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回想、懸想、仮想

 君は、ここを出ていきます。
 僕はずっと、出れません。
 ついに、この日が来たのです。恐れていた別離の日が来たのです。ああ、永遠の別れとはなんと恐ろしいことでしょう。今僕は泣いています。赤の他人にとってはちっとも恐れることのない出来事でしょう。でも僕はこの別れが、呼吸が止まるほど怖いのです。今日は君との最後の日。この数日間、いや数週間、僕はこの日を恐れていました。おそらくこれが、僕の最期にもなるのでしょう。君のいない生活など、生きていないのと同じなのですから。
 君は今日、この教室を出ます。小学校課程の六年間を過ごし、先ほど卒業式を終えました。君が教室にいる理由はもう何もなくなったのです。ああ、なんということでしょう。君も僕も、違う場所に旅立たなければならないのです。僕は、泣いています。あなたも泣いているでしょう。ええ、でも、その涙は僕に向けたものでないことを知っています。感傷か、寂寥か、友人との別れか。それらの要因によってその涙は構成されているのでしょう。唯一、僕との別れは、そこに入っていないであろうことを、僕は知っています。そして僕はそれが、悲しいのです。君の涙と僕の涙が、同一の感情から生まれていないことが分かっているから、涙が止まらないのです。
 ああ、また一滴、僕の涙が溶けました。今でも、僕と君が出会ったころは思い出すことができます。始まりの空気に満ちていた、一年前のあの時を。そう、始業式です。学校とは、そういった厳密な規律によって成り立っています。入学式と卒業式、始業式と終業式、始まりの礼と終わりの礼。なぜこれほどまでに予定を決めるのかと僕は訝しく思っていましたが、今なら分かります。何時か生徒が社会に出たときに出会いと別れを疎かにしないようにという忠告なのでしょう。僕は今、それを痛感しています。ええ、話が逸れました。そう、始業式です。始業式、早朝七時三十分。あの時六年一組の教室には僕しかいませんでした。わずかに差し込む光や水槽ポンプのモーター音、学校が醸し出す乾いた空気だけが辺りを包みこんでいました。そこに、君は入ってきたのです。
 初めてでした。真っ先に僕のほうを見てくれた人は。僕に目を向けてくれた人は。数秒ほどのあの時間が、忘れられません。君はその後、僕たちのほかには誰もいない教室を見渡し、黒板に張ってある席の表を見てから自分の机にランドセルを置きました。教室は、静かです。進級した君にとって、六年一組の教室も初めてだったのでしょう。きょろきょろと見回した後、再び僕のほうを見たのです。そして、そう、あの瞬間。君が僕に向けた微笑みを、まぶし過ぎたその顔を、僕は一生忘れないでしょう。そんな、出会いでした。
 二滴目の、僕の涙が溶け始めます。ああ、悲しい。止まりません。それから僕は、君のことが気になって仕方なくなりました。同じ教室での一年間。僕にとっては、幸せな日々でした。窓際で物思いにふける君の横顔。教室に響く、鈴を転がすような君の声。君が水槽の世話係になったときは、思わず心が跳ねました。僕がずっと思っていたことと重なったからです。おそらく君はその優しい心で、人間も動物も区別することなくみんな大事にするのだろうと、僕はなんとなく信じていました。そしてそれはその通りでした。毎朝教室に来ると決まって餌の準備をし、嫌な顔せず月に一回はポンプのスポンジを掃除し、一通り係の仕事が終わると、柔らかな瞳で水槽の前に佇んでいるのです。聖母のように優しかった。ええ、僕は、君の性格が好きでした。他にも、クラスの中でも、目立ちすぎることなく、かといって何もしないわけでもなく、自分の役割を自分でしっかりと理解して、皆と接していました。同学年の他の子にありがちな内弁慶さもなく、君がクラスで人気者になったのもうなずけます。
 沢山の思い出が押し寄せて、また涙が溶けました。これで、三度目です。でも君にも、弱いところはありました。おそらくそれは、僕だけが知っている君の姿だったのでしょう。六年生になると、中学進学という大きな問題が誰にも等しく押し寄せます。君は公立にしようか私立にしようか、ずっと迷っていました。おそらく君はみんなと同じように、近くの公立校に行きたかったのだろうと推測されますが、君が最後に選んだのは、親に勧められた遠方の私立中学校でした。僕はその事実を教室で話す女の子の会話で知りました。でもそれは、君の心からの選択ではなかった。ある日、三者面談を終え、一人ぼっちの教室で荷物をまとめていた君は、急に泣き出しました。僕はそれを止められないまま、ただ見ていました。誰にも見せない、君の弱さ。あの時、どれほど僕は話を聞いてあげたかったか。それはできませんでした。ああ、それでも君は、あの時の悲しみを乗り越え、今日、この教室を旅立つのでしょう。なんと強靭な心。
 もう、もう、駄目です。涙が止まりません。ああ、僕のこの気持ちを、どうやって表現すればいいのでしょう。僕にはそれができません。お願いです。僕を、連れて行ってください。君の思い出とともに、僕の全てがこの教室にとどまり続けてしまうであろう未来が想像できるのです。出れなくなることが分かるのです。僕はここから、ずっと出れません。硝子で囲まれたこの空間から、二度と逃れることができないのです。ええ、どうぞ、君の進むその道のすぐ傍に、僕を置いてください。この教室に居座るのは、もう僕には無理です。今までは、こんな感情に囚われたことなどなかったのに、君に出会ってしまったことが、僕の心を限りなく変えてしまった。今すぐ、自分の体ごと捨ててしまいたい。鳥でも、蝶でも、空気でも、なんでもいい。なにかに変わって、君の傍へと行きたい。そしてそのまま、ずっと生きたい。僕の願いは、それだけなのです。
 おお、君は、もう行ってしまうのですか。この教室を出て、永遠に戻ってくることはないのですか。なんと、なんと。もう、僕はつらい。僕が生きるこの道は、地獄です。君の姿を、君の笑顔を、君の優しさを知ってしまったからには、もう元には戻れません。お願いです。僕を、僕を、ここから出してください。
 ああ、君は今、泣いているのですか。確かに教室には、今他に誰もいません。誰にも見せない、君だけの涙。そうですか、もしや、君も悲しいのですか。ああ。この学び舎から出るのが悲しいのですか。そう、そうなら、僕はそれだけで嬉しい。そう君が思ってくれるだけで、僕は、救われます。思い出の水槽の前で涙を浮かべる君の顔を見ていると、僕も涙が止まりません。ありがとう、泣いてくれて。
 ひとつだけ、お願いをしてもいいですか。聞いてくれなくても大丈夫ですが、先ほど僕が口走ったような世迷い事は言いませんから大丈夫です。ただひとつだけ。その涙を、溶かしてください。君の涙を、溶かしてください。そうすれば、僕の涙と君の涙が混ざり合うことができるでしょう。成分が一つになって、悲しい理由も、その思い出全ても、共有されるでしょう。そしてそれは、僕の中に、残り続けるのです。
 そうです、はい、君がお世話をした、思い出の水槽の中に、涙を、落としてください。ぜひ。分かっています。分かっていますよ。この願いどころか、僕の言葉全ては、君に聞こえていないでしょう。それでも僕は、お願いすることを止められません。その涙、一滴で構いません、それで僕は、救われます。
 ここから僕は、出られないから。この透明な水中で、涙を溶かし続けることしかできないから。
 ああ、その涙で、哀れな僕を、救ってください。思い出を、永遠にしてください。僕はその涙だけで、生きていけます。
 君は今日、この教室を出ます。
 僕は、いつまでもこの教室を出れません。
 それでも。
 水槽から出れないメダカの僕は、君の涙だけを思い出にして、この水中で、生きていきます。

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Author:義里カズ
YOSHIZATO Kazu
物語書き。ネットで文章公開中。

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