんです。面白い子だとは思いましたけど、それ以降もたまに顔を出すくらいで、プログラミングに関して分からないことを聞きに来た、ってところだと思います」
 いったん首をかしげてから刑事が質問を続ける。
「根本的な質問になりますが、このサークルの目的をお聞かせ願いますか」
「文化サークルなんで、とくに目的とかないんです。たまにこの部屋に来ていろんなものをプログラミング技術で作る集まりってところですね。わたしなんかはこうやって、『感情』を疑似的に表現させるプログラムを作っています」
「そしてそういうことを行っているサークルに、日野井影子が来た、と。彼女の様子はどうでしたか」
「どうって……普通でしたよ。でもなんていうか、サークルへの関心よりもやってることへの興味、って感じがしましたね。わたしのプログラムとかにすごく食いついてました」
「彼女はどれくらいの頻度でここに来ましたか、そして最後に現れたのはいつですか」
「えー、覚えてないなあ。せいぜい週一のペースで五回くらいかな。最後に来たのは一週間ちょっと前」
 つまり飛び降りの前までか。消えた後の目撃情報が手に入るかと思って期待したがさすがにそういうことはないらしい。
 影子が先月からプログラミングに興味を持ち、関連サークルに体験入学して、大学図書館で資料を借り、あの黒箱機械を作成した。
 ただの趣味とすれば矛盾はないように思える。
 でも。
 影子が、誰にも言わずこんなことをする理由として『趣味』なんてものはどうも合わない。俺の知っている影子はもっと目的主義というか、なにかの結果に向かって走っているイメージがあるからだ。
 知らない行動が明らかになっただけで、振り出しに戻った気さえしてくる。
 だが端島刑事はここで終わる気はないようだった。
「すみません、尾山さん。一応あなたのプログラムを見せていただけませんか。彼女が興味を持ったものを一通り調べておきたいのです」
「感情プログラム? いいですけど……大したものじゃないですよ」
 そういうと右端のPCに移動し、スクリーンセーバーを外す。
 端島刑事と俺が覗き込む中、尾山部員はデスクトップのファイルを開いた。
 ウインドウの中は真っ黒で、徐々に英語の意味不明な文が流れるように表示されていく。
 止まったと思ったら、一番下には日本語。

『こんにちは! お話ししよう』

 その下ではカーソルが点滅し、なんらかの入力を待っている。
 尾山部員が説明をする。
「まだソフトのようにきれいな表示にはしてないんですけど、人工無能っていうやつです。分かりやすくいうと会話コンピュータってところかな。大抵こういうのって、変な受け答えしかしなかったり感情がなかったりするんで、わたしはそういうのに『感情』っぽいものを感じれるようなものを作ろうとしてるんです。別に発表するんじゃないんで自己満足ですね」
 呑気な部員の声を尻目に、妙な寒気が体を伝わる。たぶん刑事にも。
 既視感。
 端島刑事が訊く。
「つまりこれは人間の問いに返事をしてくれるプログラム、ということですか」

「ざっくり言うとそうですね。なるべく人間っぽくスムーズにって感じの会話ロボットです」
 なるほど。
 つまり、こういうことだ。
 影子が作っていたプログラムは、これの亜種。
 サークル体験入学し、影子がこれに興味を持った。そして独学でプログラムを作り、完成したのが部屋にあった黒色の機械。あれのもとが、この感情プログラムに違いない。
 数時間前に見たものと似たものが、今画面上に映っている。
 なら。
 どうして、影子はあんなものを作ったのか?
 もう少し考えを進めようとしたところで、部室の扉が開いた。

     5

「ちーす。英語の再履修めんどくさいわー……あれ、この人たちまた体験入学?」
 部室に入ってきたのは長身の男。真面目そうな顔つきと裏腹に、髪を茶色に染め赤色のジャケットを着て明るそうに決めこんでいる。
 戸口で立ち止まるその男を見て、尾山部員が紹介する。
「あいつは副サークル長の多田≪ただ≫です。……警察が聞き込みだってさ、多田」
「え、マジで? 警察? 部長のことか」
「別の話だって」
 表情を固めたその男が俺たちに近づいてきた。
「えっと、警察ってマジすか。こういうのってなかなかなくて」
 端島刑事が警察手帳を取り出す。
「本当ですよ。わたくし端島といいます。こちらは芹川。ある女性の行方不明事件について調査していまして、こちらのサークルの方にお話を伺っているのです」
 俺も自動的に捜査官のようにされてはいるが、ここは刑事に任せて自分は黙っているほうがよさそうだ。
「初めて見た」多田という男は手帳をしげしげと見つめる。「なんすか、プログラミングサークルが悪いことしてるってことですか」
 PCの前に座ったままこちらを見ている尾山部員がすぐに言葉を飛ばす。
「そんなわけないでしょ。この前まで来てた体験入学の子がいなくなったんだって。ほら、日野井ちゃんとか言ってた」
 驚きの表情へと変わる多田副部長。
「え、日野井ちゃんいなくなったんすか。部長もいないのになんてこったよ、この部活呪われてるんじゃねえの」
 そう毒づいてから俺らのほうを向く。複雑な表情。
「別に話すことはないすけど協力とかしますよ。みんな心配なんで。あ、オレ多田っていいます」
 それに対し端島刑事はいかにも外向けといった感じの明るい表情。怖い顔をしているといろいろ喋ってもらえなかったりするからなのだろうか。
「軽い聞き込みのみですから、それほど時間はかかりません。……そうですね、別の場所でお話を伺ってもよろしいですか?」
「はあ、どぞどぞ」
 すると急に刑事は俺のほうを向いた。
「分担しましょう。わたくしはいまから多田さんとお話することにします。芹川さん、引き続き部員の尾山さんからいくつかお話を伺ってください」
 思わず訊き返す。
「お、俺も?」
「このほうがスムーズでしょうから」
 端島刑事は男を案内しさっさと出て行こうとする。俺が聞き込みなんてできる気がしないが、刑事としては個別に聴取し整合性を取りたいという思惑がおそらくあるのかもしれない。引き留めず、彼らが出て行くのを待つ。
 部屋に残った俺と尾山部員。
 気まずさで部屋がしんとする。おそらくこの部員は、入学して半年の俺よりも年上だろう。ましてや知らない人と来れば居心地の悪さも大きい。
 聞き込みの経験はないが、刑事からいくつかヒントは貰ってある。的確な質問をして情報を集めておけばまあ、怒られることはなさそうだ。むしろ刑事の主眼としては『サークル部員から目を離さないようにしろ』という所にあるのかもしれない。
 まずは尾山部員のほうを向いて頭を下げる。
「端島刑事と協力して捜索している芹川っていいます。挨拶もしなくてすいません。本当はこの大学の一年なんですが」
「え! じゃあ後輩なんだ。なんか捜査官かと思って」
 本当に申し訳ない。大学に入ってから行動を端島刑事に任せていたからここでも何もしていなかった。
「日野井影子の知り合いになります。俺も今必死に探してるんで、情報がほしいのは本当なんです。いくつか失礼な質問をするかもしれませんがそのあたりは」
「うん。つまり警察のお手伝いってことでしょ? 協力はする」
「ありがとうございます」
 なんとか前置き成功。ええと。まずは確認か。
「……サークルの部員は何人ですか?」
「三人。私と、いなくなった塩月部長と、さっき来たチャラい多田副部長だけ。もともと少数だから」
「で、そこに日野井影子が来た、と」
「そう」
 なるほど。サークル募集のチラシを撒いていたのはそのあたりの人数不足にあるのだろう。とりあえず今いる二人に話を聞けば作業は達成される。
 次の質問を考えるが、どうも急には思いつかない。考えていることを喋ってしまったほうが楽そうではある。
「日野井は俺の知ってる限り、プログラミングとかに興味はない感じでした。それでもこのサークルに通っていたというのが気になってるんです。どんな感じでしたか?」
「それさっきも聞かれたけれど……特に変わったことはなかったよ。新入生らしい感じで」
「プログラミングへの反応は?」
「物珍しそう、というのが一番いいかな。『こういうのは私でも作れるんですか』って言ってた」
 物珍しそうというのは影子を形容するうえで不可欠の言葉。なんにでも一定の興味は持つが、自分に関係がないと分かるとすぐに目をそらす。
 そこで、突然涙が出そうになった。脈絡がない。影子のことを思い出したからか。
 額に手を当て黙りこむと、尾山部員が心配そうに声をかけてくる。
「ねえ、大丈夫?」
「はい」
 息をゆっくり吸おうとするが、うまくいかない。
 なあ。
 俺は何をやっているんだ。影子の足跡を追い、話を聞いて、一体なんになるんだ。
 気持ちが戻らないまま、呟く。
「……日野井影子は、一週間前に大学で姿を消しました」
「ねえ、それってさ。警察が調査しているってことは、塩月部長がいなくなったこととも関係してるってこと? 私たちのサークル関係で二人もなんて偶然とは思えないんだけど」
「その辺りは調査中です。あるともないとも言えません」
「そっか……」
 目の前の尾山部員が手を伸ばしてきて俺の肩を叩く。
「聞いて。わたしたちの塩山部長も日野井ちゃんも、事件に巻き込まれたって決まったわけじゃない。君が落ち込んでどうするのさ。警察に協力してまでこうして動いてるってことは、君もそれを信じたいんでしょう? 気をしっかり持って」
 励ましてくれているのだろう。見た目は素っ気無いけれどいい人だな、と思った。
「すみません、ありがとうございます」

 しばらくして、端島刑事と副サークル長の人が戻ってきた。今度は端島刑事が尾山部員に聴取を始め、俺と副サークル長は外に出る。とりあえずどこかに座ろうと、サークル棟をぐるりと回った裏手にある研究棟前のベンチへとやってきた。
 多田という名の副サークル長の男は、苦い顔をしていた。
「確かに日野井ちゃんは最近来てなかったんだが、まさかそんなことになってるとはな。そういやオレも噂で聞いてたよ、講義棟の方で飛び降りたまま居なくなった子がいたって。それがまさか日野井ちゃんだったとは」
 ある程度の事情は端島刑事から聞いたのだろうが、まさかそうやって学内の噂になっているとは思わなかった。まったく人の噂には戸が立てられない。
 俺は握りこぶしを作り、ゆっくりと手を開く。
「そちらのサークルの部長さんについてはどうですか」
「それも結構びっくりしてる。連絡つかなくなって困ってはいたんだが、なにか事情があるものだと思っていたから、顧問への報告だけで済ませてたんだ。捜索願に連続行方不明事件だなんて、そんな大ごとになってるとはさっぱりだった」
「ということは心当たりはない、と」
「さっきの刑事さんから聞いたが、他に行方不明になったうちの一人はここの助教授らしいぜ。この大学狙われてるんじゃないかね。それか近くに不審者がいるとか」
 まあ、立てられる予測はそれくらいが限界だろう。
 それにしても、連続行方不明事件に関しては俺も情報を持っておらず、なにか重要なことを調べていないんじゃないかという気になる。あとで端島刑事に概要だけでも聞いておいた方がいいかもしれない。
 今度は逆に尋ねられた。
「事件を調べてるのはさっきの刑事さんと君だけなのか?」
 俺は軽く答える。
「連続行方不明事件については捜査がいくらか進められているようです。日野井影子に関しては捜索が行き詰っているらしくて、そこをあえてあの刑事が調べているんです。俺はその手伝いっていうか、ついていってるだけというか。影子が心配なんで」
「いったい……」
 彼が言いかけたところで、向こうの方から端島刑事が来た。尾山部員の聴取が終わったのだろう。
「多田さん、改めてお話ありがとうございました。サークルメンバーの方にはまたお話を聞く機会があるかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。なにか気になることがございましたら先ほどお教えした番号にお電話ください」
「あ、はい。わっかりましたー」
 終始軽い感じで、彼はサークル棟へと帰って行った。
 残ったのは再び、俺と端島刑事。
「さて、情報を整理しましょうか」

 彼らの回答に、矛盾は見られなかった。まあプログラミングサークルが影子の件について嘘をついていても意味がないだろうし、その点は信用できる。
 でも、重要な情報はなかった。ここにきて、道筋が途絶える。
 大学から出てアパート街を進む。俺は端島刑事に尋ねた。
「ここからどうするんだ。結局わかったのはあのプログラムの事情だけだぞ」
「そうですね……」どこか反応が薄い。「どこか引っかかってはいるんですが」
 刑事の勘というやつだろうか。
「なにか手掛かりがあったのか?」
「いえ、そういう……あ、そうでした。もう一つプログラミングサークルの方に訊きたいことを忘れていました。日野井影子の連絡先情報を彼らが持っているかどうかです。彼らとあの子がつながっていた証明となるものですから」
 そういうのも調べるのか。別に必要ないとも思えるが。ちなみに一週間前から影子の携帯にかけても、電源が切られた状態である。
 刑事は自分の携帯を取り出し、電話をかける。しばらくして首をかしげた。
「いま部員の尾山千衣さんにかけたのですが……応答がないようですね。すみませんがもう一度部室のほうに戻ってもいいでしょうか」
 面倒ではあるが頷いておく。どうせもう手掛かりがない以上、もう少しでこの捜査も終わりだ。刑事と付き合うことももうないだろう。
 来た道をそのまま戻る。その間端島刑事は副サークル長の多田にも電話をかけたようだが、同じようにつながらなかった。
 戻るうち、少しばかり嫌な予感がする。
 さっきまで会った人たちに連絡がつかないなんて、そうそうない。
 サークル棟までたどり着き、プログラミングサークルの扉を開ける。
「……どういうことだ?」
 誰もいなかった。
 先ほどと同じ景色。多数のパソコンと丸椅子、中央の長机。だけど、部員はいない。
 どこかに行っただけかとも思うが、よく見ると机の下にショルダーバッグが残っている。派手な花柄、おそらく尾山部員のものだろう。多田副長のほうは会った時手ぶらだった。
 鍵もかけず、荷物を置いてどこかへ行くだろうか。そして連絡のつかない携帯。
「……まさか」
 俺と端島刑事の間に、まったく同じ考えが浮かんだに違いない。
 これは、失踪?

      6

 そこから数時間経った。
 短い間に二人が同時にいなくなるなんてことは普通ない。彼らになんらかの予定でもあったのだろうか、と思うがそれにしては部室に戻ってこなかった。荷物も置きっぱなし。
 端島刑事の行動は速く、大学事務局に行って彼らを構内スピーカーで呼び出したりプログラミングサークルの予定を照会したがいずれも空振りだった。
 なんと、サークルの顧問役の教授にも連絡がつかないらしい。
「不可思議ですね」
 部室で彼らが戻ってくるのを待ちながら、端島刑事が呟く。チョコボールをいくつも口に放り込む。
「これ以上待っても無駄かもしれません。事務局のほうにも事情は説明しましたし、進展があったら連絡をくれることでしょう」
「事件に巻き込まれたのか」
「あるとは言えませんし、ないとも言い切れません。もし数日連絡がつかなければわたくしが連続行方不明事件捜査員のほうに報告しておきます。とりあえずここを出ましょう」
 そう言って立ち上がった。俺も遅れて部室の外に出る。
 俺が思い出すのは、いつも影子のことだ。
 あいつがいなくなってすぐ、俺は携帯を取り出した。大学生の連絡手段、繋がる術はたいていこれしかない。一人暮らしで固定電話はあまり使わない。
 当然のように、連絡はつかなかった。
 あの時思ったこと。こうしてひとつひとつ彼女との繋がりを失って、いつかは彼女がいなくなったことを納得しなければいけないのか、と。ふざけるな。
 でも今は、その恐怖が目前にまで迫っている。
 彼女と繋がりを持った者たちがどんどん消え、彼女の足跡も途切れている。
 いったいなにがどうなっているのか。
 怖くて怖くて、俺は刑事についていくことしかできない。

 端島刑事は歩きながら、忙しそうにずっと電話をかけている。
 特に向かう場所はなく、そのままどことなく進んでいたら、再びビル街。ここから五分も歩けば影子のアパートに戻れる。
「そろそろ今日の捜査は終わりか」
 電話が終わったところで、声をかけてみた。
 時刻は四時頃。秋の日はつるべ落とし、まだ日が沈んではいないがかなり薄暗くなってきた。まわりの街灯も点き始めている。
 仮にも大学での調べが終わったわけだし、俺が刑事と共にいる理由はもうないだろう。
 ところが端島刑事は首を振った。
「そうですねぇ……」なぜか楽しげな口調。なにか考えがあるのだろうか。「まず、休憩しましょうか。芹川さんもお帰りになる前にまず落ち着いたほうがいいでしょう」
 別にどん底の状態ではないが、言われれば緊張していたのを自覚する。サークル部員たちも失踪したのに落ち着いていられるのもどうかと思うが、確かにこのまま家に帰ったところで居心地の悪い状態だろう。
 端島刑事はこめかみに人差し指を当て、なぜかご機嫌だった。いかにも妙だが、なにか考えているのかもしれない。時折遠くを見るように目を細くする。
 少し歩いたところにあるコンビニに入った。
「捜査協力のお礼です、なんでも買っていいですよ」
「いらない」
「そうですか? お菓子などいかがです?」
 そういって刑事は菓子コーナーに向かいチョコボールの箱をいくつも抱え始める。本当にそれ好きなんだな。放っておいて雑誌コーナーを眺める。
 週刊誌を開いてはみたが、やはり気持ちは落ち着かない。
 影子がいなくなってすぐの時もこうだった。連絡はつかず、行き先も分からず、事件事故に巻き込まれているかも、と悪い方向にばかり思考が進んだ。いてもたってもいられなくて、それでもなにもできないもどかしさ。
 尾山部員、多田副部長も同じようにいなくなったのだろうか。それに、行方不明事件の人たちも、いったいなにをしているのか。
 ため息をつく。このままみんな俺をおいてどこかへ行ってしまうのかなんて、そんなところまで考えがいくから、どうやら俺は本当に参っているらしい。
 いつの間にか刑事は買い物を終え、俺のそばに来ていた。
「呼吸が深くなりましたね。落ち着きました?」
 おかげさまで。
 俺は何も買わずコンビニを出る。端島刑事は八箱ほどのチョコボールが入った袋をいとおしげに持ち上げている。
 日の沈みと連動して肌寒くなってきた気がする。
 自動ドアが閉まるあたりで、またもや端島刑事の携帯に連絡が入った。
「また連絡です。すみません、ここで待っていてください」
 そう言って携帯を持ったまま横の狭い道路のほうに入っていく。聞かれたくない話なのだろう。機密か何かに違いない。
 コンビニの軒、ごみ箱が並ぶあたりで待つことにした。
 十分、十五分。
 あまりに長い。痺れを切らして彼女が入っていった路地のほうをのぞいてみると、彼女の姿はなかった。
 どこに、行ったんだ。
 小さなコンテナが壁に沿って並ぶ。誰もいない。氷水のように冷たい風が背後から流れ込んできた。
 数歩進んでみると、足元に何か丸い粒が落ちている。
「……チョコボール?」
 二個ほど、まぎれもないチョコレート菓子がアスファルトに転がっている。端島刑事が落としたのか。食べ物を粗末にしてはいけないというのに、と思いかけて目が覚める。あれだけ大好物だと言っていた彼女が、こんな粗相をするだろうか。
 見渡してみると、奥のほうにももう一つチョコボールが転がっている。
 嫌な予感が背中を駆ける。先ほどよりも鮮明に。
 もし。
 刑事が、そのチョコボールを落とさざるを得ない状況に置かれているとしたら。そしてこの路地の先に、何らかの形で入って行ったとすれば。
 そんなことがあるのか。
 ――もし人為的なもの、つまり拐取だとすれば、これらの事件は繋がります。
 行方不明事件について説明した時の端島刑事の言葉を思い出す。確かに、これといって共通性のないであろう人々が同時期にいなくなるなんて、拉致誘拐くらいしか思い浮かばない。
 しかし、仮にも警察である端島刑事が同じ轍を踏んで攫われたとはあまり思えない。もしかしたら何かの手がかりを見つけどこかにいった可能性もありうる。
 俺は息を吐いた。
 行くしかない。

 予想通りというべきか、チョコボールは間隔を取って道路に点々と続いていた。それを頼りない道しるべにして俺は歩き続ける。
 路地を抜け、コンビニの裏手にある細い道路を進み、何度か曲がる。表の通りと違い人の姿がない。
 これではヘンゼルとグレーテルだ。迷わないようにパンくずを、微かな保険として。
 複数犯の可能性もある。もしあんな短時間に拉致されたとすれば、油断は禁物だ。特に曲がり角に気を付け、進む。
 やがて表通りに戻り、見覚えのある景色が見えてきた。
 間隔が広がってはいるものの、チョコボールも残っている。
 この方向は、影子のアパートがある地域だ。本当にそのままアパートまで行ってしまうのではないかと思ったが、チョコボールの道しるべは途中で曲がっている。
 アパートへと入っていく手前の雑居ビル。解体前にでもなっているかのようなほこりっぽさ。ガラスでできた戸は開いたままで、誰でも入れるようになっている。のぞいてみると、建物の中にもチョコボールが落ちているのを確認できた。
 どこか誘われているような気もするが、入ってみるしかない。刑事との連絡手段もないし、警察へ通報するには情報が足りないから。
 足音をたてないように立ち入る。
 電気は通っているようで、蛍光灯で照らされたロビーは明るかった。横に階段があるが、昇り口に長机やロープがあり、昇るのを制限していた。このビルはあまり使われていないのかもしれない。一階には一つ大きな両開きのドア。
 そしてチョコボールは、そのドアの前にも落ちていた。三粒。
 扉を開ける前に、思考を巡らす。中に誰かはいるだろう。襲われる可能性は、あるかもしれない。武器はない。あらかじめ連絡する相手は思い浮かばない。
 最後に浮かんだのは、なぜか影子の姿だった。
 彼女だったら。たぶんノータイムで、この扉を開けているだろう。あの度胸は、彼女自身が不在でも、俺の心には優しい。
 根拠のない信頼が最後には背中を押した。
「いくか」
 大きなドアノブを掴み、そっと中をのぞく。重いそれに勢いをつけ一気に開ける。
 何かの会場に使うようなホール。広いが、端の段ボールのほかには何もない。窓から僅かに夕暮れの光が差し込み、半分が赤色、半分が暗闇。
 奥に一人、いた。
 ステージの段差に座り、じっとこちらを見つめるその人物は、場違いな笑みを浮かべている。
 大声でこちらを呼んできた。
「そのまま、進んで」
 俺は訳が分からなくなりながら、彼女の指示に従う。
 数歩進んでから訊いた。
「一体これはどういうことだ? ――端島刑事」
「事件解決のためです。動かないでください」
 立ち上がってこちらに向かってくる彼女は、まるで何かの企みに成功したような笑顔を固めたまま、こちらを指さす。
「あなたが犯人ですね」
 背後で、誰かの動く音がした。

 思わず振り返りそうになるが、端島刑事の大声で遮られる。
「逃げても無駄です! 当然のことですが、すでにこの建物は多くの捜査員で包囲していますから」
 身体がすくんで動けなくなった。対照的に近づいてくる彼女。アパートの時と同じ鋭い目。
 夕日が強くなり、ホールが少しばかり明るくなる。刑事の横顔は凄惨といってもよかった。また近づいてくる。一歩、二歩。
「簡易的な誘導でしたが、ここまで上手くいくとは思っていませんでしたが、作戦勝ちといったところでしょうね。プログラミングサークル部員をすぐに拉致しようとしていたわけですから、焦ってらっしゃったのでしょう?」
「何を言っているんだ……?」
 理解できなくて訊き返す。夕日がまた強くなった。
 端島刑事の足は止まらない。
「捜査が進んでいるのを知り、よほど焦ったのでしょうね」
「だから何かの間違いだって」
「……えっと、芹川さん? 勘違いしないでください」
 なに?
 彼女に肩をやさしく掴まれ、くるりと半回転させられる。入ってきた扉のほうを見る格好。
 さっきまでいたホールが見える。端のほうで床を叩くような音がした。
 男の声がこちらにまで響いてくる。
「くそっ、なにすんだぁ!」
「はいはい暴れんな」こっちは野太い声。「まったく、大学生ってのは元気だな。まあこんな気力なけりゃ人攫いなんてしないだろうが」
 そして彼らが扉に現れる。
 見知らぬ中年男に両手を押さえられ動きを封じられている長身。見覚えがあるどころではない。数時間前に会った。
「……多田、副サークル長」
 掴まれている彼は苦痛の表情を浮かべながらも、もがくのをやめない。
「もとい、犯人さんです。連続行方不明事件の」
「はあ?」
 どういうことだ。ほかの被害者と同じように失踪したと思っていたが、違うというのか。
 端島刑事はその副サークル長に近づいた。また彼は暴れだすが、後ろの中年が関節を決めているらしくそれを許さない。
「相変わらず人使い荒いな、端島は」その中年はぼやく。「まわりの監視もじき集まってくるからそしたら連れてくか」
「ご協力感謝します、巡査部長。せっかくなのでそのまま手錠かけちゃってください」
「お前がやれい。手柄を横取りするつもりはないし、間違ってたら責任とれんしな」
 端島刑事は会釈した後、多田の目の前で手錠を取り出す。
「多田秀魚さん。まず質問です。なぜこんな廃ビルにいらっしゃるんですか? 言い換えれば、わたくしたちをつけるような真似をしたのはどんな理由があったからでしょう」
「しらねえよ!」多田は大声を出してもがく。「ていうかなんだよ警察ってのは何もしてない奴にこんなひでえことすんのか」
 端島刑事は首をかしげる。その姿は後ろからしか見えないが、声が楽しげにすら聞こえる。
「何もしてない、ですか。……いいでしょう。捜査の経過を説明しろということですね」
 指を一本挙げ、彼女は話し始める。
「まず、連続行方不明事件についてです。市内の狭い範囲で何人も失踪というのは、どうも腑に落ちませんでした。捜査陣も悩んでいたようですが、わたくしが捜査に加わり、資料を見ただけで分かりました。最近の失踪者はすべて、多かれ少なかれ日野井影子に関わっていた人間です。それ以前には関係のない方もいましたが」
 一瞬、部屋が静かになった気がした。
 そんな事実、俺も聞かされていない。そもそも俺は影子のことしか気に留めていなかった。
「そして当人、日野井影子も不可解な状況で失踪しています。これは影子と関係しているものが元凶となっているのは間違いないと考え、ある作戦を練りました」
 作戦?
「それこそがこの捜査です。わたくしが日野井影子の関係者をまわり、警察手帳を提示して捜索が進んでいることを知らせること。そうすればなんらかのアクションがあるでしょうから、他の捜査員にはそれを見張ってもらうこと。『犯人』がいるとすれば、さぞ過剰に反応するだろうと思いました」
 それを聞いて、多田の顔が悔しげに歪んだのは俺も分かった。
 つまり、あえて捜査を見せびらかすことで犯人の動揺を狙ったということだ。
 俺はこぶしを握る。
 ……つまり、それは。
「俺も利用したってことか、あんたは」
 端島刑事の捜査すべてがその『見せびらかし』だとしたら、俺に接触して話を聞いたのも、大学を回ったのもそういう裏の意図があったことになる。非番だというのもすべて嘘だった。考えてみればきっちり捜査していたというのに、俺にはそれをごまかしていた。
 そして。
 影子の捜索、ということすら、連続行方不明事件解決のための隠れ蓑にしたのなら、許されることではない。
 首を曲げこちらを振り返る端島刑事。珍しく困った顔。
「さすがに考えが進みますね芹川さん……しかし利用というのは誤解です。捜査の一環として事情聴取を行ったのは確かですが、あの子のアパートに行くことや調べることも必要でした。それと」
 もう一度多田のほうを向く端島刑事。
「この連続不明事件と日野井影子失踪は関係している。わたくしはそう睨んでいますから。さて、喋っていただきましょうか、多田秀魚さん?」
 動きを抑えられたままの多田は、もがきわめく。
「しらねえ! なんだよその決め付け!」
「なら、どうしてわたくしたちの後をつけていたのですか? 見張っていた捜査員から報告が来ていますよ」
「ぐ、偶然だろ」
「初めてサークル部室で日野井影子及び失踪者の話をした時『呪われてるんじゃ』という言葉を吐いたのはなぜですか? 自分で失踪した可能性も考えられるのに、軽率な決め付けですね」
「知るか! 完全な証拠もないのに逮捕とかできんのか警察は? 逮捕状見せろ!」
 多田の呪詛に対し大きくため息をつく端島刑事。サイドテールが揺れる。
「本当に迂闊ですね。残念ながら現行犯ですよ。大学サークル棟で尾山千衣さんを拉致した様子はしっかり捜査員が押さえています。あなたは彼女を連れ去り、この廃ビルまで運んだのでしょう?」上のほうを指差す。「捜査員に連絡してビルの上の階に先回りしてもらい、縛られている被害者を救出していただいています」
 もしかして、このビルに俺を誘導したのもそういう理由なのか。
 すなわち端島刑事の計画はこうだ。多田が俺と刑事を追跡しているのを知り、こいつをそれなりの場所で確保するためにあえて姿を消して俺をチョコボールの仕掛けでこのビルに誘導した。当然多田は俺についてくる。そしてビルには捜査員が一杯、というわけだ。それに、このビルがアジト的な存在だとすれば多田は入らずにいられなかったに違いない。
 ――手がかりは絶対に押さえます。そのためなら協力も手数も惜しみません。
 端島刑事の言葉を思い出す。この人は事件解決のために何もかも手玉に取ったのだ。
「あなたの犯罪がどういう目的だったのかは知りませんが、既に破綻しているのは明らかです。被害者に証言を貰えばいくら否定しても無駄でしょう。あきらめなさい」
 大きな声で断定され、とうとう多田の力が抜けた。
 端島刑事は後ろに回り、おそらく同じ捜査員であろう中年と協力して手錠をかける。落ち着いたところで外にパトカーの音が響いてきた。
 端島刑事はもう一つ多田に尋ねる。
「日野井影子の居場所を教えてください。拉致者はすでに病院に運んではいますが、その中にあの子はいないそうです」
 そうだ、影子。この犯人は影子も拉致したのかどうか。
 多田は苦い顔をする。
「俺も知りたいよ。あいつ、どこ行ったんだ」
「はい?」
 ぎろりとこちらのほうをみてくる。
「この騒ぎを起こせっていったのあの女のようなものだぜ。オレはそれに従っただけだ」
 最初、何を言っているのかわからなかった。思わず俺も口を出す。
「どういうことだ」
「あいつがサークルに来た時、雑談でまったくこっち向かねえし。突然オレに近づいてきたと思ったら『あなたがしていることを知っている』だ。誘拐ばれたのかと思った」
 端島刑事と俺は顔を見合わせる。多田は斜め下を向いてぶつぶつと呟き続ける。
「脅されるのかと思って仕返しにあいつの知り合いも攫ってやったが動じもしねえ。そして一週間前に飛び降りて消えたって、もう意味わからねえよ。あいつ何者なんだ」
「何を言っているのかわかりませんよ。影子に押し付けるのはやめてください。あなたの行動はあなたの罪です」
「……いいや、オレはあいつに乗せられただけだね。ただあいつの気を引きたかっただけだ。しかも彼氏みたいな存在も出てきやがって……」
 俺のほうを見てきて歯軋りしている。もう言っている事も判然としない。
 端島刑事はため息をついて後ろ手を押さえている中年に告げる。
「巡査部長、彼に聞きたいことは以上です。連れて行ってください」
 そうして多田はビルの外へと連れて行かれた。おそらく外にはパトカーが止まっているのだろう。
 ビルに差し込む夕日もほとんどなくなって、細い蛍光灯だけがむなしく照らす。
 残ったのは俺と端島刑事。
「多田が最後に言っていたこと、どう思う」
「支離滅裂ですから動機は無視していいでしょう。責任逃れです。ただし……あの子に関しては完全に関係ないようですね」
 そうかもしれない。誘拐騒ぎを多田に勧める理由など影子にはないからその辺りは大法螺なのだろうが、多田が影子を攫ったというわけでもないようだった。
 端島刑事はこめかみに指を当てる。
「……誤算でした。わたくしがこの逮捕計画を立てたのは、『連続行方不明事件とあの個の失踪が繋がっていて、誘拐犯があの子もなんらかの方法で攫った』という仮説を第一においたものだったのですが、まさか犯人がなんの情報を持っていないとは思いませんでした」
「連続行方不明と影子の失踪は関係ないのか」
「あったとしても薄いでしょうね。犯人の多田秀魚はおそらく目についた人を攫っていただけでしょうから、誘拐された人に影子の関係者が多いというのも偶然程度のものかもしれません。サークル部員の尾山千衣さんを攫ったのはおそらく捜査が進んでいるのを知ったときの動揺だったのでしょうし」
 たしかに、俺らが事情聴取を終えてすぐ攫ったなんて、多田はどれだけ思考が単純だったのだろう。
 ともかく、連続行方不明事件は解決した。それでも、影子はいない。
 端島刑事はチョコボールの箱を取り出し、にぎりつぶした。中は空なのだろうか。
「失敗です。わたくしが連続行方不明事件の捜査に手を挙げたのは、あの子が同じように被害にあっているだろうという確信と、仕事とプライベートを同時に解決できると考えたからなのですが……」
 そうか。この刑事は影子の失踪のことを第一に考えていた。影子を見つける道筋のための、連続行方不明事件捜査だったのだろう。さっき『利用していた』なんて言ってしまって申し訳なかった。俺はただ逮捕劇に巻き込まれただけだ。
 俺はやっと息をつく。
 今日たくさんの出来事があった。事件が一つ解決したのに、結局何もかも終わっていない。影子の部屋の謎も、サークルに近づいた理由も、そしてどこにいったのかも、何も分からない。
 とりあえずビルを出る。日は沈み、街灯だけが辺りを照らす。影子のアパートが近くにあるが、それすらもむなしい。振り出しに戻ったとはこのことだ。
 思うことはただ一つだけ。
 まだこの世界にいるのか、影子。

     7

 次の日の夕方。
 損失補填作業、二つ目。
 といっても、昨日の端島刑事との捜査で思い出しただけだった。影子が居なくなってから、俺はこの場所にきたことがなかったからだ。
 講義棟屋上。
 大学事務所に行くと、意外と簡単に鍵を借りられた。たしか影子の飛び降り騒ぎが起きてから急ごしらえのフェンスをつけたらしく、それで安心だと思ったのだろう。別に俺は飛び降りる気はないし知ったことではない。
 屋上へ繋がる鉄製の扉を開ける。夕日と風が両方流れ込んでくる。
 別にここに来ても、影子がいるわけではない。証拠となるようなものも何も残っていない。それでも、来ずにはいられなかった。
 そういえば端島刑事は、あのあとも連続行方不明事件の後片付けに忙しいらしい。電話でそんなことを言っていた。本当に多田は影子失踪のことについては情報を持っていないとのこと。無駄足にもほどがあると嘆きそうな勢いだった。
 屋上は案外狭い。タンクやらエアコン関連の機械などが中央に並んでいる。たしかに簡易的なフェンスが縁に追加されていた。
 歩いて端に近づく。
 考えるのは一週間前、影子が落ちたときのことだ。落下するとき、俺が講義を受けていた二階の窓を通り過ぎるとすれば、落ちるべき基点はこの辺だろうか。
 フェンス越しに下を覗く。三階も、こうしてみるとある程度高い。
 再び強い風が吹き、顔を上げる。昨日よりは弱い夕日の光量が目につく。景色は悪くはない。大学のいくつもの建物、その外側に街が広がる。アパートの並びを越すとビル街、それより遠くには住宅街と山並み。
 影子が落ちようと思った場所の景色はこれか。
 それとも、俺が見た影子の落ちる姿は幻なのか。
 分からない。息をついて、しゃがみこむ。端島刑事によるとここには影子のスニーカーがあったはずだ。わざわざ脱いで落ちていったのか。俺と目を合わせるように窓を通り、地上の地面かツツジの樹木に激突する。そしてそこから姿を消す。
 しかし確かに刑事のいうとおり、この場所から落ちれば確実に死ぬかどうかというのは確実とはいえない。微妙な高さもそうだし、木や他のクッションを地上に準備すれば擦り傷程度も十分にありえる。
 死ねるかどうか分からないこの場所。
「……ん?」
 なにかが引っ掛かった。
 その引っ掛かりは絡まった糸のように色々なものを引き寄せていく。端島刑事の仮説。屋上。アパートにあった機械とその質問。
 そして、スニーカー。それにまつわる、自分の記憶。
「そうか――」
 分かった。やっと分かった。
 影子が何をしたかったのか。どうしてここから飛び降りたのか。
 唐突に理解した。彼女の理由を。
 俺は簡易フェンスを飛び越え、縁に立つ。下を見ると、赤い花を咲かせるつつじの木。
 なあ、影子。
 つまり、こういうことだろう?
 ただ確かめたかったんだ。影子は。
 夕日が俺の身体を照らす。風が吹き、秋の匂いをどこかへ吹き飛ばす。
 俺は重心を前に傾けた。重力が身体を引っ張り、視界が下へと向かう。
 もう戻れない。
 でもこれを、彼女はやりたかったのだ。
「――分かった。分かった。分かった……」
 俺は。
 屋上から、落ちていった。


第二部 追憶とヒント

私の存在証明INDEX - 第一部 彼女が落ちるように消えて / 第二部 追憶とヒント / 第三部 未来



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Author:義里カズ
YOSHIZATO Kazu
物語書き。ネットで文章公開中。

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