メンカルの理由


 はたはた、というのが噂になった。かなり昔の話だ。
 魚のハタハタではない。あたしは魚を見分ける力がからっきし無くて、田んぼのドジョウをウナギと呼んでしまったり、海のウツボをウナギだと思ってしまったり、とにかく散々なのである。今でもイワシとアジの区別がつかない。
 「はたはた」というのは、そういう名前の妖怪らしいのだ。出るといわれる場所は小学校近くの廃坑。夜にそこへ行くと妖怪が飛びかかってくる、という噂なのである。小学生の頃というのはそういった馬鹿な噂でも楽しんだり怖がったりするもので、廃坑に近づくような生徒はまずいなかった。さらにその噂には尾ひれがついて、「成仏できない怨念がはたはたになった」であるとか、「はたはたを見ると廃坑に引きずり込まれる」であるとか、根拠不明で事実無根の都市伝説へと変化していった。後輩にまで伝わっていたのだからすごい。
 妖怪の見た目はコウモリに近いらしい。一対の大きな羽根と同数の尖った足が目立つ漆黒の化け物。胴体は限りなく球体に近く、闇夜でも双眸が目立つとのこと。むしろどこかのマスコットのような印象すら受けるけれど、小学生の時分はそれを想像するだけで恐怖を感じるものだった。
 今のあたしにとっては笑い話である。ここまで喋ったのだから無粋だとは思うが一応付け足しておくと、件の廃坑にはおびただしい数のコウモリが生息しているという。
 コウモリと「はたはた」がどう絡まるかどうかは知ったことではないけれど、まあ参考までに、ということで。

 区立図書館のリフレッシュルーム。
 サンドイッチの包装を丸めてビニール袋に突っ込み、テーブルを片付ける。お昼というのに人は少なく、あたしの他には灰色の服を着た初老の男性しかいない。
 図書館構内は飲食・持込禁止というのが鉄則。特に学生は目を付けられやすく、バッグからはみ出したペットボトルが見つかって没収という例も聞いたことがある。目を付けられるのはよくない。これからもこの場所とは長い付き合いなのだ。
 空の紅茶パックとビニール袋をゴミ箱へ投げ込んで、あたしは構内へと戻る。自動ドア、磁気ゲート、中央廊下を順に通り学習室へ。あたしの定位置は窓を望める東側。筆記用具は広げたまま。本当はあまり良くないのだけれど、今日は人が少ないし許される範囲だろう。
 さて再開、と思ったけれど、どうにもやる気が出てこない。何せ今取り組んでいるのはグループ課題。区内の気になる事項について調べ発表するといういかにもありがちなフィールドワークだった。サボるわけにはいかなくてこうして慣れない書物を広げメモを取っているわけだけれど、夏休みの前半に勉強ばかりではモチベーションが上がるわけがない。
 本を読むのは好きだけれど、それはあくまであたしの中では小説か漫画。目の前の本には当てはまらない。地元の情報に関して書かれたそれらも面白みのあるエピソードで埋まっていれば喜んでページをめくるのだけれど、おあいにくさま、人口の増減に対して延々とデータと推測が並んでいて、眠気を誘うこと請け合い。ほら、こっちの本なんかは枕に最適じゃなかろうか。
(……片付けよう)
 どうせこれからもこの図書館には通うことになるのだし、集中力が切れた今の状態で優等生の真似事はとてもつらい。
今日はとりあえず切り上げて、残りの午後を読書か買い物に充てるのが順当だろう。息抜きに小説を借りるのもいいだろうし、帰り道の途中には本屋もある。
 本を重ねて立ち上がり、それらを抱えて部屋を出る。中央廊下を横切り、本棚に資料を収めなおす。最近はやっと十進分類を覚え始めた。今までは日本文学の913しか知らなかったし。
一冊だけは奥の書庫のもので、少し遠いのが難点だった。
 と、その横、「休憩室」と書いてあるのが目に留まる。ベージュ色のドアが少し手前に開いていた。この部屋は利用したことが無い。よく見ると部屋名の前に「旧」とマジックペンで付け足してある。
(へえ、昔のリフレッシュルームはここだったのね)
 飲食物は持ち込み禁止だし、飲食スペースは外へ移動することにしたのだろう。こっちの部屋はどうせ物置にでもなっているに違いない。ドアの隙間からは棚が見えた。
 立ち入り禁止の札もないし、間違えて入ったといえば下手に怒られはしないに違いない。少し興味がある。あたしはドアを引き、足を踏み入れた。

 やはり物置に近い。本来の書庫なら本棚にはあふれるほどの本が並んでいるはずだけれど、この部屋の棚には書類や段ボール箱が乱雑に詰めてあった。長らく利用していなさそうである。西側にある大きなブラインド付きの窓が辛うじてこの部屋を明るく保っていて、どこか別の建物に入った気さえしてくる。
 部屋の中央には、アルミ製で腰の高さほどの小さな棚が横切っている。もしこの棚も背が高ければ、部屋の暗さが際立って見えただろう。
「理由を見つけてくれるかい?」
 どくん。
 心臓が止まりそうになる経験というのはそんなにあたしも多くないけれどこのときばかりはそう思った。前触れも気配も無く、耳元で。下手に背中を叩かれるよりもびっくりするものだ。振り返る。
 丸っこくて羽の生えたのが、そこにいた。 

 冗談だと思っていただいて構わないのだけれど、最初は本当に「はたはた」だと思ったのだ。
 色が黒ではないが、楕円形の胴体と一対の羽は、「はたはた」のイメージにかなり近い。むかつくことに愛らしさをアピールするがごとき目鼻は丸っこくて、口はない。黄緑色の肌。濃紺色の斑模様が胴に巻き付いている。
 どう考えても妖怪の類である。
 あたしは反射で一歩後ずさる。棚に踵が当たる感触。
 ホバリングした目の前のそれは羽を動かすばかり。一体なにが悲しくてあたしはこんなものを見つめているのだ、というある種達観した思いすら浮かんでくる。
 再び声がした。
「理由を見つけてくれるかい?」
 おそらくこの妖怪のものだ。あたしの混乱は最高潮に達し、思考が散乱する。いやいや、「はたはた」の正体はコウモリであったはずである。小学生当時のあたしなら騙されるものの、中二にもなって妖怪の噂を信じるほどこの社会に夢見てはいない。
 なら、目の前のものはコウモリなのだろうか?
 いくらサケとマスの区別がつかなくたって、目の前の空中浮遊野郎とコウモリを結びつけるわけにはいかない。鯉と鯉のぼりの方がまだ見分けがつくだろう。こいつはコウモリというにはそれほど色が暗くないし、足も無ければ耳も無く、ましてや小動物然とした感じすらない。なら、これは?
 最終的な推論が出た。「幻想だよね……」

 この生き物、口が無いのによく喋る。
「きみの足音がによばれたようで出てきてしまったよ。いったいこれはどういうことなのかメンカルにも分からない。さあ、きみの名はなんというんだい? このメンカルにその名をおしえておくれ」
 あたしはというと、本棚に背を付けながら脳内にこびりついた目の前の幻想をどう取り除こうか考えていた。
 えーと。そもそも幻が浮かぶほどあたしは日常生活にストレスを感じていただろうか。夏休みの前には区内弁論大会への出場を打診されて三日ほど悩んだけれど結局拒否したし、宿題は順調に消化しているという自負があるのでそういったプレッシャーは無い。いくら女子中学生という職業だからといって悩みを数十個も抱えていられるほど丈夫ではないのだ。ストレスなんか飛んできた途端に打ち返す意気込みである。
「おかしいな、メンカルのしつもんはまちがいなくきこえているはずなんだが。どうかい、君? しつもんのじゅんじょをまちがってしまったか。それともひさしぶりでそのほうほうをメンカルはわすれてしまったのだろうか。ああおろか。なにかまちがっていることがあればおしえておくれ」
 えーと。ならば寝不足。その可能性は考えるにも値しない。今日だって起きたのは九時頃だ。三日に一度は母に寝坊を叱られる。幻想が訪れるほどの睡眠不足に陥ったことは皆無といっていい。
「それとも君は理由を教えてくれるきがないのかな? 理由というのはたしかにあまりにむずかしいものだ。それをとっさにこたえられるものはおおくないだろう。しかしだからこそメンカルは君にとうのだ。それはおたがいがなまえをしるのと同じようにせいらいてきなことなのだよ。さあすぐにとはいわない、しかしじかんはない。しつもんというものはしんせんでなければならないのだから」
「ああああ。うるっさいんですけど!」
 思わず叫ぶ。
 さっきから耳元で長々と演説されてもこっちにとってはただのノイズ。ましてや訳の分からない妄想生物が目の前を空中浮遊していたからって、あたしが礼儀正しく応対する筋合いは全くない。
 憎いことにあたしの反応が嬉しかったのか、コウモリ野郎は一層羽ばたく。
「ええ、ええ。やはりそれでこそ人だ。そうして反応してくれなければこちらもがんばってことばをつむぐ意味がないというもの。しかしうるさいとは予想外であった。いったい君のなにがそのさけびをうみだすのかね」
「あんたのせいに決まってんでしょうが! さっきからうるさすぎ。突然意味不明な姿で現れただけでも迷惑なのに喋んないでよ」
 なぜこんな生き物と言い争いをしないといけないのだろう。そもそも、この声の主がこいつであるという確証すらないのに。
「めいわくとはもうしわけないことをした。ならばかんけつに言おう」あたしの顔に近づいてくる。鬱陶しい。「理由を、みつけてくれるかい?」
 理由。さっきも聞いた言葉だ。
 妖怪マダラコウモリがいつまで経っても詳しく説明してくれないので訊いてやる。
「理由ってなんの」
 そいつはホバリングの動きを止めた。
「ええ、ええ。そうだ、分からないのである。メンカルがここにいる理由が」

 家に戻り、ベッドに倒れこむと、ようやく現実の感覚が戻ってきた感じがする。
 自室の匂いはライムミント。いつものお香を感じ取って、体のスイッチがオフになる。
(疲れた……)
 結局帰ったのは夕方の六時。お昼からずっとあいつと話していたのだから、どれほどの疲労になったかは推測してもらえるのではないだろうか。第一、あいつは喋りが長い。ほんの少しのことを聞き出すのにどれだけかかったか。
 あいつ メンカルという名前らしい生き物 が一体何者なのかは、さっぱり分かっていない。名前を聞きだしたのが精々だ。そもそも本人が疑問に思っているのだ。「どうしてここに現れたのか」と。まるで記憶喪失だ。
 ちなみに数時間話したり殴ったりして、やっとあたしも納得した。あれは「はたはた」でもコウモリでもない。いうなれば幽霊か妖怪か。こっちが触ろうとしてもすり抜けてしまったし、得体が知れない。それでいてあいつの響くような声が耳に入ってくるのが嫌だ。
 驚いたのは、ちょうど区立図書館の閉館時間である五時が近づいた途端、メンカルの姿が消えたことだった。
 メンカル。変なやつだった。
 起き上がって、自室を見渡す。なにもいない。まったく、あの部屋を抜け出して以降、嫌な予感が抜けない。もしかしてあいつがついてきているのではないかということだ。それこそ「とり憑かれている」ように、背後霊よろしくずっと肩にでも乗られたら鬱陶しい。
 眠りにつきつつ、今日寝るときは夢に出そうだと思ってしまった。

     ***

 次の日。図書館に行く足は憂鬱。
 もともと、課題を終わらせるために毎日通う予定だったけれど、さすがに昨日あんな出来事があったら、気持ちが鈍るのは当然のこと。あの部屋へ近づかなければいいだろうとは思うものの、ついつい気になってしまう。
 そういえば昨日はかなり大きな声を出してきた気がするけれど誰も来なかった。あの部屋だけ変に別の建物になっているような印象すらある。
 夕方になって、旧休憩室へと結局足を向けてしまう。
 構内を通りながら、一応あたりを見渡す。昨日以上に人が少ない。長時間勉強するにはとてもいい図書館だと思う。
 部屋の扉は昨日と同じく片手が入るくらい開いていた。使われていない倉庫となっているはずなのに。
(あいつがいるか確かめるだけ……)
 すぐに帰ることを自分に言い聞かせながら、ドアノブを握る。
 なにもいない。
 ほっとして部屋に足を踏み入れた。窓の端から西日が覗いていて、本棚を僅かに明るくしている。埃っぽさはあまりなく、前回来たよりは暖かく感じる。幻なんているはずがない。
「来てくれるとはおもったが、いささかじかんを気にしないしょうぶんのようだね、君は」
 耳元!
 あたしは飛びのいて部屋の端に尻餅をつく。さっきまで耳があった位置に、あいつが浮かんでいた。斑模様の空想コウモリ。
「こいつ憎たらしいったらありゃしない……」
「ええ、ええ。メンカルはメンカルであり『こいつ』という名ではないと言ったばかりではないか。『こいつ』というこしょうはあまり好ましいとは言えないな」
「うるっさい! 出てくるなら出てくるって言いなさいよ。こっちは『昨日は全部幻だったんだ』って納得しようとしてるのに、あんたはのうのうと……」
 羽を揺らす不思議生物二日目はこちらへと無遠慮に近づいてくる。「『こいつ』でもなければ『あんた』でもない。メンカルだ」
 そこはそんなにこだわる所なのだろうか。しかしそう呼ばなければ話が進まなさそうで、あたしはあくまで不本意ながら名を呼ぶことにする。
「……メンカル」
「よろしい」
 まったく、面倒くさい。

 昨日もたくさんのことを聞いたけれど、今日も質問事項がある。「メンカル、あんたは現実の生き物なわけ? あたしが見たことのない新種とか。それとも幻想?」
 目の前でホバリングを続ける彼。「ええ、ええ。メンカルにもそれは分からないのだ。ここへあらわれた理由が分からないように。むしろ君にならそれらをときあかしてくれるのではないかと期待している」
 なんと他人任せな。記憶喪失かなにからしい。かといって出会ったばかりのあたしに存在理由を尋ねられてもどうしようもないのが事実である。
「じゃあなにか魔法とか持ってたりしないの。特殊能力とか技術とか」
 まあ飛行したり突然出現したりするのもれっきとした能力であるけれど。
 体を揺らすメンカル。「ふむ、一つだけある」
「なに?」
「夢を見せる」
 へ? と訊こうと口を開いた瞬間。
 目の前が傾き、体の右側が床に叩きつけられる。とっさに受身を取るはずの手足がまったく動かず、それどころか起き上がろうにも力の入れ方を忘れてしまったようにすら感じる。
 横になった視界が水中のように歪み、一面が灰色へと変わっていった。

 …………雪だ。
 それらを見ただけでわかる。
 昔からそうだった。地元の雪は大抵ぼた雪。季節風と海の影響で雪に水っ気が多いのだと中学校で教わった記憶がある。
 そんな理由で、吹雪の中でもこの場所が故郷だとはすぐ気付いたものの、あたしが一体どこに立っているのかには少しの推理を必要とした。
 いったい何事だ。
 一面の雪、所々盛り上がった十字の線、遠くには水路。
 足元も白い物質で埋まっているけれど、そこからほんの少しだけ茶色の草が覗いている。
(農道だ)
 あたしはこの道を知っている。ここから六分ほど真っ直ぐ歩き、左に曲がって山沿いを進む。農協を超えれば昔から遊んだあの地域。
 記憶の正しさを証明するため、振り返る。あたしはそこに建っているものを知っている。
 小学校の校舎。三〇〇メートルほど向こう、並木をくぐると裏門が見えてくるはず。正門のほうが道路は整っていたけれど、あたしの家からは遠回りだった。
 懐かしさが先行して、あたしはすべてを忘れそうになる。
 自分の体を見下ろす。あまり寒くない。周りのほとんどが雪で満ち、こうして立っている今もぼた雪が纏わりついてきているというのに、それほど身体が冷たく感じなかった。その不可解さがなぜか心地よくて、立ったまま辺りを見渡す。引っ越して四年は経つから、この景色ももはや思い出の一部となっていた。
 歩いてみようかと思ったところで、後ろから雪を踏みしめる音がした。
 小学校の方向から歩いてくる。吹雪に身をかがめ、農道の雪を踏みしめ、懸命に歩を進める、赤いランドセルの女の子。
 その姿を見て、あたしは動揺する。
   どうして、
 フードをかぶったその子の顔までは見えなかったけれど、その上着には覚えがある。
   どうして、あの時のあたしが、
 その子のつける紺色の手袋は、母が買ってきてくれたものであることを、知っている。
   どうして、あの時のあたしが、そこにいる?

 …………冷たさが暖かさへ変わる。
 白の景色から灰色の視界へ、そして横になった世界へと戻ってくる。
 床の感触が頬から伝わり、その微妙な心地に、あたしは首を上げる。身体を起こすのにも数秒を要した。
 旧休憩所。本棚と段ボールに囲まれた部屋。
目の前を浮遊する変な生き物。
「……メンカル、あなた」
「きょうは時間がきてしまったようだね。君のあらわれかたがおそかったものだから、しかたがない」
 天井からアナウンスが聞こえる。閉館十五分前のお知らせ。
「またくるといい。そして、いつか理由を見つけておくれ」
 そう言って、メンカルは霞のように消え去った。まるで閉館アナウンスが変える合図であるかのように。
 あたしはもう頭がふらふらして、起きあがってその部屋を去るので精いっぱいだった。余計なことなんて、考えられなかった。

     ***

 帰ってから朝までずっと、夢のことしか考えられなかった。
 メンカルが見せてくれた、雪の景色。
 おそらくあたしの思い出だけれど、なにせかなり前のことだ、覚えていることは少ない。小学校を卒業してすぐこの区に来たから地元の景色の記憶もいくらか曖昧。いまさら確かめる術もなく、昔のことを回想するしかできることはない。
 あんな出来事、あっただろうか。
 吹雪の中を進む昔のあたしの姿。
 故郷の積雪量は確かに多かった。あの時「彼女」が歩いていた道も、たまに使っていた家への近道でまず間違いない。
 しかし、ああやって一人で雪の中を突っ切ったことがあったかというと自信がないのだ。止むのを待つか、仕事が終わる母に電話で助けを求めていただろう。
 あれくらいの「彼女」の背、小学校高学年くらいだろう。必死に記憶を遡る。しかしもう、故郷から離れてしまった今、あんな景色と思い出はアルバムの一枚でしかない。
 確かめるには一つ。もう一度。

 朝、真っ直ぐ図書館へ向かう。
 夢のことが気になってしょうがなくて、勉強道具すら持ってこなかった。真っ直ぐ休憩室へ足を向ける。
 ドアは開いていて、招かれているようにすら感じた。
 部屋に入り、すぐに呼びかける。
「メンカル! いるんでしょ」
 しんとしたままの室内はまだ暗く、いくらか涼しい。棚がぼんやりと浮かんでいるようにすら見える。むしろあたしの目が揺らいでいるのか。まだ昨日のことを現実だと認識していないのかもしれない。
 昨日の教訓から、背中から来ることを意識つつ、部屋の真ん中まで移動する。見渡してもどこにでもいない。
 第一、ここに来たからといってメンカルが出現するとは限らないのだ。二日間の幻という可能性も十分にありうる。変に気負いすぎかもしれない。
「ふむ、じかんを気にしてくれるようになるとはうれしいことだ」
「今度は頭の上なのね……」
 こいつの出現法則を猛烈に知りたい。
 顔の高さまで降りてきたメンカルがはっきり目を合わせてくる。
「ああ、ああ。昨日とはちがう、けついのひとみだ。なにか思うところがあったのかい」
「決意なんてどうでもいいの。もう一回あの夢見せて!」
「ふむ、そのことか。しかしその勢いは一体どうしたのかね」
 勢いも決意も知ったことではない。気になって仕方がないのだ。
「お願いだから、能力もう一回使って。あの時のあたしが何をしていたのか、知りたいの。それさえ分かったらあとはメンカルの言うこと聞くから。理由でもなんでも探してあげる」
 珍しくふらつくメンカル。飛ぶリズムが崩れたように目の前を上下に動く。やがてあたしの目線の少し上で止まった。
「ああ、ああ。むしろこの力を使うことはメンカルのためでも君のためでもある。理由を見つけておくれ」
 そして来る、身体が浮くような感触。
 昨日のように倒れたりはしまいと思っていたけれど、それは無理だった。むしろ地面のほうが傾いているようにすら感じる。床があたしの右に迫り景色も回転し、そのまま灰色になって全てが薄れていく。

 …………これほど白くては、寒くない方が不安に思える。
 昨日と全く同じ場所。雪の降り積もる田園の畦道に、あたしは立っていた。
 雪がまつ毛に付き、反射的に手で拭う。感触も冷たさもなくて、少しばかり不安になった。
 後ろで踏みしめる音。振り返ると、小学校の校舎と敷地を背景に、一人の女の子が歩いてきていた。昨日と同じ状況。
(あたしだ。昔の、あたしだ)
 ランドセルと上着と手袋。「彼女」の服装にはなにもかも見覚えがある。前傾姿勢で彼女は横を通り過ぎた。フードと吹雪で見えないのか、それとも今のあたし自体が透明人間にでもなっているのか。おそらく後者であろう。これは夢なのだ。
 そのままランドセルの彼女は農道を進み、学校から離れていく。家に帰るルートだ。通いたての頃は遠回りでも舗装道路を使っていたけれど、交通量や行程を考えこちらを使うことが多くなっていた。
 昔のあたしが一生懸命進む道を、後ろからついていく。
 なんだか変な気分だった。昔の自分とその風景が夢や幻の類だと分かっていても、いや分かっているからこそ、現在のあたしがここで歩いているということに可笑しさを覚える。言ってみれば明晰夢に近い。
 時折強い風が吹き、彼女がよろめく。助けることはできるのだろうか。彼女だって、見えない何者かに手を差し伸べられたら怖いかもしれない。おとなしく見守る。
 やがて道を曲がり、田の景色を抜ける。山に沿う一車線の道路だ。右には杉の木が斜面に並び、それらに雪が吹き付けて変な造形になっていた。ここからは農協の建物まで歩く。そこからは道路も広く楽なはずだ。
 しかし、小学生の彼女にこの吹雪はきつい。ひときわ大きな風が横から吹き付け、それに耐えられない彼女は雪の積もる道にうずくまった。
 どこを見ても真っ白。山で風の向きが変わり、猛烈な風の音を立てる。それに混じり、伏せる彼女の声が耳に届いた。
「……お母さん……」
 そうだった、あの頃は母に頼りっぱなしだった。そんなことをふと思い出す。母の足にいつもべったりとはり付いていたのだ。最初に学校へ行く日も駄々をこねていたと家族はことあるごとに話してくる。
「かえりたい……はやくかえりたい」
 どんどん風は強くなる。
 母は仕事の終わる時間が不定期で、天気が悪くても迎えに来られない時があった。そういう場合、当時のあたしは教室で待つか図書室へ行くかして、天気がよくなるか母が来てくれるか、そのどちらかを待っていた覚えがある。
ただまあ、雪が止むだろうと予想し、こうやって無理に帰ろうとしたこともあったかもしれない。
 伏せる彼女に積もる雪。
もう見ていられない。どうにか彼女を助け起こそうと思ったその時、吹雪の向こうから男の子が近づいてきた。
「……大丈……夫……か?」
 風の音が大きすぎて、途中からその男の子は声を張り上げだした。
同い年くらいだけれど、見覚えはない。上下に青いウインドブレーカーを着てフードをかぶり、サイズの合っていない長靴を履いている。
 昔のあたしは座ったまま顔を上げるけれど、同じようにその男の子が誰か知らないようで、呆けたように見つめるだけだった。
 男の子の声はどこかで聞いたことがあるような気がする。
「車来たら危ないから……ほらこっち」
 男の子は彼女の肩を持って、半ば無理やり道路の端へ連れて行く。そのまま道を進みだした。
(え、ちょっと)
 そっちは家と違う方向、学校に近づく方角だ。どちらかといえば山に入っていく道で、こんな大雪の中登山なんて正気ではない。しかし男の子はどんどん入っていくので、傍観者のあたしとしてもついて行くしかない。
 反芻する。こんな思い出、あっただろうか。

「……こんな場所、知らなかった」
「だろ。俺ら探検して見つけたんだ」
 洞窟。そこは薄暗く、それでも外の雪が反射して、ある程度見渡せる。山に入ってすぐ道を外れたところにあり、折れ曲がっていることで雪も入り込まないようだった。
「せめて風が止むまで休もうぜ」
 男の子はそう言って手近な椅子に座る。昔のあたしはというと、きょろきょろ辺りを見渡していた。
 洞窟の奥は狭まっているもののいくらでも進めそうだった。休憩する場所としてはいいけれど、なんだかすごく危なそうである。
 観察する昔のあたしに気づいたのか、男の子が説明してくれる。
「ずっとほら穴が続いてるんだ。ここ歩いていくと、どこにつながると思う?」
「どこ」
「学校の裏。ほら、坑道ってあっただろ」
「へー……」
 坑道?
 その単語を聞いて、あたしの脳が反応する。そうだ。坑道の入り口が、小学校の裏山にあった。とっくに廃坑になって、立入禁止になっている。そして、その廃坑には
 男の子はフードを取り、雪を下ろす。
 顔は見覚えがなかったけれど、話し続けるその声は、やはりどこかで聞いたようで。
「ここ、あんまり奥まで行くとコウモリの巣だけどな。ものすごい数いるから。……そうだ、知ってるか?」
 首をかしげる当時のあたし。それを見て男の子は口角を上げる。
「俺の友達に聞いたんだけどさ、この洞窟、妖怪が出るんだぜ」

 …………世界がまた傾いて、灰色の部屋に戻ってきた。
 あたしはそのまま目を閉じる。
 そうだ。
 彼に、聞いたんだ。
 妖怪「はたはた」の噂を。廃校に出るというそれの正体が、コウモリであることを。
 こんなことを忘れていたのか、あたしは。
 やっと思い出した。

 『風は止んできたけど、一人で帰れるのか? 別の方向だろ』
 『わかんない。……えっと、きみは?』
 『どうだか。積もってきたし。俺は頑張って走るけど』
 『そう……』
 『なんだか心配だな。そうだ、約束しようぜ』
 『約束……?』
 『それぞれ無事に帰ること。お互いに気に掛け合えばなんとかなるさ』

 目を開ける。床で横になるあたしの目の前に飛んでくる、メンカル。
「大丈夫か?」
 その声で、確信する。
「メンカル、あなたはあの男の子だったのね」
 あの後、あたしはなんとか家までたどり着いた。男の子も無事帰れたのか気になったけれど、彼のことは名前を含め何も知らない。確かめられないまま、あの出来事ごと忘れてしまったのだ。
 なにもかも懐かしくなった。メンカルが細かく羽ばたきだす。
「俺の、理由を見つけてくれるかい」
 理由?
 メンカルが、彼がここに出てきた訳。
そんなものは簡単だ。
「約束を守りに来てくれた。でしょう?」
 連絡が取れなかったのは男の子のほうも同じ。もう何年も前の話だけれど、向こうも気にかけてくれたのだろう。
二人とも無事に帰り、お互いのことを気に掛ける約束。覚えていなかったあたしのために、わざわざ妖怪の格好で、夢まで見せてくれて。
 そのおかげで思い出した。感謝の念を込めて、告げる。
 あたしが伝えたかったこと。彼が多分、聞きたかったこと。
「ありがとう、大丈夫……ちゃんと今も生きてるから」
 その瞬間、西日が目を刺す。窓からの光が本棚を照らし、部屋を白で満たす。
 目が慣れたころには、もう彼はいなくて、無骨な棚だけが残っていた。
 誰もいない部屋で、あたしはもう一度、頭を下げる。

     ***

 次の日も図書館に行く。
 ここ数日夏季課題をサボっていたから今日からは頑張らないといけない。本を担いで読み込み、ノートに落とし込む。
 夕方気になって旧休憩室に近づいてみた。いつの間にかあの部屋の扉には鍵がかかっていて、あたしが入り込んでいた三日間はいったいなんだったのかと思わせる。
 でも、もう彼が出てくることはないのかもしれない。約束は果たした。
 彼は記憶喪失のようなことを言っていたけれど、本当は全部分かっていたのではないだろうか。夢を見せてくれたことも、あたしのことを何も聞かなかったのも、それによる行動になっている気がする。それになにより、自分のことを「メンカル」と呼んでいたのに、最後の時は「俺」だったのだから。
 本当に不思議な体験。誰かに話したら、信じてくれるだろうか。
 最初は彼の見た目でひどいことを何度か言った。今だって、あんな姿の生き物が出てきたらあまりいい反応ができる気はしない。
 それでも、まあ。
 今度彼が出てきたら、少しくらいは優しくしてあげようと思っている。

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Author:義里カズ
YOSHIZATO Kazu
物語書き。ネットで文章公開中。

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