雨の日に鳥は飛ばない


We can't fly


 義里カズ


  ●プロローグ

 私は"miss"という単語が好きだ。

 いや、好きというよりは、興味を引かれたというほうが近いかもしれない。

 "miss"という動詞は、それ一語で「その人がいなくて恋しい、寂しい」という意味を持つ。日本語でその気持ちを表現するのには多くの字数を使う一方、英語ではその感情を"miss"という単語ひとつに閉じ込めるのだ。

  ―― miss you so ――

 missという単語に、初めて意味をつけた人がいるとするならば、その人はいったいどんな心で単語に気持ちを託したのだろうか。

 その気持ちが、私に分かる時が来るのだろうか。


  ●仁井 1

 授業が終わった教室は、雨が去った道端のような雰囲気が出る。灰色に満ちた周辺を光が照らし出し、隠れていた動物たちが顔を出して騒ぎ出す。人々も、さわやかな顔をして外へ出始める。

 今私がいるクラスも、そんな雰囲気に満ちていた。

 ホームルームが終わり、にわかに話し始めるクラスメイト。窓からは明るい光が差し込んで、黄金のまどろみといった雰囲気が部屋の中に漂っている。私はといえば、会話に参加することも帰り支度をすることもなく、ぼおっと机に突っ伏していた。

 私の席は窓際にあるので、サッシのほうを向き少し見上げるとすぐに空が目に入る。そのせいで、授業中も休み時間もずっと空ばかり見てしまうのが難点だ。ちなみに今日の空はサファイアブルーに近く、雲ひとつない晴天。もっともここ数日は晴れの日が続いているのだけれど。

 伏せる格好でじっと窓のほうを見ていたら、反対側から声をかけられた。

「ニーチェ、元気してる?」

 私は首をぐるりと回し、声の主の友達に言い返す。

「うぅん、……ちょっと」

 やる気がおきない、と続けようとしたが、やめた。いつものことだからだ。友人は声をかけるだけで満足したのか、てくてくと歩いていった。どうも今日は、テンションを上げていく雰囲気になれない。

 今日の空を見て、私は授業中、メランコリーな気持ちになってしまった。ふと、変な想像をしてしまったのだ。

 いつもと同じ教室。変わらない風景。いつか、この景色が懐かしく思う日が来るのか、それは私には分からない。……いや、たぶんきっと思いだすのだろう。いつかあの高い高い空の上に昇っていく寸前、私が最後に見る景色は、運命の分かれ道とか綺麗な花畑とかでもなく、こんな何気ない日常だったり。本当に心臓が止まっているのかも分からないまま、天国という世界をずっと過ごすのだ。

 でも、もしそうだとしたら、今ここにいることとどうやって区別をつければいいのだろう。いつもと同じ教室、変わらない風景。それが現世なのか天国なのかはどうやって見分ければいいのだろう。

 もし天国ならば、私の知っている死者がいるかもしれない。数度しか会った事のない叔父さんとか、近所の優しかったお婆さんとか。会えるかどうかまでは、分からないけれど。

 もう一つ、確実な方法がある。現在か天国か見分ける条件。

 天国では、人はそこに居続ける。

 人が死ぬのは、一回だけだから。

 じっとそんなことを考えていたら、窓から見下ろしたあたりの校庭の端を通る生徒の姿が目に入った。

 眼鏡はかけておらず、背は比較的高い。真っ直ぐに前を見つめるわけでもなく、やや下を向いて部活棟の方に向かっている。すたすたと後者と花壇の間を進むその姿に、私は思わず息が止まりそうになる。周りの音が一瞬消え、私とその人の間にある窓や空気や高さまでがすべて無くなっていく気さえしてくる。前を進むその人、ただ見つめるだけで動けない私。もしやこれは、私が持つ錯覚だろうか。

 ……とりあえず、会いに行こう。私はその生徒を追いかけるべく、立ち上がって机の横のバッグをつかんだ。


  ◇古瀬 1

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DATE:4/11 FROM:Koze.T TO:Nii1212

 おはようございます、ニーチェさん。

 今日はかなり空は綺麗です。サイダーをグラスに注いだときの様な色、というとロマンチックすぎるでしょうか。まるで炭酸の泡のような白い雲を見ていると、どうしてもそういう表現をしてしまいます。

 最近、ニーチェさんの気持ちが沈んでいるのはよく分かります。

 誰しもそういう気持ちになることはよくありますし、もしかしたらそれは自分自身で解決するべきものなのかもしれません。

 ですが、周りの人は、それに対し相談を受けることができます。ぜひ、ニーチェさんがよければそれをメールで教えてくださるとうれしいです。元気、出してください。

 写真、ありがとうございました。とても興味深いです。では私のほうも、今日の空の写真を添付しておきます。

 ニーチェさんのお返事とお写真、楽しみにしています。

             コゼットこと、古瀬より

 ニーチェさんへ

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  ●三本木 1

「どうして、あなたは空を飛ぼうと思っているの?」

 数分後、私はその生徒、三本木と向かい合っていた。

 今日の外は静かだ。風も余り無く、穏やかな空気が学校を占めている。

 部室棟の一階。主に文化部が並ぶその階層の一番端に、天文科学部の部室がある。でも、その部活動の主な活動場所は化学実験室。わざわざこちらまで荷物を置きに来る人はいないので、いつの間にかその部室は物置と化していた。

 そして、その倉庫同然の部屋を勝手に間借りしているのが、三本木だ。

「難しい質問だね、ニーチェ」

 三本木は、私のことを仁井と呼ばない。ずっと「ニーチェ」という渾名で呼ぶ。

 三本木はひたすら自分の作業に夢中だが、私の話は聞いてくれる。ひたすらドライバーで螺子を止めようと躍起になりつつ、返答を考えている。

 部屋はおよそ六畳ほど。邪魔なダンボール箱は脇に重ねられ、代わりに三本木が持ってきた色々な物が床に転がっている。木片や歯車、螺子に工具一式。壁には手書きの黄ばんだ設計図が貼られ、空を撮った何葉かの写真も飾られている。何に使うのか、ビデオカメラまで。

 私と三本木は、最近いつもこの部屋にいる。

 そして部屋の中央には、三本木が作った大きな物体が鎮座している。

 大きな、羽だ。翼と表現してもいいかもしれない。大きさは私の背の半分ほど。真ん中の土台から生えた二枚のそれは、すべて木の棒と歯車で構成されている。飛び立つ寸前の白鳥の様に広げられた大きな骨組み。初めて見る人は、適当に接着したオブジェのように見えるだろう。しかし三本木に言わせれば、操作することでそれらが複雑に絡み合い羽ばたくように動き出す、らしい。私はまだその姿を見たことがない。というのも、三本木は今、この部屋に毎日こもりこの翼の製作に拘っているからだ。

 三本木は、空を飛びたい、らしい。

 それも、飛行機やヘリコプターなどではなく、自力で飛ぶことが目標なのだという。話によると、完成した翼を背中に着け、歯車を回して羽ばたくとのことだった。最近はずっと、三本木は空を飛ぶと言い続けている。

 やがて自分の中で考えがまとまったのか、三本木は私の質問に答えた。

「空を飛ぶと言う行為は、大昔から人類の夢だ。現在それは多くの方法で叶えられつつある。だが今でも、人間単体での飛行と言うのは難しい。出来ない夢だからこそ、人はそれに憧れるんだ」

「ふうん」

 よく分からない。ものすごく壮大な話になったことだけは理解できた。

 逆に私は、スカイダイビングなどに興味が無い。というより、あまり高い所には行きたくない。体よく言えば高所恐怖症で、前にビルの屋上に上ったときは五分で取って返した。窓から見るのはいいのだけれど、梯子とかベランダとかになると足が震える。その場所を不安定に感じてしまうのがいけないのかもしれない。足元が崩れて落ちてしまいそうな気がして。

 三本木は地面に敷いた新しい設計図を睨みながら、歯車を組み合わせていた。前に聞いたところによると、カムとか言う機構を使うらしい。授業中必死に設計図を書いているのだろう。

 私はダンボールの横に積まれた丸椅子の一つを下ろし、そこに座った。静かな部屋に、三本木の手を動かす音だけが響く。しばらく、話すことも無いまま、じっとしていた。


  ●仁井 2

 部室の窓際に寄り、サッシを開ける。風は相変わらず吹き込まない。窓の外は街並み。学校は比較的高台にあるから、山から見下ろすような景色が見れる。丸椅子を動かしてサッシのそばに座り、今度は空を見上げた。今日は晴れている。

 こうやって空を見ていると、飛びたいという三本木の気持ちも分からないわけではない。雲と同じように、青色の空を漂うことができたら、どれだけ気持ちがいいのだろう。私はそれを想像しながらぼうっとした。

 じっと空を見ていると、コゼットからもらった写真を思い出す。私は携帯を取り出して写真のフォルダを開いた。

 いくつもの写真。私はそれを見て、思わず顔を綻ばせる。一面の空。今日の朝に見た空と、同じ色をした背景に、幾つかの雲が浮かんでいる。そして下の方には、細かすぎて点にしか見えないビル街が見える。まるで、旅客機に乗って撮ったような写真。綺麗だな、と声に出さず呟く。

 こうやって、コゼットとメールで写真をやり取りするのはいつから始まったのか、もう忘れてしまった。確か言い出したのは私の方で、どうしてもコゼットの見ている景色が見たくなってしまったのだ。それ以来、メールと一緒に写真をやり取りするのが通例になりつつある。コゼットは空の写真、私は日常の写真。コゼットは地上の写真にご執心で、前に校庭の写真を送ったら大喜びしていたものだ。

 今度はどの写真を送ろうかと思案しながら、徐々に現れた雲の行く先を見つめていた。三本木が作っているこの翼の写真なんかいいかもしれない。コゼットが地上に来たがっている様に、空を飛びたがっている三本木のような人間もいるのだ、と。


  ◇古瀬 2

  私の一日は、雨戸を開けることから始まります。私の家はかなり古いので、縁側から雨風を防いでくれるものはガラスサッシではありません。木の板でできた、焦げ茶色の扉。ひとつひとつ、立て付けの悪さを気にしながら、開けていきます。

 一通り開け終えると、私は縁側から空を眺めます。

 眺めるといっても、見上げるわけではありません。私の家は地上と違い、庭に当たるものはありません。縁側から外に一歩踏み出すと、すべて青い空。ところどころにある雲と、遠く下のほうに並ぶ地上の建物。小さな鳥が一羽、目の前を左から右へ通過していきました。

 私はこの景色がとても好きです。空がいつも私を包み込むような気がします。

 一通り眺めた後、私は台所に向かいました。

 朝食をとったあと、私はメールをチェックします。

 いつも、ニーチェさんからのメールを楽しみにしています。最近では、普通に生活しながら無意識にメールの文面を考えている自分が居ます。

 画面に、新着のメールが表示されます。ニーチェさんからです。送信時刻を見るに、昨日の夜のようでした。

 メールの文面には、悩みに関する話題が並んでいました。ニーチェさんの悩みは、「最近調子が出ないこと」とのことです。そしてニーチェさん自身はその理由がよく分からない、と。

 ニーチェさんがこのように愚痴の様なものをメールに綴られた事が今まで無かったので、私は少し新鮮な気持ちになりました。相談に乗ってあげたい気持ちは山々なのですが、ニーチェさんはあまり悩みを具体的にしたくは無いようです。公言する様な内容ではないのかもしれませんし、もしかしたらニーチェさん自身が悩み相談の経験が少ないのかもしれません。かく言う私もあまり思い悩むことは無いので、ニーチェさんに相談する内容が無いのですが。

 メールはその後に、ニーチェさんが添付した写真とその説明が書いてありました。

 写真には大きくて茶色の翼の造形品が写っています。部屋の中心にでんと座っている大きな物体。美術品のようにも思われましたが、鳥のように羽ばたいて空を飛ぶらしいというニーチェさんの説明を聞くと、なにやら木でできたプラモデルのようにも見えます。

 せっかくですので写真フォルダにこれを保存し、このメールに対する返信を書き始めました。

 しばらく文面に悩みつつ、ニーチェさんへの返信を終えます。次に、写真のフォルダを開きました。沢山の写真が画面に広がります。ニーチェさんから送られてきた、日常の写真。舞い落ちる桜、細い道路、光が差し込む教室。どれも、私にとっては憧れです。

 いつか、私も地上に住んでみたい。ニーチェさんの見ている世界を、私も見てみたい。そう思いながら、私は飽きることなくそれらの写真を見ていました。


  ●三本木 2

 そのまま窓の外を見るともなしに見ていたら、首元に突然ひやりと冷たい物が当たり、私は飛び上がりそうになった。反射的にそれを掴み振り返ると、三本木が微笑んで立っていた。自分の左手を見るとアイスの袋。どうやら私の首に、三本木がそれを押し当ててきたらしい。

「アイス、食べる?」

 私は数秒の驚きから立ち直り、三本木を軽く睨んだ。

「……吃驚した」

「なにやら真剣に外を見てた様だから、ちょっと悪戯したくなってね。なにか珍しいものでも飛んでいた?」

「ううん、特に何も」

 首を振ってそう答えたら、三本木は笑いながら自分のアイスを開封する。いつの間に買って来たのだろうか。なにせ部屋を出る物音すらしなかったのだ。私はそれほど思索にふけっていたのだろうか。

 異様に冷たいアイスを口にしながら三本木の行動を観察する。三本木は口にアイスをくわえながら翼の制作を続けていた。ドライバーを持ち、螺子で歯車を留めていく。そこにまた木の棒を付け、それらを組み合わせてカム機構を作り上げていく。その目は真剣そのもので、とても変な事を考えている人間には見えない。

 何故かは分からないがこの姿の三本木を見ていると、格好いいな、と思う。私は余り、異性の容姿を一言で切り捨ててしまうのは好きではないが、こうやって一人で何かに奮闘している姿を見ていると、格好いいという言葉が一番合う様な気がした。ただ単に私の語彙力の問題かもしれないが。

 見つめていると思われたら癪なので、また空を見る。

「雲が出てきた」

「それは困るな。雨が降らなければいいけれど」

 三本木は翼いじりを続けながら話す。

「そういえばニーチェ、『雨降り猫』の話を聞いたことはある?」

「アメフリネコ? 何、それ」

「この辺りに伝わる伝承の一つ、まあ伝説みたいなものなんだけれどね。その猫は、空を飛び雲から雲を渡り歩いて雨を降らせる力を持った精霊みたいな存在らしい。雨っていうのは農家にとって重要だから、雨降猫を呼び込むために神社まで立てられたらしい。まあ気紛れな神様、といったところかな」

「それ、何処までが本当の話なの?」

 訝しげに聞くと、三本木は惚けるように笑う。

「さあ、知らないけど。でも、雨と猫の関連性は昔から言われていることだよ。猫が額を洗うと雨っていうのは有名だし、英語にもそれが残っている。『raining cats and dogs』って知ってる?」

「……どういう意味だっけ」

「英語の慣用句で『土砂降りの雨』という意味だね。北欧神話において、猫は大雨を降らせ、犬は強風を起こすという言い伝えがある。一般的なイディオムだけれど、それを聞くと今話した雨降り猫の話と共通点を感じない?」

「……三本木と話していると、どんな話も本当に聞こえてくる」

 どうも今日ははぐらかされているというか誤魔化されているというか。私は息を吐いた。

 まあコゼットの話を聞いていると、そんな猫の妖精の物語も有り得そうな気はしないでもない。どうも最近、この手の架空の話に慣れ始めている自分がいる。もしかして私は、憧れているのだろうか。そうかもしれない。誰でもそういう気持ちは多かれ少なかれ持っているだろう。空に住むコゼットの様に、空を飛びたい三本木の様に。でも私は、それらを見ている事しかしていない。参加もしなければ、目標も持たない。

 ……こんな私に、願いは叶うのだろうか?


  ●仁井 3

 やがて、三本木が立ち上がる。工具などをダンボールに入れて片付け始めた。

「そろそろ帰ろうかな、こいつも大体出来てきたし」

 確かに、時計を見るとかなり時間が経っていた。私も携帯から顔を上げ、椅子から立ち上がった。

 二人で外に出ると、弱い風が辺りを流れていた。空にも少し雲が出てきている。校庭にはまだ部活動をやっている生徒が見られる。確か明日から一週間、中間テストの準備期間に入るので、部活動は今日が最後ということになるから、今日は遅くまで居残る生徒が多いのだろう。

「じゃあ、また」

 そういって離れていく三本木に私は声をかけられなかった。一緒に帰ろうなんて言える筈もない。暫くして、私も歩き出した。私は、あの冷たい家へ。三本木は確か、近くの寮に居ると言っていた。アパートのような一人部屋で居心地がいいらしい。

 部室で二人で過ごすことには慣れ始めたが、相変わらず想いを口に出すのは躊躇われる。私自身に臆病者の名札を付けてやりたい気分だ。

 それとも何時か、言うことがあるだろうか。

 三本木への想いを、この口で。

 家に着き、自分の部屋のベッドに寝転ぶ。

 周りは、静かだ。珍しく、何の音もしない。

 私の家は、学校からほんの少し離れた住宅街にある。何の変哲もない家。父から貰っている多額のお金による、借りた住まい。この家はもう何番目か忘れてしまった。今回の引越しは高校入学と同時だった。

 母との二人暮らしも、慣れてくると余り苦痛には感じない。強いて言えば幾度となく行われる引越しが少しつらかっただけで、それほどでもなかった。恐らく、両親の離婚がもう少し遅かったら私もその影響をもろに受けていたのかもしれないけれど、まだ離婚の持つ本当の事実や生活変化についての知識が少ない頃だったので、ダメージは小さかったのだろう。そんなこんなで、私はあくまで静かに目立たずをモットーにしてここで生活している。

 周りの環境に変化に乗せられるままでいた私は、この高校に入るまで、自分から行動することをしなかった。そのモットーが変わり始めたのは三本木を見てからだと、私は自分を客観的に分析している。私がネガティブになっているのは、信条のぶれのようなものがあるのかもしれない。

 顔を横に向け、無音のまま何の変化もない部屋を見渡し、私は静かにしていた。

 変化といえば、もう一つあった。私は起き上がり、机に寄って鎮座しているパソコンのスイッチを押す。まだ新しいそのノートパソコンは静かな風音を立てて起動する。早速、メールソフトを起動する。

 また、愚痴になってしまうかもしれない。そう思いながら、私はふわふわした椅子に座りメールの文面を打ち込むことにした。

=====

DATE:4/10 FROM:Nii1212 TO:Koze.T

コゼット、なにか悩みはある?

特に何があったというわけではないのだけれど、最近あまり調子が出ないのが、今の私の悩み。なにやらナーバスになっているみたい。

体の調子も悪くないし、中間テストが憂鬱っていうわけでもないのに。確かに二週間後に迫ってはいるのだけれど。友達に疎外されているという事もなければ、気に食わない出来事があったわけでもないし。

まあ、何も原因が無いかというと嘘なのだけれど。

とりあえず、今日は模型の写真です。私の同級生が作っている、翼の模型。私もまだ動くところは見たことが無いけれど、作っている同級生によるとまるで鳥が飛ぶように羽ばたくらしいの。飛行するのを夢見るのは悪く無いから、私は応援しています。もしこれが完成したら、私も借りてみたいな、と思う。そうしたら、私からコゼットに会いに行けるから。

なんてロマンチックなことを書いてみたけれど、これもすべて、私の空への憧れ。コゼットは地上が見たくて、私は空が見たい。こういうのを、無いものねだりと言うのかも。

空の写真、楽しみにしてる。

=====

 打ち終わり、文面を見返す。コゼット、という単語に心の中で微笑む。

 コゼットというのは、私がメール先の女の子に付けたニックネームだ。古瀬《こぜ》だから、コゼット。単純極まりないが、メールの文面から感じる雰囲気から、そんなお淑やかそうな名前が似合うだろうと思って送ったら、古瀬もその喜びをメールで送ってきた。それ以来、古瀬はコゼットで、私はニーチェと言う渾名で、メールを送りあっている。

 メールの送信ボタンを押し、送信が完了されたのを確認すると、私は一階に降りるためにパソコンの電源を落とした。


  ◇古瀬 3

 かたりと、縁側で音がしました。

 珍しいことです。いくら古いわたしの家とはいえ、縁側において音を鳴らす原因に心当たりはありません。私は立ち上がり、音のした方向に向かいました。

 縁側を覗いた瞬間、一瞬息が止まりました。

 そこには、すらりとした背格好の方が居りました。

 縁側の外、広がる青空の方に体を向け、縁に座っています。私と目が合うと、そちらも身を硬くしたようでした。

 こちらを見つめる「彼」の目に、私は吸い寄せられそうな印象を受けました。外の景色と双璧をなすほどの綺麗な水色をしています。精悍とした顔つきと共に、何と無く聡明な印象を受けました。

 おそるおそる、声をかけてみます。

「……どちらから、いらしたのですか」

 声は聞こえたようでしたが、返事はありません。突然現れたのですから、当然ではあります。

 私はひとまずこの家に訪れた衝撃から立ち直れましたが、なおも頭の中には疑問符が浮かび上がっていました。なんといっても、家の外から一歩でも出ればそこは空なのです。道も何もないただの空間。飛ぶことが出来ない限り、ここに来ることはできないはずです。一体全体どうやって、ここまでたどり着いたのでしょうか。

 早くその疑問について尋ねたくて仕方ありませんでしたが、彼はすぐに私から視線を外し真っ直ぐに前方を見据えました。

 思わず、私は訊きます。

「隣、座ってもよろしいですか」

 沢山の疑問があるはずなのに、質問ではなくそんな台詞が出たのは、空を見つめる彼の青色の目が、なにか私に語りかけてきたように思えたからかもしれません。

 一瞬の間を空けて、彼が空を見たまま頷いたように見えました。

 そっと近づいて、でも少し間を空けつつ横に正座します。

 私の心音が大きく響くように感じました。

 こういうときは、どうするべきなのか。私は分からないまま、彼と共に空を見つめていました。


  ●三本木 3

 私が、子どものときの記憶。

 あれは、いつのことだったろう。小学生ぐらいのことだったと思う。

 私は、自分の苗字が嫌いだった。

 仁井。

 その理由は、昔のエピソードにある。

 友達に呼ばれるとき。どうしたって苗字に「ちゃん」や「さん」を付けられる。当然のことだ。

 ところがそうすると、発音の上では「兄ちゃん」「兄さん」になってしまう。男の子のように扱われる。授業で先生が私のことを呼ぶときも、周りでくすくすと笑いが起きる。いつまで経ってもこのことでからかわれ、私は、傷ついた。

 そのことを、なんでもないことと割り切ることは出来なかった。

 私自身にとって、苗字は、切り離すことができないもの。

 母の苗字。

 父と離婚したときに、母は私に何も言わなかったけれど、私には分かっていた。恐らく母は、もう再婚する気はない。だから、苗字は変わらない。母の子どもである私も「仁井」を背負わなければいけない。それが社会におけるルールだ。

 いつまでもついてくる苗字のことを言及されることに物凄く嫌悪を抱く日々。暗い、私の一部分。

 それを引き上げてくれたのは、一人の同級生だった。

 その同級生は私のことを、「ニーチェ」と呼んだ。

 「仁井」だから、「ニーチェ」。

 単純極まりない、その渾名。

 やがてそのニックネームは周りに広まり、私は前のようなからかわれ方をすることはなくなった。

 このことが私にとって、どれだけ救いになったことか。

 その同級生は私に、名前を付けてくれたのだ。

 後でその人は「ニーチェ」がドイツの哲学者であり、そして男性だということをこっそりと私に教えてきたけれど、もうそんなことは関係なかった。

 もうそれは、私の名前だからだ。

 

 私は今でも、そのことを覚え、感謝している。

 名前を付けてくれた、その同級生のことも。

 その同級生の名は、三本木。

 それから私と三本木は別れ、別の道を歩むことになる。

 高校における、再会まで。


  ●仁井 4

 翌日。

 早朝学校に着いた頃、コゼットからメールが来ていた。急いで見てみる。

 コゼットから来たメールは転送設定をしているので、パソコンに届いたものが携帯電話の方にも来るようになっている。

 添付ファイルがある。空の写真。今日の朝に撮ったものらしい。

 綺麗な青色に浮かぶ、薄い雲。下の方には町並みが広がる。家も車も人も、点の様に小さい。街を分断する大きな川と、外れに広がる山並み。私はその写真の迫力にため息をついた。

 空の部分の他にも、気になることがある。写真の下方に急に違うものが映っているのだ。よく見ると、まるで家屋の廊下。この写真を表現するなら「家を一歩出るとそこは空でした」とでもなるのだろうか。

 こういうのを見るたびに、コゼットがメールで言っていた言葉を思い出す。

「私の家は、空の上にあります」

 メールをやり取りし始めた頃、彼女はこんなことを言っていた。最初は本当かどうか疑ったけれど、送られてくる写真は、飛行機からしか撮ることができないようなパノラマ写真。このようなものが沢山送られてくれば、思わず信じても良い様な気がしてくる。

 とりあえず画像は保存。文章は後で読もうと決意し、私は携帯を閉じた。

 昼休みの教室で、早速コゼットから来たメールを読む。

 サイダーをグラスに注いだときの様な色。すごく綺麗な表現だ。前から思っていたが、コゼットは言葉の使い方が上手い。敬語を崩さない文章と相まって、私の適当な文章で構成されたメールが恥ずかしくなってくる。

 私が書いた悩みについての話にも言及してあった。

 相談。確かに昨日書いたメールには詳しい内容は書かなかった。私自身何が引っ掛かっているか良く分からなかったというのもあるけれど、具体的に言ったほうが良かったかもしれない。

 でも、思ったことがあった。私はこの最近の理由なき悩みを誰かに相談するという考えが丸ごと飛んでいたのだ。もし悩みの原因が何か分からなくても、自分が思うことを誰かに話すことですっきりする事があるかも。

 メールでも良いからコゼットにちゃんと話を聞いてもらおう。私はそう思って携帯を操作し、メール新規作成を押した。何か打とうとしたが、件名が思いつかない。暫く考え、あきらめる。残りはお昼を食べてからにしよう。私は机の横のバッグからパンを取り出した。


  ◇古瀬 4

 私は、じっと軒に座り外の空を見ている彼に、再び尋ねました。

「そちら様はどちらから、いらしたのですか」

 彼は口を閉じてじっと座ったまま、空を見つめ続けています。いい加減何か訊かなければいけない気がしてきました。しかし私の問いにも答えません。

 ここを動かないあたり、悪いことをするわけではないと思うのですが。

 しかし私はなんだか奇妙な感覚にとらわれています。

 ……彼と、どこか出会ったような気がするのです。

 いえ、知り合いというわけではもちろんありません。なんというか、どこかで見かけたようなそんな印象です。昔の話でしょうか。

 私は質問を変えます。

「お昼の時間ですけど…… 何か食べますか?」

 彼は一旦こちらを向き、また目線を前方に戻します。おそらく否定の合図でしょう。私はそう思い、ワンピースの裾を払って立ち上がりました。

「何か御用があったらおっしゃってください」

 私が縁側を去るとき、後ろから声が聞こえました。もしかしたら、彼の返事だったのかも知れません。


  ●三本木 4

 放課後。私が三本木の部室を開けると、物凄い刺激臭が漂って来た。

「なに、これ」

 今日も三本木がいるかなと思って部室棟に来てみると、昨日と同じように翼型の物体を弄る作業を続けていた。右手に持っているのは刷毛。翼の周りには和紙のようなものが床を敷き詰めるようにばら撒かれてある。

 三本木は私のほうを見て喉の奥で笑い、それから宣言した。

「計画は次の段階に移行した」

「どういうこと?」

 訊きかえすと、三本木は模型を見下ろして、

「駆動の機構はもう完成したようなものだから、次はこいつに肉をつける作業だよ」

 と言って、床に置いてある缶に刷毛を突っ込んで染み込ませてから、翼の骨組みである木材に塗り始めた。缶には接着剤の文字。臭いの原因はこれか。

 骨組みにべたべたと接着剤を塗り、そこに紙を貼りつけるらしい。そんな華奢な翼で飛べるかどうかは甚だ疑問だけれど。それどころか翼が動き出したら紙がボロボロと外れそうな気さえしてくる。

 私は隅にバッグを置き、部屋の奥に行って窓を開けた。がたりと音が響く。

「こんなのじゃ、接着剤の臭いで死んじゃうよ」

 背中を向けたままの三本木は何も答えず、刷毛を駆使して接着剤を塗りたくる。

 私は相変わらず何もすることがないので、窓の横の丸椅子に座ることになる。窓の外の街並みと空を見ながら、コゼットに送る悩みメールの具体的内容でも考えることにしよう。

 昨日も思ったことだけれど、三本木は気配なしに近づくのが得意らしい。ぼうっと曇り空を見上げる私の横で、急に声を掛けてきた。

「そういえば、ニーチェ。君の家にパソコンはある?」

「あるけど。しばらく前に買ったやつが」

「そう。……それならこれをあげよう」

 三本木は私の前にすっと何かを出してきた。……これは、CDケース?

 なにこれ、と私が訊こうとするのを制するように三本木は言う。

「中身は、秘密。家に帰ったら、今日にでもみるといい」

 そう言ってまた作業に戻る。なにかこれ以上の質問を避けているようでもあった。まあ、三本木が渡す物だから、大した物でもないのかもしれない。

 三本木のほうはべたべたと翼に紙を貼り付け続けている。なるほど、こうしてみると昨日よりは翼に近づいた気がする。紙が白色だからそう思うのかもしれない。

 こんなものを背中につけたら、まるで天使だ。

 私はCDをしまい、また窓際で空を見る。相変わらず、灰色の曇り空。得体の知れない水蒸気の塊が色々な方向に動き回り、空の青は一切見えない。確か天気予報で、大きな雲がこの辺りを覆い始めたと言っていた。これがそうだろうか。

 結局、その翼が完成したのは日が暮れる頃だった。

 白き羽毛をまとった翼。一対の羽の中央にはそれを背負えるよう、湾曲した背とベルトが付き、横には手で回すハンドルがある。そのハンドルで、羽が羽ばたく、というのが三本木の説明だった。実際に翼を動かす様子は私に見せてくれず、それは飛行予定日のお楽しみ、とのことだ。

 バタンと部室の扉を閉め、私と三本木はそれぞれ家路に着く。テスト準備期間だから、早く帰宅しなければ教師に叱られる。

 翼を見ながらいつもより少し気分が高揚しているような三本木を見て、私は言いようのない不安に駆られる。変に晴れ晴れとした三本木の顔。今すぐにでも、三本木がこの翼を付けて空へと飛んでいく様子が、頭に浮かぶ。私の手の届かない、高い空へ。

 翼をつけ天使のようになった三本木を想像しようとしたが、うまくできなかった。それだけが、救いだった。


  ●仁井 5

 そして、それに気付いたのはその日の夜、バッグからCDケースを取り出した時だ。

 私は部屋のベットに座り、プラスチックのCDケースを見つめる。真っ白な表紙で何の変哲もないのに、何か変だ。その違和感を確かめるために、CDケースを横から見てみる。やはり、ケースの表面が盛り上がっている。何か挟まっているように。

 ケースを開けてみると、はらりと紙が膝の上に落ちた。四つ折りの紙で、厚いケント紙のように見える。ケースに無理やり挟んでいたらしい。

 この黄色っぽい紙をどこかで見たことがあると思ったが、確か三本木が翼の設計図に使っていたものではなかっただろうか。あの部室に何枚も散らかっていたのと同じ物だ。どうしてこんな物が挟んであるのか。三本木が間違えたか、それとも。

 ――中身は、秘密。

 数時間前の三本木の言葉。あれから察するに、三本木はこの紙を意図的に挟んだのかもしれない。何かのメッセージかなと思い、折りたたんである紙を開く。

=====

  飛行計画

 製作場所:天文科学部部室(部室棟一階)

 製作:設計図作成

外形製作

機構製作

外枠製作

肉付け作業

 飛行日時:4月11日 午後6時

=====

 書いてあるのは、これだけだった。

 飛行計画……?

 薄い筆跡からどう考えても三本木が書いたものだ。

 どうしてこんな物が。三本木は翼製作のときにこんなものを書いてはいなかったはず。

 そして、最後の一行、「飛行日時」。

 四月の十一日。

 つまり、今日の夜のことだ。

 すっと、私の周りに冷たい空気が降りた気がする。

 確かに今日の放課後、三本木は翼が完成したと宣言した。軽くて細い木と真っ白な紙で形作られた翼。でも今日すぐに飛行を試す計画なんてしていなかったはず。

 これがメッセージ?

 ……ふと、最近私が見たものや聞いたものが繋がっていく。三本木の発言。とりつかれたように翼を製作する姿。今日完成した白き翼。渡されたメッセージ。今夜に設定された飛行予定。そして、翼が完成したときの三本木の変な様子。

 背筋がすこし寒くなり、部屋が自分のものでなくなった気さえした。嫌な予感が走る。

 私は飛びつくように机のパソコンを起動し、すぐにCDを入れる。

 そして数分後。

 私は、部屋を飛び出していた。


  ◇古瀬 5

 メール受信完了の音で、私は目を覚ましました。

 家の茶の間。目の前には、受信を知らせる画面が光っています。

 どうやらお昼を食べた後、眠ってしまっていたようです。すぐ前のサッシに目をやると、溶けたような薄暗い赤色の空が広がっています。いくらお昼寝とはいえ、私は夕方まで寝てしまっていたのでしょうか。何か、寝ている間に夢でも見ていたような気もします。

 暫くして、私は午前の出来事を思い出しました。

 彼は、もう縁側にはいないでしょうか。

 確かめようと思いつつ、メッセージのほうに私の目は吸い寄せられます。

 メールを開くと、差出人はニーチェさんでした。

 朝の返事でしょうか。もしかしたら、地上の写真を添付してくれているかもしれません。わくわくする気持ちを抑え、文面を読み始めます。

 それほど長くない文章を認識するのに、時間がかかりました。

 ニーチェさんのメールは、朝の返事でも写真でもありませんでした。でも恐らく、今までで一番重要なメールのような気がしました。

 私はばねの様に思い切り立ち上がり窓へと駆け寄ります。

 ニーチェさんの願いです。私が応えない訳には、いきません。


  ●三本木 5

 部屋を出た私はとりあえず電話を掛けることから始めた。

 一階に物凄い速さで降り、リビングの引き出しから連絡簿を引っ張り出す。掛ける先は、寮。学校公認アパートのようなもので、三本木はそこに暮らしている。おそらく電話をしても徒労に終わると思うけれど、わざわざ寮まで走っていたら時間が過ぎてしまう。

 数コールの後に管理人が出る。私は三本木の同級生であると名乗り、そこに三本木がいるかどうか確認してもらう。時間がかかると思ったが、受話器の先の管理人はすぐに、三本木が寮にいない旨を伝えてきた。玄関にある三本木の名札が外出中になっているらしい。どこに行ったのか訊いてみるが、管理人は知らないようだった。

 三本木が、いない。その事実が私の想像に対する証拠のように圧し掛かる。

 どうすればいいかわからないまま、私は家を出て、走り出した。

 外は太陽が沈みかけていて赤黒い光が周りを覆っている。飛行予定、六時。それほど時間は残されていなかった。

 走りながら、私の心に後悔が侵食してくる。

 どうして、気が付かなかったのか。

 私が思いもよらなかった、三本木の計画。

 頭の中に、数分前まで見ていたCDの内容が浮かぶ。CDに入っていたのは、一本の動画。画面の中の三本木が、私に語りかける。

   ――ねえニーチェ、今何時?

   ――これに気付くのは大体いつのことなのか、ちょっと気になるな。

   ――もしかしたらもう、六時を過ぎているかもしれないね。

 恐らく、あの部室で撮った映像。三本木の微笑んだ顔がアップで映る。後ろには翼模型の姿も見える。

 滔々とした口調。

   ――四月十一日の午後六時というと、多分日が暮れ始める頃だろう。

 なぜ、三本木があんな翼を作っていたのか。

 私はその理由を勘違いしていた。

 翼が完成したとき、変な様子だった。喜んでいるような、泣いているような。

 あの表情の真意に、気付かなかった。

   ――取り敢えず、計画通りに製作が進んだからよかった。おそらくこの予定は確定だ。

 そして製作の様子を見守っていた私に、渡したこのメッセージ。今まで私に見せていなかった計画表まで入れて。

 あのCDにメッセージと計画表を入れたのは、この時間、六時前後に私が気付くように仕組むためだった。少なくとも、私が家に帰るまで知られるわけにはいかなかったのだ。計画を私に邪魔されないように。

 寒気だけが、私を包む。

 そう、三本木は。

 

   ――その時、飛ぶ。

 あいつは、死のうとしているのだ。

 暗闇が周りを占め、赤が黒に変わる。

 幹線道路に差し掛かり、歩道橋を駆け上がる。呼吸が乱れてきた。トラックのクラクションが遠くのほうで鳴った気がする。橋を急いで渡る。

 私の耳には近くの車の音よりも、三本木の声の方が響く。

   ――本当は、教えるつもりはなかったんだけど。

   ――ニーチェはあの製作にいてくれたからね。

   ――まあメッセージとして、これぐらいは教えてもいいなと思ったんだ。

 空を飛ぶなんて、わざわざ回りくどい言い方をして。

 本から引用したようなありきたりな理由を私に言ってごまかし。

 何かに急かされるように、一人誰も来ない部室で翼という「言い訳」を作ったのだ。

 「空を飛ぶ」、すなわち、飛び降りることを暗に示して。

   ――もしかしたら今なにを言っているかニーチェに分からないかもしれない。

   ――でも、すぐに分かる。今夜、空を飛ぶ。

 空を飛ぶなんて戯言を鵜呑みにして翼の製作を見守っていた私に、CDを渡した。

 メッセージという名の、遺書を。

 この地上からの、最後のお別れを。

 もし私に直接こんな計画を言おうものなら、三本木を必死で止めるであろうことは分かっていたから、ちょうど私がこのメッセージを見るときに計画を遂行できるように計画を立てていたのだ。

 ひたすらに、私は走る。

 嘘であって欲しかった。

 この考えがただの杞憂だったら、どんなにいいだろう。

 こんな自殺騒ぎなんて妄想、本当のはずがない。誰だってそう思うだろう。

 でも、それは違った。

 私のかすかな願いは、打ち砕かれる。

 最後のメッセージは、こんな一言だったから。

   ――さよなら、ニーチェ。

 どうして、そんなことを言うのだ。

 まるで、もう二度と会うことが無いと言わんばかりの口調。

 ただ飛ぶ真似事をするだけならば、まったくもって言う必要のない台詞。

 普通の同級生なら笑って気軽に済ませる口上。

 それを、三本木は画面の向こうで、今までに見たことの無い表情で言ったのだ。

 どこか諦念の浮かぶ引きつった顔で、私に告げたのだ。

 そしてその表情は、私に一つの事実を伝える。

 ああ、三本木は本当に死ぬ気だ、と。

 とりあえず、止めなければいけない。私はそう思った。

 理由で自分を固める前に、部屋を飛び出した。

 三本木を見つけなければいけない。この街のどこかで翼と共にいるであろう、私の同級生を、止めなければいけない。

   ――さよなら、ニーチェ。

 そんな言葉を聞きたいために、一緒にいたわけじゃない。

 三本木に伝わっていないなら、私が伝えるしかない。

 私が止める。

 リミットの六時まで、まだ、まだある。


  ●仁井 6

 私の行き先は走っているうちに決まっていた。

 学校の部室棟、一階の一番端の部屋。三本木と私がいた、翼の在り処。

 例えただ飛び降りる気でも、翼は持っていくだろうと思った。三本木の、拙い言い訳。恐らく最後まで、空を飛ぶと言って計画を遂行するだろうと思った。わざわざ手間を掛けて作ったわけだし。

 でも、どうしてあれだけ翼の製作に時間を掛けたのだろう。あんなに凝らなくとも良かったはずなのに。

 ……そうだ。私は、その訳を知っている。そしてその訳は、私が三本木に伝えなければならない。

 学校前の坂を駆け上り、門の横にある並木の間をくぐる。部室棟の方向に走った。辺りは暗闇の割合が増え、人はもういない。部活動をしている生徒がいても良かったはずだけれど、私はすぐにその理由を思い出す。テスト準備期間だ。教師のほかには、何らかの理由で残る幾人かの生徒しか学校にはいない。恐らく三本木は計画を立てたときにここまで考えていたのだろう。飛び降りる前に姿を目撃されて揉める訳にはいかないから。

 部室棟の一番端まで駆ける。ドアノブを引っつかんで回すがドアは開かない。鍵をかけたのか。犯人は天文部室を勝手に使い続けた三本木自身か、それとも用務員か。案外すんなりと開くかと思っていたので、私はあせって何度も押し引きを繰り返す。相変わらずびくともしない。

 飛行計画の最後の文が浮かぶ。

   飛行日時 午後六時

 押さえつけていた寒気が、一気に噴出してくる。

 本当に飛ぶつもりなのか。あんな張りぼての翼をつけて。……それはまるで本当の、自殺行為ではないか。

 あの三本木が。

 同時に私の心には諦念すら浮かんでくる。どうやって見つければいいのだ。部室にもいない、寮にも帰っていない。この街のどこか、高いところに三本木はいるかもしれない。でも、どこに?

「……あと、何分……」

 携帯を開くと、時刻は五時五十二分とあった。あと八分。連絡手段も心当たりも無い相手を、八分で見つける。どう考えても不可能だ。

 部室まで私が走ってきた理由。それはこの部室が数少ない心当たりの一つというのもあるけれど、三本木がもしかしたらいるのではないか、そう願ったからだった。もしこの部室に翼があったなら、それを壊してしまっても良かった。……そうしてでも私は三本木を止める気があるのに、今の私にはどうすることができない。どこにいるか、分からない。

 あまりのパニックに、足が動かなくなりそうだった。

 ぐらりと気が遠くなりそうになる手前。携帯の下のメッセージに引き寄せられる。

「未送信メール 1件」

 おそらく今日の昼、コゼットに悩みの具体例を送ろうとして、結局何も書かずに保存したメール。それ自体には何の意味も無い。今重要なことでもないのだ。……でも、今の私は、なんでもいいから縋りたかった。

 現実的ではないことは、分かっていた。でも、コゼットなら。

 保存していたメールに、本文を打ち込む。

=====

DATE:4/11 FROM:Nii1212 TO:Koze.T

いますぐに私の同級生の姿を見つけて

白い張りぼての翼を持って 高いところにいるはず

たすけて

=====

 コゼットならば。

 空から見下ろせば、見つかるかもしれない。三本木の居場所が、分かるかもしれない。

 送信ボタンを押し、私は祈った。

 コゼット、助けて。


  ◇古瀬 6

 私の、ニーチェさんに関する記憶。

 うたた寝の中で私は、それを夢として思い出していたのでした。

 私とニーチェさんがメールをやり取りする遥か前に、私はニーチェさんを知っていたのです。

 その出来事があったのは、しばらく昔、六年ほど前のこと。

 私は、ある道端で子猫を見つけました。

 その子猫は、よちよちと草原をうろついたり虫にじゃれ付いたりしていました。

 何か気になるものでもあったのか、子猫は道の横に立っている木に登り始めました。まだ若い桜の木です。ところが、四本の足を駆使し順調に登っていったのはいいのですが、端の方の細めの枝に乗ってしまい、身動きが取れなくなりました。バランスをとるのが精一杯で、足を動かすのも無理そうでした。

 子猫は下を向いたまま、ぎりぎりのところで踏みとどまっています。まだ高いところが怖くて降りるのも無理そうでした。

 助けてあげたい、と私は思いました。落ちても怪我はしないでしょうが、怖がって下りたがっているのを見捨てたくはありません。

 でも、そのときの私に、助けることはできませんでした。

 私は、空にいたからです。

 私が子猫を見ていたのは、家の軒からでした。ですから近づくことも手を差し伸べることもできません。地上に降りるわけにはいかないのです。

 ああ、自分は無力なのだな、と思いました。困っている他者を、私は助けることができない。こうやって、枠の外から見ていることしかできない。自分が嫌になりそうでした。

 

 するとそこに、二人の小学生が通りかかりました。私と同じくらいの歳で、二人ともランドセルを背負っていました。

 やがて片方の子が、道端の木にすがる子猫の存在に気づきました。

 そしてその子はちょっとその姿を見た後、子猫に手を伸ばし、そっと抱き寄せたのです。

 そのまま少し手元で子猫を撫でた後、猫をそっと道に下ろしました。子猫は降りることができたことに喜んでいたのか、またよちよちと草むらを歩いていきました。

 その二人の小学生は、猫を見送りながら何かを話し、そして道に沿って歩いて行きました。

 その片方の小学生が、ニーチェさんです。

 その出来事は、私にとってひとつの考えを生む重要な思い出になりました。

 困っている人に、手を差し伸べる重要性。

 そして、この世界の、小さな光。

 月並みな言い方をすれば、自分の道が見えてきた、そんな気がしました。

 ニーチェさんとメールをするときは、たまにそのことを思い出します。

 たまにニーチェさんは私のことを褒めてくださるのですが、それと同じほど、私はニーチェさんに憧憬の念を抱いています。

 いずれ、それはニーチェさんに伝えなければいけません。

 とりあえず、そのときに私が泣かないように我慢しなければいけないかもしれません。


  ●三本木 6

 私の、この前の記憶。

 私が三本木と再会したのは、この高校がきっかけだった。

 とはいえ、何も難しい話ではない。細かく引越しを繰り返していた私が、四月偶然入学した高校に、三本木がいたのだ。

 偶然と言ってしまえばそれまでだけれど、私自身はそれ以上のものに感じていた。

 小学校以来の再会。

 私にとって知り合いというのは、その場所ごとに作り出す繋がりのようなものだったから、またその人に会うというのはおそらく初めてのことだった。

 今でも、三本木をこの目で見つけたときの動揺は覚えている。

 あの時とほとんど変わらない、賢そうな横顔。

 入学式では三本木に気づかなかったというのも、その時の私の慌てぶりに拍車をかけた。

 三本木は私の十歩ほど先で、校舎に沿うように歩いていく。二十本ほどの細く短い木材を薪のように片手に抱え、私から離れていく。今まで見たことのない三本木の制服姿。

 心臓の鼓動が浮かび上がってきた。脈が速くなるのを全身で感じる。

 声をかけなければ、と思った。ここで三本木と話さなければもう二度と会えない、そう思った。

 私の想いを、伝えたいと思った。

 ひとつはお礼。私に付けてくれた大切な名前に対して。もう、私にとっても三本木にとっても過去のことだから、覚えていないかもしれないけれど、それでも言いたかった。

 もうひとつ、言いたい事がある。

 私は早足で三本木に追いつこうとする。

 どうしよう。どうやって声をかけようか。というか、私は今まで三本木のことをなんて呼んでいただろう。もう忘れてしまった。

 もしかしたら私を覚えていないかもしれない。三本木の性格が変わっているかもしれない。ただの同級生として体よくあしらわれるかも。付き合っている人がいるかもしれない。

 色々な不安が脳に飛来しつつ近づいて声を掛けようとした矢先に、三本木が振り向いた。

「わっ」

 動揺して躓きかける。足が絡んだのなんて久しぶりだなんて思いながら、立て直して三本木を見上げる。

 三本木のそのきょとんとした顔は、私の小学生のころとあまり変わっていなかった。いや、前よりもきりっとしていて、もっと賢そうに見える。近づいて改めて思うけれど、背も少し大きくなった。変わった点をもっと探そうとしたけれど、そこで三本木と目が合い、思わず止まってしまう。

 引き込まれそうな黒い瞳。心音がまた跳ね上がる。たぶん、三本木は前とそこだけが変わった。小学生の頃は、そんなに気にも留めなかったのに、透明感のある視線に、黒一色の瞳孔に、私は時間を止められる。

 ほんの一瞬、本当に周りの空気が止まった。

 そして私の頭の中に、一つの考えが灯される。

 私は、三本木のことをずっと忘れていなかったのだと。

 会いたくて、たまらなかったのだと。

 やがて止まった時間を動かそうと、私は声を上げる。

「あ、あのっ。……私、覚えてる?」

 一気に押し寄せた衝撃に舌が絡んでしまった。というか私はいきなり何を訊いているのだ、と後悔も浮かんでくる。

 目の前の同級生は、数拍ほど私の顔を見ていたが、何かに気付いたようで微笑んだ。

 懐かしい声で、言う。

「もしかして、ニーチェ?」

 ……本当に、この人は。

 私の鼓動を、何度狂わせれば気が済むのだ。

 呼ばれただけで身体の奥から感動があふれ出てくる。

 覚えていてくれた。私のことを。

 それだけで、どれだけのことか、三本木は分かるのだろうか。

 その後。

 二言三言近況について話した後、三本木は自分が持つ木材のことについて話し始めた。話をまとめると、部室棟の空き部屋を使って、何かを作る予定らしい。聞けば毎日、そこに通っているとのことだった。

 話しているうちに、やはり昔の三本木とは違うな、と思う。いや、なんというか、「違う」というよりも「変わった」のほうが正しいかもしれない。特に目の辺りが。

 それもまたいいなと思ってしまう私自身に、心の中で赤面する。

 でもこの出会いは、そんなものを吹き飛ばしてしまうような光に満ちていた。

 後から思えば、私は思いを伝えるために三本木に声を掛けたはずなのだけれど、即物的なその時の私は、三本木と一緒にいることを、優先したのだった。

 私は、もう一つのお願いを叶えてもらおうと三本木に訊いた。精一杯、ごまかしを込めて。

 また、一緒にいてもいいか、と。

「ねえ、私もその部室に行っていい?」


  ●仁井 7

 あと数分、じっとしているわけにはいかない。

 なにか無いか。私はメールを出した後、部室の前できょろきょろと辺りを見回す。

 窓、窓だ。数時間前のことを思い出す。今日の放課後、部室に来たとき、私はあまりの異臭に窓を開けた。三本木が換気なしで接着剤を使っていたから。そして暫くしてそれを閉めたのも近くにいた私。そのとき、窓の鍵は――かけていない!

 部室棟の反対側、窓のある建物の裏側に回りこむ。裏側の地面は背の低い雑草が生え、建物から数メートル離れると急な斜面になっている。街並みはいつも部室の窓から見るような無機的な升目模様の建物群とは違い、ぽつぽつと明かりだけが見える。このどこかに、三本木はいるのだろうか。

 窓に手を掛け、祈りながら力を入れる。がたりという音と共に、開く。

 桟に手を掛けて覗き込む。

 暗い室内だったけれど、一つ確実に分かった。

 翼が無い。

 部屋の中心に鎮座していた、文字通りの張子の虎。やはり、持っていったのか。私を家に帰らせるために一旦帰る振りをしたのだろう。計画を邪魔されないように、わたしがきちんと帰宅するのを見届けてから、翼を運び出して「どこか」に行ったのだ。

 これで、とうとう翼を壊す作戦も不可能になった。

 ふと、三本木が死ぬなんてありえないのではないか、という根源的な疑問が湧いてくる。翼を持ち出したのだって、どこかで飛ぶ練習でもしているのかもしれない。私の考えすべてが変な妄想だったのかも。

 でも、と思った。

 それなら三本木は、どこにいるのだろう。私に渡したメッセージは、どういう意味だろう。

 あんな顔をしている三本木をはじめて見た私は、わかる。三本木の言葉は嘘ではない。

 部屋の中から、数時間前まで使っていた接着剤が原因であろう刺激臭が漂ってくる。

 思えばあの時、三本木は換気もせずに作業をしていた。そして私が「接着剤の臭いで死んじゃうよ」と言ってこの窓を開けたわけだけれど、もし私がその時部室に行かなかったら三本木は倒れるか何かしていただろう。まるで自殺だ、と思い、また背筋が凍る。

 表のほうに戻ってどうすべきか考えようとした瞬間、メールが来た。

 コゼットからだった。

=====

DATE:4/11 FROM:Nii1212 TO:Koze.T

学校の屋上の端に、人がひとりと翼の模型が見えます

=====

 お礼の返信も忘れ、私は校舎に走って向かった。


  ◇古瀬 7

 私は準備を始めました。

 おそらく時間はそれほど残されていないでしょう。急がなければいけません。一通り支度を整え、我が家の玄関に向かおうとしたとき。

 近づいてくる「彼」の姿がありました。

 縁側にいた時と同じ、すらりとした体つき。

 もう日没ですから、昼前から何時間もこの家にいたことになります。

 何か御用ですか、と尋ねようと思ったところで、突然私の頭の中に光が入ってきたような気がしました。

 彼に対する既視感の内容を、思い出したのです。

 先ほど見た夢。それが呼び水となり、彼の正体を形作ります。

 彼に対する印象。それは、既視感ではなく……

「もしかして、あの時の……」

 彼は近くで止まり、こちらを見たまま身動きしません。

 もしかして私は、彼を見たことがある?

 数秒の間呆けていましたが、今はそれどころではありません。

 ところが、話しかけようとした彼の目に、意思が読み取れることに気づきました。

 じっと彼は私を見つめ続けます。

 一緒に行くという意味に、根拠なく感じました。

 もしかしたら、彼は「このため」にこの家に来たのかもしれません。縁側に座っていたのも、ただ空を見ていたわけではなく、彼なりの使命があったのでしょう。

 私にも、使命があります。

「付いて来てくださるのですか」

 聞くと、僅かでしたが、確かに彼は頷きました。

「では、行きましょう」


  ●三本木 7

 私の、しばらく前の記憶。 

 おそらく、小学校の高学年ぐらいのことだろうと思う。あまりに昔で忘れたのかもしれないし、自分が捏造した思い出なのかもしれない。

 私はふと、その思い出に浸る。

 あの時、何を話していたのか、私は思い出そうとする。あの時のわたしが、乗り移るように重なってきた。

 私は、木の上で動けない猫を見つけたのだ。

 そのとき私は授業が終わり、三本木と一緒に家路に就いていた。

 アスファルトの横でひっそりと立つ、小さな桜の木。それほど高くない、せいぜい三メートルぐらい。葉もそれほど多くない。

 小さな猫は、その微妙に細い枝に乗っかったまま、下を向いて動かなかった。

 猫って高いところが苦手だったっけ、と思う。まだ子猫だから、この高さでも恐怖に感じるのかもしれない。大きくなった猫は、高いところでも縦横無尽に移動していたはずだ。

 枝はぐらぐらしていなかったけれど、その子猫は足を細かく動かしバランスをとっていた。ものすごく降りたそうに、私には見えた。

 思わず手を出して、子猫を抱きかかえる。手元に引き寄せてもその子猫はおどおどしっ放しだったが、喉を軽く撫でると気持ちよさそうに目を細め体を丸くした。

 やがて私の手元にいるのに飽きたのか、足を動かし始める。本当に高いところが苦手なのかもしれない。しゃがんで降ろしてやると、ふらふらと歩いていった。

 よこを歩く三本木が、わらう。

「いいことをしたね、ニーチェ」

「そう?」

「なかなかできることじゃない、と思うよ」

 三本木のほめ言葉に、わたしは首をかしげる。

「なんというか、助けてって言ってる気がして。……わたしも、高いところやだから、同じ気持ちになったのかも」

「苦手? 高いところ」

「うん」

 二人で歩きながら、ぽつぽつと話す。家までは、もう少しある。お母さんが帰ってくるのがおそいから、ゆっくり帰ってもおこられない。それにお母さんにおこられたことは、あまりない。

「じゃあ、空を飛ぶのとかはどう?」

「むりむり。三本木くんは飛びたい?」

「まあね、飛べたら気持ちいいかもしれない。でも落ちるのは、こわいかな」

「でしょう。そのこわいのがやだ」

「じゃあ、飛行機とかは?」

「あれは、あんぜんそうだからいい」

「かってだなあ」

 そういってわらう。なんだか、三本木くんのそういう大人っぽいところが好きだった。はずかしいから言わないけれど。

 わたしは三本木くんを見て、言ってみる。

「じゃあ、こうする」

「なに?」

「三本木君が飛んでるときは、私が下で、まっててあげる。帰ってくるのを」

「あはは、よろしくたのむよ、ニーチェ」

 空を見上げると、わたしは言う。

「雨、ふりそうだね」

 すうっと、思い出が薄らいでいく。

 その映像はあまりにも綺麗で、輝いていて、美しかった。

 あまりに昔のことで、本当に私たちがそんなことを言っていたのか、分からない。

 でも、それでいいと思った。

 私がずっと、この思い出をとっておけばいいのだ。

 私が思っていることを、誓ったことを、守ればいいのだ。

 でも、三本木はひどい。

 それにしても、私のあの言葉を告白に取れないとは、三本木も鈍いものだ。

 あまりに自分勝手な私の考えに、自分でおかしくなる。

 そして、現実に戻ってくる直前。

 私は昔、「三本木くん」と呼んでいたんだな、なんて気がついた。


  ●仁井 8

 高所恐怖症の私にとって、階段というのは微妙な扱いだった。

 コゼットからの連絡を受け取ってからすぐに校舎にたどり着いたわけだけれど、昇降口の扉には鍵がかけられていた。テスト期間だから、生徒が校舎内にいる必要はないということか。中央の来賓用玄関を使うのは目立つし、校舎内を通って屋上に行くにはどうしても屋上への鍵が必要だ。

 もうひとつ屋上への道がある。校舎の側面にある非常用階段。さびない金属でできたそれは壁に沿うように上に伸び、校舎の各階と繋がっている。これを使ったことはないけれど、見る限りでは屋上まで上ることは可能そうだった。

 普通、こういう階段は入り口が金網と鍵で封鎖されているはずだけれど、今そばに立って見ると鍵が開いていた。

 もしかしたら三本木もこの階段を使ったのかもしれないと思うと同時に、何者かに招かれているような気もしてくる。

 物々しい黒色をした階段は一見安全そうだったが、隙間が多く階下が見えるであろう構造は、高いところが怖い私をおじけづかせる。金属でできた階段ごと、校舎から剥がれ落ちるという妄想が頭をもたげ、足が少し震える。これで屋上まで行ったら三本木を助ける前に私は卒倒してしまうかもしれない。

 階段への一歩を踏み出せないまま私は屋上を見上げ、三本木の姿を想像する。夜の帳が落ち、月も雲に隠され、校庭にある街灯の光がかすかに三本木と手製の翼の姿を浮かびあがらせる。準備が完了し時が満ちた瞬間、周りを見渡し誰もいないのを見て取った後に三本木は虚空へと足を伸ばす。そんな像が浮かんだ。

 そうさせるわけにはいかない。

 私はイメージを打ち消し、一段目へ足をかける。下を見ないように気をつけながら、ただ一歩一歩踏みこむ。

 時刻はもう見なかった。その時間がもったいないという実情と、間に合うだろうという予感が心の九十九パーセントを占める。 

 そして残り一パーセントには、三本木が待っているという私の直感があった。

 待っているのなら、行くしかない。

 あのメッセージを受け取ったのは、私だから。


 

  ◇古瀬 8

 私の頭の中に、一つの曲が流れています。

 その曲は有名で、長さは2分ちょっと。題名の文字通り、助けを呼ぶ詩が歌われています。

 ややアップテンポな曲調とは裏腹に紡がれる、悲痛な歌詞。

 私が初めてこれを聞いたとき、なにかに動かされるような気がしました。

 人は必ず、助けが必要になるときがあります。心が軋み悲鳴を上げるときがあります。

 人が叫ぶその時、私はどうすればいいのでしょう。

 私の答えは、その歌詞に書かれています。

 そして私はいつもこの曲を心に刻み、忘れないようにしているのです。

 私が「誓い」を立てたときも、この曲が鳴り響いていました。

 空に住む私は、なにかひとつ「条件」を決めなければいけません。

 ただ自分のためだけに地上に降りるわけにはいかないのです。

 私は悩みました。

 空にいても地上にいても、すべての人を救うことは私にできません。

 でも、近くの人ならば。

 その人が助けを呼んだ時、私は是非、助けに行きたい。

 たとえなにもできなくとも、そばにいてあげたい。

 そう思って私は決めました。

 いつか、身近な人の助けの声を聞いたとき、それがたとえ地上でも、私はその人のもとに駆け付け、手を差し伸べる、そう誓ったのです。


  ●三本木 8

 屋上に上りきって、その声が聞こえても、私には実感がわかなかった。

 その実感というのは、今の状況全体かもしれないし、地上十メートル以上のところに立っている私自身かもしれないし、私の大切な人が自殺しようとしている事実かもしれない。とにかく体がふわふわと浮かんでいるような気がした。

 さっきスピーカーから聴いたのと同じ声が、私に呼びかける。

「やあ、ニーチェ」

 答えずに私は三本木がいるほうに近づいた。

 三本木がいるのは屋上の端、校舎内からの入口があるコンクリートの上の部分だ。小さな貯水槽の横のところで、翼とともに佇んでいる。いつもと同じ制服姿で、いつもと同じ固まったような微笑をこちらへ向けている。

 登るのはちょっと怖いところがあったので、すぐ下のところで止まり、三本木を見上げる。

 数時間前と何も違わない姿に見えた。

 突然、学校のあちこちからチャイムが鳴り出した。いつもは下校時刻に鳴るその鐘は、生徒のいない校舎や校庭に響く。それは私と三本木の耳にも入り、一つの事実を知らせる。

 四月十一日、午後六時。

「ついに、時間だ」

 そう言う三本木の顔は笑顔なのに、私には悲壮な顔にしか見えなかった。

 私が黙っていると、三本木はその高台から動かないまま私を見下ろして話し始める。

「正直言って、ニーチェが追いつくとは思わなかったよ。ここから飛ぶなんて、言っていなかったはずだし。どうやって見つけたのかはわからないけれど、せっかくだから、ニーチェが訊いてきた質問に答えてあげよう」

「……質問?」

「ほら、昨日ニーチェは訊いたじゃないか。『どうして空を飛ぶのか』って。なんだかニーチェは納得していなかったみたいだから、これで理解が進むかはわからないけれど、考えを話そう」

 三本木は一拍おき、考えがまとまったのか、手を広げた。

「万有引力っていうのが、あるだろう」

 私は黙って聞いている。風が吹き、羽根が少し揺らいだ。雲が動き、月の光を減らして、三本木の姿を闇にぼやかす。

「知っているかい、万有引力。質量を持つ二つのものに働く引き合う力のことだ。アイザック・ニュートンが名づけたことで有名だ。物理学によると、万有引力っていうのは、それらの物体の質量に比例し、距離の二乗に反比例すると言われている。だから、万有引力をなくすには、二つの方法しかない。どちらかの質量を零にするか、距離を無限大にするか。それはどちらも無理なことだ。だから、人間は万有引力というものをただ『あるもの』としか認識できない」

 私の顔にそれが何の関係があるのかという表情が浮かんでいたのかは分からないけれど、三本木は話し続ける。

「……でも、それじゃだめなんだ。それじゃいけない。それだから人間は、地球という巨大なものに縛られている。地球だけじゃない。質量のあるすべてのものに、人間は縛られる。引力という、避けられない鎖で。生きている限り、逃れられない。ひどいものだ。人間はそれが回避することのできない事実だと知ってそれから目を背けた。ただ存在するものとして認識し、自分たちがその力に勝てないちっぽけな存在であることを認めたんだ。知っているかい、地球の重力を振り切るためには少なくとも一秒間に十一キロを進むスピードがなければならないんだ。その計算を利用して、スペースシャトルは開発されている。どう考えたって、生身の人間には無理だろう」

 三本木が拳を固めるのが見えた。

「でも人間は、引力を振り切れなければいけない。絶対に。人間というものは、引力が振り切れないから、すべての事をあきらめる。自分自身をちっぽけな存在という認識に貶め、その一生を、ただ狭いところで過ごそうという考えしか浮かばない。狭い地球を奪い合うために戦争を続ける。ちっぽけな人間がちっぽけな人間を殺す。最後まで地球の引力に縛られたままに、命を終える。他者との関係に、妥協する。これは、ずっと変わらない。自分はなんでもできると思いこんでいる人のほうがまだましだ。この負の連鎖は、絶対に止まらない。……そう、引力を振り切らない限りだ」

 言葉を挟むつもりはなかったけれど思わず私の口から言葉が出た。

「……だから、空を飛ぶわけ?」

 三本木は、笑う。

「ふふふ。……そういうことだよ。人間というのは、生身では引力に勝てないと知ったから、考えを変えた。自分よりも強い力を使い、引力を振り切った気になっているんだ。飛行機、ジェットエンジン、スペースシャトル。それじゃあかえって、万有引力の強大さを認めたようなものじゃないか。結局『そこにあるもの』としてしか考えていない。……だけど、これなら別だ」

 横にある、翼を見る。闇に置かれる、白い羽根の塊。

「これで空を飛んだとき、その事実は変わる。人が初めて引力を、地球の重力を、しがらみを、振り切った証になる。これなら、それができる。今が、その始まりだ」

 三本木はこちらを見て、笑う。

「どれだけ伝わったかどうかは分からないけれど、こんなものかな。これが、飛ぶ理由だよ。ニーチェ」

「三本木」

 私は、決意を持って、呼びかける。三本木を、遮る。

「……今の話を聞いて、ちょっと思ったんだけれど。三本木はこの世界に、何かしがらみがあったの?」

 三本木が絶句したのを私は見逃さない。

「まるで今の台詞は、三本木が何かを振り切りたくて仕方がないみたいだった。鎖を切るように」

 でも、私には何も言う権利はない。

「私は三本木と久しぶりに会ったばかりだから、あなたの過去については知らない。何かあったのだろうとは、常々思っていたけれど。私があの部室に通ったのは、その理由を知りたかったからというのもあるの。ごめん、だから私は、三本木の考えに何も言うことができない」

 たぶん、と私は思う。今の三本木の口上は、私に何かを言わせたかったんじゃないだろうか。そしてそれをどうにか論破して、自分が組み立てた理論の正しさを証明するつもりだったのかもしれない。

 でも私は、そんな理論には何も言わない。

 用があるのは、三本木の理論じゃない。三本木自身だから。

 だから今、三本木は止まっている。組み上げた城を崩そうと尽力する私を期待していたのに、城ではなく、作り上げた自分のことを聞かれたから。

 最近の三本木に対する違和感が、今分かった。

 三本木は、自分が分かっていないのだ。

 自分を、見失っているのだ。

 だから、自分自身が何をしているのか分からない。戯言を並べ、勝手な理屈で自分を守った。そして自分自身を、ごまかしたのだ。

 ……なら、私は。

 私は、そのことを教えなければいけない。

 そのために、私は来たのだ。

 私は、精一杯、本当に全力で、おどけた。

「三本木、私はね、ここに着た原因なんてないの」

 本当の、ことを言った。

「原因というとニュアンスが違うかな。三本木がいなくなったから探した、というのはちょっと違う。計画の杜撰さを指摘しにきたわけでもないし、こうやって三本木の言葉を聞きに来たわけでもない。もちろん、三本木が空を飛ぶのを見に来たわけでもない」

 当然、三本木が飛び降りるのを、黙ってみるわけでもない。

 三本木の顔に、呆気と動揺が走る。訊きたいことが、私にも分かった。

 じゃあ、どうしてか?

「私が来たのは、三本木が呼んだからよ」

 え、という三本木の唖然とした顔。私はかまわず続ける。

「三本木が、私に来いって言ったの。まあ、あんな回りくどいメッセージだったから、来るのに時間がかかりそうだったよ。まあ何とか友達の力を借りてここまで来れたから、よかったけれど。あの翼を壊そうにも、あなたは持っていくだろうしね。場所も書いてあれば一番楽だったけど」

「ちょ、ちょっと待って。一体全体、なにをさっきから言っているんだ。確かにあのCDはニーチェに渡したけれど、別に呼び出したりは」

「まだ、分からないの?」

 やはり、三本木は自分が見えていないのか。無意識にやったことじゃない、意識的なことなのに。自身の思いを、分かっていない。

 なら、私が言うしかない。

 三本木を見上げ、私は訊く。いや、訊くことはしない。断言する。

「あなたは私に、止めてほしかったんでしょう」

 だから私は、ここに来たのだ。

「わざわざ、自分から『空を飛ぶ』なんて言い出して。これ見よがしに翼の模型なんか作って。私に見せ付けるように、『自分は飛びますよ』と宣言したのは三本木、あなた自身」

 はっきり、言わせてもらう。

「あなたが本当に飛びたいなら、自分ひとりで飛べばよかった。なのにあなたはわざわざ私に決意を宣言して、手間をかけて模型を作り、そして私にあのメッセージを渡した。本来まったく必要のない飛行計画を挟んで」

 私は、それに気づいた。だからここまできたのだ。

「今だってそう。飛行予定時間が来たのなら、今すぐ飛べばいいはずでしょう。でもあなたは、この暗い屋上で、ぎりぎりまで誰かが来るのを待っていた。もしかしたらメッセージから連想して私が止めに来るかもしれない、それを期待していた。あなたが私にCDを渡したのは、ずっとあなたを見守っていた私に、隠れたメッセージを伝えるためだったんでしょう」

 三本木は言っていた。

 ――本当は、教えるつもりはなかったんだけど。

 ――ニーチェはあの製作にいてくれたからね。

 ――まあメッセージとして、これぐらいは教えてもいいなと思ったんだ。

「私は今、断言する。三本木はちっとも、空を飛ぼうなんて思っていない。ただそれは、自分の行動を隠すための『言い訳』。ただ、地に落ちていくのが怖いから。誰かに止めてほしかったから。誰かに必要とされたかったから。……本当に飛びたくないと思っているのは、三本木、あなたなんじゃないの?」

 じっと、顔を見据える。

 三本木の顔には、今までの固まったような笑顔はない。今にも顔を崩しそうな、不安定な表情が浮かんでいる。

 おそらく自分自身でも気づいていなかったのではないだろうか。三本木は、自殺するということを決めつつ、自分の心を隠した。決意から目をそらし、見えないことにした。だから無意識のうちに、他人に止めてもらうということを思いついたのだ。

 だれか、止めてくれ。

 いまここで、死のうとしているんだぞ。

 そんなメッセージを発信し続けていたのは、三本木自身だったのだ。

「私はそれに気がついた。に最近一緒にいて、あんなメッセージまでもらったから、思いつくことができた。だから私はここに来た。……もう分かったでしょう。私をここまで呼び寄せたのは、三本木。助けを呼んでいたのは、あなたよ」

 言い切って、私は三本木を見る。相変わらず、端正な顔。今の少しゆがんだ顔が、今まで見た中で最も三本木らしい顔に感じた。仮面をはずした、本当の三本木。それが暗闇でも、はっきりと分かった。

 私は、三本木の言葉を待つ。

 やがて、三本木は口を開いた。

「なら……、どうして、ニーチェは来たんだ」

 あまりに的外れな質問。

 あまりにひどい問い掛け。

 もしすぐ前にいたら、私はひっぱたいていたところだ。

「それぐらい、そんなことぐらい、分かってよ」

 こらえていた涙が、溢れそうになる。必死で、押しとどめる。泣くのは、私じゃない。

「あなたが、あなたが、大切な人だからよ!」

 そんなことにも気づかなかったのか、三本木は。

「あなたが、私にとって必要だから。私にとって、欠かせない人だから。あなたに、生きていてほしいから。だから、私はここに来た。助けを呼ぶあなたを、掴みにきた。どうしてそんな簡単なことにも気づかないの!」

 これを愛なんて、一言で片付けたくない。

「……あなたは私の、名づけ親でしょう」

 脳裏に、昨日見た夢の映像が飛来する。三本木が私に「ニーチェ」というもう一つの名前をつけてくれたから、私は今ここにいるのだ。私を認めてくれたから、私は生きていれる。

 もう三本木は、忘れたかもしれないけれど。

 私が生きているのは、あなたのおかげ。

「さよならなんて、言わないで」

 再会できたとき、運命だと思った。奇跡だと思った。もう会えないと思っていたあなたに、会えた。

 それなのに。

 私の声は、かすれる。

「飛ばなくても、いい」

 私は、認める。

 昔私を、認めてくれた人を。

 私の気持ちは、ただひとつだけ。

 地球だとか、地上だとか、空だとか、関係ない。

 声にならない願いが、あふれ出す。

 ずっと、一緒にいてほしい。 

 止める理由なんて、それだけだ。

 でも、でも。

 分かってほしい。それだけの理由で、私はここまで来た。あなたの悲鳴に、追いついた。

 その事実は、分かってほしかった。

 たとえあなたが、誰の気持ちに気づかなくとも。

 そのことは、分かってほしかった。

 雲は、相変わらず空を覆う。

 月はまったく見えず、人工の光だけが、私たちに届く。

 そして、風がぴたりとやんだ瞬間。

 悲鳴のように崩れる三本木の顔を、私は確かに見た。


  ●仁井 9

 やがて、三本木の口から、震えた声が漏れる。

「……分かんないよ」

 三本木は、目を押さえることも、顔を伏せることもしない。悲しい顔をして真っ直ぐこちらを見たまま、呻く。

「止めてくれるのを、望んでいた? 実は飛びたくなかった? ……分からない。ニーチェが何を言っているのか分からない。自分が何を望んでいるのか分からない。そんなの全部、分かるわけない」

 顔に苦痛がこもる。言葉に脈絡がない。

「今まで散々、縛られてきた。まるで万有引力のように、ずっと締め付けてきた。人間関係、社会、学校、家族、みんなそうだ。人はどうして互いを繋ぎたがるんだ。万有引力のようにそれが『どうしようもないもの』と思っているからか? それとも、すべてに質量があるからか? 一体全体、こんなしがらみに、何の意味があるんだよ」

 暗闇の中、三本木はただ喋り続ける。

「そうやってみんなを雁字搦めにして、それを無視したままギスギスした生活を送っていく。そんなのが楽しいか? そんなのが幸せか? そうやってできたのが社会なんて言えるのかよ。どう考えたらそんな風になるのかさっぱりだ。他の人の気持ちなんて、分かるはずない」

「……三本木」

「自分の思いだって、分からないんだ。ニーチェにメッセージを渡す理由なんて確かに一つもなかった。心から本当に翼を作りたいなら、学校なんか休んでひとりで計画を進めていればよかったんだ。……でも、ニーチェ。それも、しがらみなんだよ。すべて『縛り』が原因だ。そんな計画進めたら、いずれ誰かに止められる。誰かが空に飛び上がろうとしたって、他の人がその足を掴んで引きずり落とすんだ。どうしてだよ。どうして、飛んじゃいけないんだよ。どうして体も心も縛り付けるんだ」

 三本木は呪詛を延々と並べる。やがて、くつくつと笑い始めた。

「……ふふふ、そうさ。だから今日、ここで飛んでやるんだ」

「三本木」

「それら全部振りきってやる。そうだ。そんな縛りやしがらみなんて、全部断ち切ってやる。これを使ば、それができるんだ。この計画なら、この翼があれば。この世の力なんて全部無視して、飛んでやる」

 三本木はくるりと背を向け、翼のほうに歩き寄る。

「ニーチェ。……止めてくれよ」

「え?」

「もう自分のことも分からなくなったんだ。ニーチェがそうやって語ってくれても、心の中でそう考えているとは思えないんだよ。でも止めてくれるのを期待していたというなら、ニーチェ、君が止めてくれ」

 翼をつかみ、後ろ向きのまま私に言う。

「確かニーチェ、高所恐怖症だったろう? おそらくここまで来るのも大変だったはずだ。このコンクリートの上まで登るのはつらいんじゃないかな。なにも意地悪を言っているわけじゃない。でもすべてを振り切るのが使命である以上、この翼を止めるすべてのものを跳ね返さなければ、計画は成立しない」

 もう三本木は、私の方を向かない。ただ一言、ささやく。

「……最後に、話を聞いてくれて感謝するよ。ニーチェ」

「ちょ、ちょっと待って。三本木は自分が何を言っているか分かってるの? 私の話、聞いたでしょう」

 今の話を聞いていたのに、どうして三本木は飛ぼうとするの?

 私の声は、まだ届いていないの?

 私の体が震える。三本木の小さな声が、私の周りに寒気を運んできたようだった。ただひとつの事実が、私の体を縛る。

 三本木は、死のうとしている。

 高いところにいる不安定さとは別に。

 死の感覚が、まるで私を囲うように迫ってきた。

 三本木が死ぬ。

 嘘でしょう?

「三本木……!」

 動かなければならないと分かっているのに、足がいうことを聞かない。こんなことでは、鉄製の梯子を登るなんて無理だ。

 怖い。

 三本木はもう、私のほうを向かない。しゃがんで翼を弄っているのが見える。私の脳裏に先刻のイメージがよみがえってきて離さない。羽を付けた三本木、一歩踏み出す足、堕天使のように落ちる姿。

 私が力ずくで三本木を止めようとしても、無理だ。

「……三本木……」

 三本木は私の呼びかけに答えない。

 ここまで来れたのに。

 ここまで、近づいたと思ったのに。

 まだ私は、三本木と並ぶことはできないの?

 私は上を見上げたまま、その場にへたり込む。

 暗闇で私が発した声は、誰かに届くのだろうか。

「だれか、助けて」


  ◇古瀬 9

 私の耳に、その声が、聞こえました。

 私の行動理由。

 人を助けるときの、ひとつの条件。

 たったひとつの声が、私を動かすのです。

 大丈夫です。

 聞こえていますよ、ニーチェさん。


  ●三本木 9

「止まって、ください」

 突然聞こえる凛と澄んだ声に、私も三本木も振り返った。

 私の声でも、三本木の声でもない。

 月が隠れ、本当に透かすようにしか見えなくなった屋上。

 私が登ってきた階段から近いところに、その声の主は立っていた。

 一歩一歩進むその人影。私の見間違えでなければ、白いワンピースを着た、女の子だった。

 私の手前で立ち止まり、その人は手を伸ばす。

 そして言った。

「届きましたよ、ニーチェさん」

 滑らかな敬語と、その呼び方。思い当たる人はひとりしかいない。

 私は見上げたまま、掠れた声で訊く。

「…………コゼット?」

 その女の子はにこりと笑う。

「はい」

 どうしてここにいるのかとか、訊きたいことが山ほど噴き出してきたけれど、私の唇は相変わらず震えたままで、満足に質問するのも無理そうだった。

 すると、コゼットの後ろからもうひとつ影が出てきた。

 一匹の猫。

 コゼットと同じように私に近づいてきて、じっと見つめてくる。大きさは普通の猫と同じで、背中がすらりとしている。暗闇でも目立つその青い双眸がはっきりと分かった。

 コゼットがその猫を見て、微笑む。

「ふふ、彼がどうしてもついてくるようでしたから」

 コゼットは猫の額を軽くなでた。猫は微動だにせず、私を射すくめるように直視してくる。

 数秒経って私から目をそらし、三本木のいる方にふらふらと向かった。

 三本木も立ち上がって、こっちのほうを呆然と見おろしていた。こんな夜に人が来るとは思わなかったのだろう。ましてや他人に計画を邪魔されないようにしていたのだ。

 ぽかんと口を開けたままの三本木をよそに、その青い目の猫は鉄製の梯子をひょいひょいと駆け登る。そして三本木の前で止まり、顔を見上げた。

 私と同じように視線を向けられた三本木は、驚いた顔のまま。猫がなぜここに、という疑問で頭が一杯のようだった。

 猫は目をそらすとその場に座り、片足で顔を洗い始める。

 じっと見ている場合ではない。私ははっとして、コゼットを仰ぎ見る。

「コ、コゼット。助けて、そこに立っている人が、その」

 今にも、死のうとしているの。

 そう続けようとした、その時だった。

 上を見ていた私の頬に、一滴の水が降ってきた。

 冷たいその水滴は、同じように私の手の甲にも落ちてきた。

 ぽつ、ぽつとその数は増え、降り注いでくる。

 雨が、降ってきた。

 雨は屋上にいる私たちに、平等に水滴を与える。たちまち音を立てて降ってきたそれらに、体が冷やされそうに感じる。

 三本木にも、コゼットにも、猫にも。跳ねるように雨が踊る。

 そして、気づいたのは三本木だった。

「お、おい! 翼が!」

 そばに置いてある翼が、その形を変えていた。

 考えれば、当然の話だった。細い木で骨組みを作り、その肉付けには、和紙を使った。

 そんな翼は、雨に弱い。

 次々と降り注ぐ雨を吸い取り、紙はどんどんぼろぼろになっていった。接着剤がその用を為さなくなり次々と剥がれ落ちていく。ぼたぼたと骨組みの下にたまっていく、灰色になった翼の肉。崩れ落ちていくその様は、風化していく美術品のようにも見えた。

 三本木はおろおろとしていたが、あいにく周りに雨を防ぐものはない。崩壊の様子をただ見ているしかない。

 やがて翼がぐらりと傾いたかと思うと、水を吸って重くなった片翼が根元から折れた。バランスを失った部品はコンクリートの上に音を立てる。

「ど、どうして雨が……」

 三本木が駆け寄るも、もう翼は原型を留めていない。

 三本木の、言い訳。

 これでもう、「空を飛ぶ」なんていう事はできない。

 地に手を着いて愕然とする三本木の下に、猫が寄っていく。雨も気にならないようだった。

 再び猫を見た瞬間、何かに気づいたのか、三本木が声を上げる。

「青い、目…… もしかして、あ、雨降り猫……?」

 雨降り猫?

 しばらく考えて、分かった。三本木が昨日話していた、このあたりの神話だ。

 雨降り猫が現れる地域に、雨が降る。

 この猫が、雨を降らせた。

 そういうことなの?

 到底信じられなかった。

 でもこの雨は、本当に突然だった。猫が現れたのをはかったような、にわか雨。

 ただの偶然というには、出来すぎかもしれない。

 

 私は雨の中、コゼットに手を貸してもらってなんとか立ち上がる。

 三本木を見ると、四つんばいのまま顔を伏せ、声も震えていた。

「ど、どうして…… どうして飛んじゃ、いけないんだ。結局まだ、縛られたままなのか」

 飛ぶ力を失った翼。同じように、何かが抜け落ちたように三本木は声を小さくする。

「……ニーチェ。きみもまた、縛るのか」

 まるで呪詛のような、あきらめのような、そんな呟き。

 私は何も、言い返せない。

 三本木を止めようとしたのは私で、そしてその願いの通り、三本木は飛べなくなったのだ。

 でも、どうすればよかったのか。

 そんな質問に答えてくれたのは、横にいるコゼットだった。

「それは違います」

 雨音にも負けないようなよく響く声で、コゼットは三本木に話しかける。  

「あなたは『縛る』という言葉を、異なる意味で使っています。あなたはこの世の中の繋がり全てを、ただその一言に押し込めようとしているだけです。ただ、目をそらそうとしているだけです。ちゃんと、よく見てください」

 また雨の勢いが強くなる中、語りかける。

「ニーチェさんは、あなたを苦しめたくてここに来たわけではありません。ニーチェさんは気づいたんです。あなたが発した、メッセージに。そしてその願いに気づきたいと思ったからここまで来たのです。そんなニーチェさんとあなたの間にあるのは、しがらみなんかじゃない」

 一言、言い切るように。

「それは、絆と言うんです」

 そうして私を見てから、コゼットは両の手のひらを前に出す。

「人には二つの手、つまり二つの力があります。人を助ける力、そして人に助けられる力です。それは、社会における個人の無力さなどとは関係がありません。その人の意思で行われるのです。人は生きていれば、その力を使うことができます」

 コゼットの話は、私の心にも染み込み始める。

「だからニーチェさんは、ここまで来たのです。あなたを助けたかったから。そのひとつの気持ちで、人は動きだすことができるんです。しがらみで動けない、ちっぽけな存在なんかじゃない。もう一度、目をそらさずに、それを見つめてください」

 そして私のほうを向き、コゼットはひとつ頷いた。

 導かれるように、私は三本木のほうへと近づいた。さすがに梯子を使って登るのは躊躇したけれど、コゼットが背中を支えてくれた。

「大丈夫。落ちませんよ」

 コゼットは何もかもお見通しなのだろうか。

 なら、教えてほしかった。

 私は、どうすればいいのか。

 私は、もうなにも分からなくなった。すべてのものがぐちゃぐちゃになって、ただ高いところにいる不安定な気持ちだけが残っているように感じた。

 そしてただ一人、三本木の姿だけが見えた。

 私は。

 三本木を救おうだなんて、そんな大層なことは、これっぽっちも考えなかった。

 ただ、自分のためだったのだ。

 三本木がいなくなったら、困るから。

 それだけだ。

 だから私には、コゼットの言葉も分からない。

 もう、三本木にかける言葉も見つからない。

 人は本当に、絆というもので繋がっているのだろうか。

 ただひとつ、私自身がさっき考えたことを思い出す。

 ――そのことは、分かってほしかった。

 自分の言葉に動かされるように、私はなにも言わず、膝をついて三本木を抱きしめた。

 これだけで、私の気持ちが伝わるのなら、どんなに楽だろう。

 でも私には、言うべき言葉が見つからないから。

 ただ三本木との繋がりを感じたくて、私は雨が降る中、目を伏せた。


  ●エピローグ

 授業が終わり、私はいつものように席を立った。

 今日も変わらない、がやがやとした教室。

 昨日、生徒の自殺未遂があったなんて、誰も知らないだろう。

 唯一知っている私は、なにも言わず、廊下に出る。

 窓の外を見ながら、昨日のことを思い出し、私は歩き出す。

 ふと、私の最近の悩みについて思い当たったのだ。

 最近、妙にあせっていた私の心。

 それは、「目的」を持つまわりの人々に対する劣等感、だったのかもしれない。

 高校生。大体の人は何らかの目的というものに向かって生活している。そういうものを持っていなかった私は、それについて何も思っていなかった。でも最近、三本木に会って、夢という名の「目的」を見せ付けられた。

「空を自分の力で飛ぶこと」

 そのことは僅かながら、私に焦りをもたらした。みんなが私を置いて先に行ってしまうような感覚。近い存在だった、三本木でさえ、消えていく。

 目的が欲しかった事。

 私の悩みはこのことだった。

 だから私は三本木を見守ったり、コゼットに漠然とした悩みを相談したりした。いくら考えても、私の中にそれは見つからなかったから。

 三本木も、同じだったんじゃないだろうか?

 私は三本木の「しがらみ」を知らない。三本木に何があったのかなんて、本人が語らない限りどうしようもない。ましてやさっき三本木が語った理論なんて、分かるはずもない。ただ私の勝手な想像なのだけれど。

 空を飛ぶこと。

 それはなんて甘美な「目的」だろうか。

 ――空を飛ぶと言う行為は、大昔から人類の夢だ。

 ――人はそれに憧れるんだ。

 三本木も、その目標にあこがれた一人ではないのだろうか。

 人間に元々無い翼をつけ、天使のように飛ぶ。誰も達成したことの無い夢。

 三本木は、それを狂おしいほど望んでいた。

 高いところから落ちると決まっていても、最後までその体で羽ばたくことを目指していたのだ。

 たとえそれが、言い訳であろうとも。

 その点で私と三本木は一緒だったのだろう。

 そう、思った。

 コゼットにはあの後、お礼を言った。

「あの猫にも、お礼を言ってください」

 そう言われたのだけれど、いつの間にかあの猫はいなくなっていた。

 神出鬼没。そう言ってしまっていいのだろうか。

 結局、あの猫がなんだったのかは謎のままだった。

 そしてふいに、小学生のときに子猫を助けたことを思い出した。私はなにやら、猫に縁があるらしい。小さな縁でも、巡り巡って自分にかえってくることがあるかもしれない。

 縁。

 その一言が呼び水となって、昨日の記憶に戻っていく。

 繋がり、しがらみ、絆。

 私は何度考えても、よく分からなかった。

 コゼットに訊こうかと思ったけれど、そこまで迷惑をかけたくない。

 人は、そんなに人と繋がれるものなのだろうか?

 私は、結局どこまでも、自分のためにしか動けなかったのに。

 これで人を救ったと、言えるのだろうか。

 繋がっていると、信じれるのだろうか。

 極端なところ、私だって、みんなが言う「社会のしがらみに縛られている」ということは事実なのだ。

 ただ目標を持たず、学校に通って。

 苗字というものが不安定になって。

 それは確かに、縛られているといえるかもしれない。

 

 でも、あの時のコゼットの言葉は、すごく分かった。

 ――そのひとつの気持ちで、人は動きだすことができるんです。

 コゼットは、自分自身で気づいていなかったみたいだけれど。

 コゼットだって、私のために動いてくれたのだ。

 私の助けのメールから、何かを感じ取ってくれたのだ。

 それは縛りとか利益とか、そういうことを超えていた。

 そこに絆を感じるのは、とてもいいことなのではないかな、と思った。

 私の足が、廊下でぴたりと止まる。

 目の前を、同じように向こうに歩いていく、生徒がいた。

 一昨日、窓の外から見たのと、同じ背中。

「……これも、絆ならいいな」

 私は聞こえないように呟く。

 縛られていたって、かまわない。

 たとえ空を飛べなくても。

 大切な人が、どこかへ行こうとしても。

 私はここで、待っている。

 それが地上に生きる、私にできること。

 私が選んだ道。

 その事実は、しがらみだろうと、縛られていようと、関係がないのだ。

 私は止まった足を動かそうとして、もうひとつ思いついた。

 三本木が語った、万有引力の話。

 距離を無限に大きくしなければ、引力は振り切れない。

 物と物は、引き合い続ける。

 ……じゃあ、距離が零だったら?

 引力は、どうなるのだろう。

 零で割った答えは、どこかに出てくるのだろうか。

 絆が私たちをつないで、距離を縮めてくれたら、違う現象が、起こる。

 それを私たちは、体験したのだ。

 あの雨の中、抱き合うことで。

 あの時、距離は零だった。

 それだけは、信じたい。

 私は、足を動かし始める。

 目の前の、大切な人に向かって進む。

 ゆっくりでもいいから、すべての距離を縮められればいいなと思いつつ。

 私は絆の存在を、静かに祈った。

       おわり


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